前編
――片想いは横顔しか見れない。
それはオレが十六年生きてきて得た答えだった。
水泳部の部長であるオレは、朝練を終えて教室に居た。
家にスマホを忘れて寂しい手を、ポケットに忍ばせたカイロで補う。勉強する気にはなれず、話し掛ける友人はまだ居ない。
しかし、視覚には一抹の寂しさもなかった。
それはなぜか。
「美緒ちゃん! おはよう」
「今日も可愛いね、美緒」
「美緒、この宿題を教えてくれよ」
まだ疎らなクラスメイトを黒板近くに集めるほどの人気を誇るマドンナ。
美緒を見ていたから。
「おはよ」
図書館から動物園に変わった教室。
一つに結んだ髪を揺らす美緒は、挨拶をもはや丁寧に配っていた。
所作も然りだが、端正な容姿は高校一と言わしめる。加えて男子に気兼ねなく話し掛けるため、極めて魔性の女子であった。
そして、オレは今美緒に片想いをしている。両想いの可能性も残されているが、たぶん片想い中だ。
いや絶対に。
なぜなら彼女を横顔でしか見た事がないから。
要するに話したことがない。
だが、仕方ないと割り切っている。
片想いなんてそんなもんだ。
恰好も心も真正面で見られるのは、彼氏の特権。それを奪えば、世の中特別と普通の距離を測れない。誰もが片想いを横顔でしか見られないからこそ、馬鹿みたく特別に想うのだ。
姿にではない、その距離に人は恋焦がれる。幻想が移り込む事など気にも留めない。
そんな思慮を余所に、幸喜が教室へ入ってきた。
「よぉ、美緒」
片腕を挙げる幸喜は開口一番、美緒にいつも通りの挨拶を交わす。
それに美緒は瞠目したようだった。
「おはよ、ってあれ? 幸喜、髪型変えた?」
「おっ気付くか?」
マドンナと陽キャ一軍の構図。
恐れをなしてか、少しばかり周辺のクラスメイトは遠ざかる。
美男美女の会話に割って入れる者は居らず、ただ傍観者と化した。
ヒエラルキーの縮図の表れと言った所か、皆は元の位置へ戻ろうとする。
だが、それを止めるように――本人には自覚がないとしても――幸喜はオレを呼んだ。
「あっ、啓吾!」
大声で叫び、幸喜が机まで近づいてくる。
その顔は驚愕に満ちていて、何か言いたげな様子だった。
「お前、県大会で準優勝したってほんとかよ⁉」
身を乗り出した幸喜の一言にクラスはどよめいた。
驚きと歓喜とはいかなくとも、注目の的になるくらいは。
「ああ……まあな」
「すげぇな、おい!」
先日、水泳県大会で準優勝したのは確かである。理想的な泳ぎで部長の威信を守った久しい機会だった。
肩を強く叩く幸喜が周囲のクラスメイトに賞賛の声を囃し立てる。
もっとやってくれと思う自分も居たが、脳はすぐに拒絶を示した。
オレはモテるために水泳をしているのではない。
また誰かを救うために泳いでいるのだ。
ここに引っ越す前、オレは川で女の子を助けた。女の子と言ってもオレもまだ幼く、どちらも六、七歳だったと思う。
そのときは親にひどく褒められて、それがきっかけで泳ぐのが好きになった。
正義感もあの時に芽生えたのだと思う。
だから始めた理由は不純でもあり、不純じゃなかったとも言えるかもしれない。
ただ少なくとも、オレ自身の中では汚したくなかった。
水泳だけは……。
「啓吾はさ、何に出たんだ?」
「何にって?」
「いや、あるだろ? 何型とか何メートルとか」
「百メートル自由だけど」
何気ない会話の最中。それでもやはり一応、視線を巡らせてみる。
――だが、美緒は見ていなかった。
そして、ようやく理解した。
オレはただ怖かっただけなのだ。
最後の水泳という武器が彼女に通用しないことが。
ただ怖かっただけなのだ。
ああ。馬鹿だな、オレ。




