第2章:宗教ウィルス 〜三つ巴の分断永久機関〜
観測者Sがデスクの上の水槽を覗き込むと、サピエンスの歴史はすでに【中世】と呼ばれる血と泥の時代へ突入していた。
彼らの時間軸で言えば千数百年の歳月が流れたが、宇宙外の時間軸では、タツノオトシゴのような彼らが「ほんの1分間」席を立ち、冷たいカプセル飲料を1錠だけ頭部に流し込んできた程度の瞬きに過ぎない。
〖初期OS(神話)のままやと、少し戦争の効率が悪いねんな……〗
観測者Sは単眼レンズの焦点を中東の砂漠へと合わせ、実験ノートに新しいインフラの構想を書き殴った。
ギリシャやエジプトの多神教神話は、サピエンスに「支配」と「闘争」を覚えさせるには十分だった。
だが、彼らは利害関係(損得勘定)が一致すると、意外とあっさりと戦争をやめて和解してしまうという弱点(理性)があった。
課題の提出期限が迫る観測者Sにとって、サピエンスが理性を保って平和を維持することは、システム上の重大なエラー(停滞)を意味する。
彼らに必要なのは、一度火がついたら絶対に引き下がれない、損得を超えた「狂信の永久機関」だった。
そこで宇宙外の端末から地球へ向かって送信されたのが、次世代の精神破壊プログラム【宗教ウィルス:一神教】である。
観測者Sは、あろうことか「アブラハム」という一人の預言者の血脈から、キリスト教とイスラム教という、根っこが全く同じでありながら、お互いを「絶対に悪とみなす」排他的な双子のプログラムを派生させた。
「我が神以外は認めない。異教徒を滅ぼすことこそが、聖なる正義である」
この「一神教」という脳のバグは、サピエンスの歴史を最も美しく、最も凄惨に塗り替えていった。
彼らは同じ聖地「エルサレム」という狭い土地を奪い合うためだけに、十字軍などの血みどろの戦争を何百年も、それこそ何世代にもわたって自発的に継続するようになった。
そして、この宗教ウィルスが最高潮に達した時、サピエンスの社会構造は宇宙人の設計通り【政権(国家)】【帝国(王権)】【宗教(教皇)】の完璧な「三つ巴の呪縛」へと収束した。
その生々しいシステム上の実験結果が、地球の時間で1077年1月に起きた【カノッサの屈辱】である。
──その日、イタリア北部のカノッサ城の門前は、視界を白く染める猛烈な吹雪に包まれていた。
凍てつく雪の上に、一人の男が裸足のまま、粗末な修道衣だけをまとって立ち尽くしていた。
【神聖ローマ皇帝、ハインリヒ4世】
ヨーロッパ最強の武力を誇る、最高権力者である。彼は城の硬い木門に向かって、膝を突き、額を雪にこすりつけながら、涙と鼻水を流して許しを請うていた。城の窓からそれを見下ろしていた人物。
【ローマ教皇グレゴリウス7世】
「神の代理人」を自称する、一神教ウィルスの最高位デバッグ管理者だった。
皇帝(世俗の王権)が、教皇(宗教的権威)に完全に屈服した瞬間である。
サピエンスの歴史家たちはこれを「叙任権闘争における教会の勝利」と記録したが、宇宙の外側で端末を弄る卑弥呼や観測者Sから見れば、これは極上の滑稽劇に過ぎなかった。
どれほど強大な軍隊や領土を持つ王であっても、脳内の基本OSを宗教にハッキングされてしまえば、たった一通の「破門(システムからのアクセス遮断)」という脅しだけで、雪の中に裸足で跪く従順な家畜へと変貌してしまうのだ。
〖ひゃはは! 見てよ、あの皇帝。寒さで顔が真っ青じゃない。サピエンスって本当にバカね。
『神の許し』なんていう目に見えないただのデータ文字列のために、世界の支配者が雪の中で泣いてるわよッ!〗
ヒミコは、観測者Sのアカウントの画面を叩きながら、お腹を抱えて(口はないが)笑った。
王権、教皇、そしてその間で搾取される民衆。この三つ巴の構造により、サピエンスは「損得」ではなく「神の正義」という大義名分のもと、お互いを裏切り、憎み、共食いを続ける凄惨な永久機関を完成させた。
だが、この完璧な分断プログラムの最中にも、サピエンスの遺伝子の奥底から、宇宙人の計画を狂わせようとする【地球の守り手(抵抗軍)】が再び水面下で暗躍を始めていた。
彼らは、かつて釈迦が遺したアンチウイルスのコードを形を変えて受け継いだ、強靭なバグだった。
19世紀、戦火に包まれたクリミア半島の泥濘の中に、一人の女性が降り立った。
【フローレンス・ナイチンゲール】
彼女の戦いは、宇宙人が仕掛けた「戦争(人口削減プログラム)」に対する、真っ向からのシステム修正(パッチ当て)だった。
彼女は、戦傷病兵がただのゴミのように使い捨てられる戦術病院に乗り込み、それまでサピエンスが無視していた「衛生管理」と「統計学」という武器を執った。
そんな彼女が敷いた近代看護のシステムにより、病院の死亡率は40%からわずか2%へと激減した。宇宙人が「ここで10万人死ぬ」と計算していたシートの数値を、彼女の無私のアプローチ(ケア)が力ずくで書き換えてしまった(生命のバックアップ)。
さらに20世紀、ナポレオンやヒトラーがばらまいた効率的な「総力戦(暴力システム)」の目の前に、一人の小柄な男が立ちはだかった。
【マハトマ・ガンジー】
ガンジーは、宇宙人がサピエンスの脳に仕掛けた「暴力を暴力で返す」という憎しみの連鎖(論理回路)を完全に無効化する、究極のアンチウイルスを発動させた。
【非暴力・不服従】。
宇宙人の計算式には、「殴られても殴り返さず、ただそこに座り続ける人間」という変数は存在しなかった。
イギリス帝国という強大な武力が、彼の精神の盾の前にフリーズし、機能不全に陥った。
サピエンスはまだ、宇宙人の家畜になり下がっていない――
ガンジーの存在は、世界中のサピエンスにそのエラー信号を強く発信した。
しかし、宇宙人の「自滅コントロール計画」は、それらの抵抗軍をあらかじめ予測し、冷酷に排除するセキュリティシステムを備えていた。
宇宙人は、彼ら守り手たちを自らの手で直接攻撃することはしない。
そんなことをすればサピエンスに「外敵」の存在を気づかせてしまうからだ。宇宙人が使ったのは、サピエンスの脳に深く根付いた【宗教(狂信)のバグ】そのものだった。
──1948年1月30日。
ガンジーの前に、一人の男が歩み寄った。男の脳は、宇宙人が仕掛けた排他的な一神教(あるいは狂信的なナショナリズム)のウィルスに完全に侵されていた。
男は懐から拳銃を抜き、ガンジーの胸に向けて3発の弾丸を撃ち込んだ。
「ヘーム・ラーム(神よ)」
ガンジーは自らの額に手を当て、自分を撃ったサピエンスを赦す身振りをしながら、血の海の中に崩れ落ちた。
地球を守ろうとした偉大なシールドは、宇宙人のプログラムに操られた、同じサピエンスの手によって暴力的かつ呆気なく消去されたのである──
ナイチンゲールもまた、戦場でもたらされた過酷な肉体への負荷テスト(慢性疲労と病)に生涯苦しめられ、ベッドの上で自由を奪われたまま息を引き切った。
〖ふう、危なかったわね。あの非暴力とかいうバグ、放っておいたら私のサピエンス人生ゲームがフリーズするところだったわ〗
ヒミコは、ガンジーの死亡ログを確認すると、退屈そうに触覚を弾いた。
〖精神の罠(宗教)だけで人口を減らすのは、そろそろ限界ね。ナイチンゲールみたいな賢いバグが医学を進歩させちゃうから、サピエンスの寿命が不自然に伸びて水槽が溢れそう。
……ねえ、イージン、そろそろ次のフェーズに進みましょうよ〗
〖ああ、そうやな……ってオイ!! 満喫してる場合とちゃうやんッ! 時間や、時間見てみぃ!〗
観測者Sは、居残り課題の時計(残り時間:数秒)を睨みながら、実験ノートの最終章を開いた。
〖精神の洗脳(一神教)は十分に機能したなぁ。次は、サピエンス自身の手で、一瞬で星を灰にするための物理的なトリガーを渡す番やで。
……コロンブスに大陸を繋がせてサンプルを十分に濃縮させてな、アインシュタインという最高のスパイを、物理学のトップに配置するんやッ!〗
三つ巴の宗教戦争で精神を摩耗させたサピエンスの前に、ついに「科学」という名の、戻ることのできない自滅へのワンウェイ・ロードの幕が開けようとしていた。
(第2章・完)
第3章へとすぐに続きます。




