後編
「失礼しました」
監督に呼ばれたオレは、職員室からお辞儀をしたまま退出する。
明りが煌々とする廊下の真ん中を堂々と歩いた。コツコツと響くのは、人ではなく足の話し声だ。
外の雑音が喧騒に近い夕方。オレは遅くなった事を自覚し、下駄箱まで足早に進む。
上靴がびっしり詰められた木の囲いに、嘆息をそろそろ吐いた。
上靴とスニーカーを入れ替え、外へ移した視界に一人の後ろ姿が映る。
玄関の前で立ち尽くす、どこか儚い女子。背景に添えられる雨がその儚さを加速させていく。
しばらく雨を眺めていた彼女だったが、靴を履く音に振り向いた。
「あ」
「あ」
彼女はあの美緒だった。
だが、不思議と緊張はしない。どこか吹っ切れたような、諦めがついているような。戦意喪失に近いだろうか。
校舎の玄関前で肩を並べる。
「雨だね」
「雨だな」
二人は同じ方向を向いた。
ただ見えている景色は違う。
いや途方もなく違うに違いない。
「車を待ってるの?」
「いや、家にスマホを忘れたから」
「親を呼べないのかぁ……そりゃ災難だったね」
バッグから折り畳み傘を出す最中、一瞥してみるが美緒は外を眺めるばかりだ。
しかし、それは何かの待ちに見えた。
車なのか、雨が止む事をなのか。定かではないけれど。
「美緒は何を待ってんの?」
「私、家に傘を忘れちゃった」
屋根から出した美緒の掌が雨を弾く。
まるで『君の傘に入れて』と言外に滲ませているよう。
美緒の遠回しな回答に新鮮さを覚えつつ、彼女にも面倒な一面もあるんだなと少し嬉しくなった。
そのせいか、
「なんで笑っているの?」
オレは笑ってしまう。
それに機嫌を損ねた美緒が、むくっと頬を膨らませ、近づいてくる。
その様子がまた笑う要素だったりするのだけれど。
「いや、ごめんごめん。意外と等身大なんだなって」
「なに? 私、背は高くないでしょ?」
そういう事じゃない、と言う前に。
背伸びした美緒の頭がオレの胸に当たりそうになって、一歩下がった。
距離感が明らかにおかしい。
揺れる視線を外し、咄嗟に話題を変える。
「……美緒なら友達に貸してもらえるだろ?」
「うわー、それ言っちゃう? 言える訳ないよ、傘忘れたなんて」
「そんなもんなのか?」
「そんなもんなの」
教師のごとく美緒は、人差し指を立てて言う。
断る手駒も、理由も尽く断たれた。
照れ臭さに口が震えながらも、折り畳み傘を強調して言い放った。
「美緒がこれで良かったらだけど、折り畳――」
「うん、ありがと」
食い気味に感謝を伝える美緒が先に外へ出た。
後ろで手を組む彼女の足取りは、微かに浮いてる。
そう感じたのは気のせいだったろうか。
***
人気のない歩道を肩身狭く男女が歩く。
傍から見ればカップルと見立てられる光景が、恥ずかしくもあり嬉しくもあり。
「美緒は、オレと帰っていいのか?」
そんな事を聞いてしまった。
何と情けない事か。
しかし美緒のことだから、当たり障りもない回答をすると思っていたが。
「なんでそう思ったのぉ?」
軽い口調で問いただしてきた。
これには正直驚く。
ただ先程にはない距離感で、心地良さは実際にあった。
「カップルと間違えられるかもだろ」
「いけない? 啓吾くん都合でも悪いの?」
答えを知っているかのような悠然なる問い掛け。
オレは勿論、「いや」と首を振った。
すると美緒は眉毛を上げて、傘の中で一歩先を行く。
「なら大丈夫。啓吾くんが良いなら大丈夫」
その復唱が美緒自身に言い聞かせているようで。
彼女への想像はかなり違ったモノを描いていたのだと、今更ながらに気付く。
「なんやかんや、美緒と話すのって初めてだよな」
話題の橋掛けとなれば、そんな意図による会話。
そこまで深く考えてはいなかった。
だが静寂は漂い、雨の匂いがしっとりと鼻に届いた。
「……そっか。流石に覚えてない、よね」
「え」
寂寥を孕ませた声音が雨音に負けじと響く。
言葉はまるで地面に落ちた。
「――私、ずっと見てたよ。君のこと」
傘を叩く雨の音が止み、香水の匂いが鼻を撫でる。
初めて正面で向き合った。
濡れた髪を整える美緒の頬は赤らんでいる。
「あの時から横顔だけだけど」
綻ばせた笑顔は胸を打つほどに美しく。
当時の、水の冷たさと川のせせらぎ。
――体の柔らかさを思い出させた。
片想いは横顔しか見れない。
そう本当に片想いならば――。




