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第9話 ねじくれた左腕


 歩けない〈血まみれの聖母〉を背負って森を彷徨い、方角も分からないままに帝国側へと抜けたのは僥倖と言って良かった。

 疲弊した身体には辛い旅路だったが、背中があたたかく、剣をなくした〈血まみれの聖母〉は、思いのほか、軽く、また小さかった。


 帝国軍は全滅したわけではなく、後続の部隊が国境付近に続々と集結してきていた。他の前線からの敗残兵も野営地に辿り着き、その中に〈沈黙〉と〈さえずり〉の姿もあった。


 二人と合流し、〈血まみれの聖母〉を安全な場所に託した。野営地から離れた、小さな村の教会だ。


 そうしておいて、なすべきことを考える。


 ひとつは復讐、裏切者の〈計算盤〉に。


 ひとつは奪還、奪われた〈忿怒の遺産〉を。


 そのために、〈さえずり〉〈沈黙〉と敵地へ舞い戻った。王国軍は領外へ出ようとはしないし、帝国軍も敗残兵を吸収しつつ立て直しを図っている。


 危うい均衡の最中。


 もともと王国出でもあり、領内に紛れ込むことは難しくなかった。また〈さえずり〉も〈沈黙〉も潜入向きで、殺伐とした王国領内に、咎められることなく入り込めた。


 唯一、心配していた点も……。


 ん? なーに、あたしが黙ってるのが珍しいって? にゃはは、あたしだって黙っていようと思えば、何日でも黙ってられるっての。


 にゃはは、と笑って黙り込む〈さえずり〉の口元が、ぷるぷる震えていた。本当は、ぺちゃくちゃ喋りたくて仕方ないのだろう。


 だが、〈計算盤〉がいる場所を探り出し、その砦へ侵入する際には、〈さえずり〉のさえずりが役に立ってくれた。


 深夜、見張りの立つ城壁に、静かな歌声が響く。


 普段とは違い、ゆったりと優しい歌声だ。〈さえずり〉の歌を聞いた見張りは、不意に姿を現した三人の侵入者に警告を発し、応援を呼ぼうとしたが、いくら口を動かしても声が出ないことに動転していた。そのまま抵抗する隙を与えず、息の根を止める。


 〈さえずり〉の不思議な歌声は、周囲の音という音を吸い込んでしまうらしい。まさに潜入向きだ。どんな壁をもすり抜けられる弟の〈沈黙〉と。この姉弟であれば、入れないところはないだろう。


 そして、裏切者の〈計算盤〉の元へ。


 王国軍と通じていたのか、砦の中でも、広い一室を与えられていた。出入口の扉に鍵はなく、石造りの冷たい部屋の中央で、侵入者を待ち受けていた。


 魔剣〈忿怒の遺産〉を床に突き立て、もたれるようにしている。その表情は物憂げで。


 ふぅん、思ったより早かったね。どうだい、〈血まみれの聖母〉は死んだかな? はは、その様子じゃ、しぶとく生きているみたいだね。〈泥甕の貴公子〉亡きいま、あの子が生きていく意味などあるまいに。


 にゃはは、意味があろうとなかろうと、〈血まみれの聖母〉には生きていてほしいのさ。それより、あんたはどうなのさ。裏切者に良い未来があるのかな。


 良い未来なんて、あるわけがない。私は、根っからの裏切者だからね。4449人分の祝福といい、呪いを受けているんだ。

 まだ、4410人分の命を残している。いくら凶暴な〈狼の皮〉がいようと、私を4410回、殺すことができるかね。


 さあ、どうかな。


 そう応えた時、〈計算盤〉の足元が揺らぎ、床石から突き出た腕に掴まれ、ズブズブと沈み始めた。〈忿怒の遺産〉に縋るようにしていたが、それを蹴り飛ばしてやる。転がった魔剣が、ゲヘヘと笑った。


 床から上半身だけを出した〈計算盤〉の頭上に〈忿怒の遺産〉を振り上げ、問い詰める。


 おまえを操っていたのは誰だ?


 ふぅん。これはなかなか。〈沈黙〉は、壁をすりぬけられるだけかと思っていたよ。他人を引きずりこむことまでできるとはね。


 王国の者じゃない、帝国の者だろう?


 言って得があるかな? でも言わなくても得はないね。私だけが死ぬのは割に合わないかもな。黒幕は〈無能の騎士〉だ。しっかり殺してくれよ。

 さっき〈さえずり〉が言っていたな。裏切者に良い未来があるかと。ないな、ない。一度でも裏切った人間は、永遠に信用されない。信用されてはならない。

 私は東方の生まれだ。帝国軍に奇襲をかけようとしていた4450人の部隊の一員だったが、私の裏切りで4449人を死なせた。どのみち負けると思ったからさ。

 そこから裏切者として呪われながら生きてきた。それなのに、〈血まみれの聖母〉は私を信頼した。その信頼に、耐えられなくなったんだ。

 だが、あの子のことを思ってしたことにも違いはない。この後の道は辛いぞ。死んだ方がマシだと思えるほどに。……おっと気をつけたまえ。来るぞ。


 閉じてあった扉が吹き飛び、室内に入ってきたのは、忘れもしない〈残された半身〉だった。


 人の背丈に倍する巨人。その肩から、冷たい声が響く。喋り出したのは、巨人の肩に止まる鴉だ。


 くくく、〈忿怒の遺産〉を手土産に投降してきた者がいると聞いて来てみれば。魔剣だけでなく、刺客までいるとはな。裏切者の粛清か。あるいは、投降した振りをして仲間を引き入れたか。


 ふぅん、これが〈残された半身〉か。ほらね、信じられない。これが普通さ。


 安心しろ。我の前で、信頼など無用だ。


 そう言い放ち、鴉は、もぞもぞと姿を変え始めた。よく見ると、翼の根元から、ねじくれた人の腕が生えている。その手が胴を撫でる。


 戦場のマッハが化けてでもいたかのように、鴉は、小柄な体を黒いケープで覆った少女へと変貌する。フードの下から見える口元に、邪悪な笑みを浮かべ。


 ケープの下の姿は窺い知れないが、袖から覗く左腕は、さっきのねじくれた腕だ。〈残された半身〉の本当の姿は誰にもわからない。

 ただ、鴉と少女の姿を好み、どんな姿の時でも、ねじくれた左腕だけは変わらないのだ。


 ふぅん、その腕、なんだか哀れな感じだねぇ。


 我のことを哀れだと? くくく、面白い。〈計算盤〉とか言ったな。貴様は、結局、何者だ。申し開きによっては、こき使ってやらんでもない。


 いやぁ、御免こうむりたいな。それに、この有様では、なんの役にも立てそうにないよ。


 床から上半身のみを突き出し、肘をついて言う。それなら、と、〈残された半身〉が巨人に合図をするや、ひと一人握りつぶせるほどの大きな拳が叩き込まれた。


 血肉が音を立てて飛び散る。


 〈計算盤〉は、何をする間も無く叩き潰され、絶命した。だが、


 ふぅん、意外と気が短いんだねぇ。


と、巨人の拳が叩き込まれた場所から声がした。何事もなかったかのように、そこに〈計算盤〉が立っていた。そして、巨人が持ち上げた拳の下にも、潰れた死体があり、それは確かに〈計算盤〉の死体だった。


 それを見て、〈残された半身〉が楽しそうに笑う。


 面白い、面白いな、貴様。我の下で働くがいい。どうせ帝国の裏切者だ。行く場所もあるまい。


 まあね。でも、やめておいた方がいい。私は、根っからの裏切者なんだ。人が信じられず。人に信じられず。人に信じられれば、裏切りたくなる。裏切ることで人を信じ、自分を信じられるような気になるんだ。だが、最後には、結局、自分をも裏切るに違いない。


 なら、そんな貴様の在りようを変えてやる。


 巨人の腕が予想外に早く動き、〈計算盤〉を捉えた。持ち上げられた〈計算盤〉の額に、〈残された半身〉が、ねじくれた左腕をあてる。


 くくく、巨大な火蜥蜴に変えてやる。貴様を殺しにきたのか救いにきたのか知らないが、仲間を殺せ。そうすれば元に戻してやろう。いいか、もし裏切れば、その場で腐れて死ぬからな。


 言い終わる前に、そこには巨大な火蜥蜴が。


 それは、〈計算盤〉がよくやるように、にぃと目を細めて歩き出した。動きは遅いが、広いとはいえ室内のこと、逃げ場のないなかで迫ってくる。


 にゃはは、やばいかも。


 笑いながら冷や汗を流す〈さえずり〉とともに、壁際に追いつめられる。しかし、火蜥蜴は、ひと抱えはある尻尾を振り回し、〈残された半身〉を巨人ごと吹き飛ばした。


 同時に、火蜥蜴の皮膚が爛れ、膿み、肉が腐り落ち始める。どろどろと体を崩壊させながら、こちらを見て、にぃと目を細めてみせる。


 もうもうと舞う粉塵の奥で巨人が身動きし、〈残された半身〉の冷たく怒りに満ちた声が響く。


 なるほど、根っからの裏切者か。貴様のような生意気な奴はいらん。そこで、腐れて死ね。生き返ることなどないぞ。


 その言葉に、火蜥蜴は満足げに頷いていた。


 〈残された半身〉は、不満げに舌を鳴らすと、ようやく駆けつけてきた砦の兵士たちの何人かに、ねじくれた左腕をあてた。

 兵士たち一人一人が姿を変え、数体の新たな火蜥蜴が現れた。のそのそと迫る火蜥蜴たちが、〈残された半身〉の合図で大きな口を開き、一斉に炎を吐いた。


 腐り行く火蜥蜴もろとも、侵入者を焼き尽くそうというのか。〈沈黙〉の助けも間に合わないかと思った時、こちらも、ごうと炎を吐きながら〈計算盤〉がその身で割って入ってきた。


 肉が焼け、腐り、爛れ落ちる。


 と、隣に立つ〈さえずり〉とともに、壁の中へ引き込まれる。〈沈黙〉の仕業だ。そのまま室外へ、さらに砦の外へ逃れた。


 〈計算盤〉への復讐に来て、逆に助けられたようなものだ。まさか綺麗に焼き尽くされたとは思っていまいが、〈残された半身〉の追手もなく、難なく帝国へ戻ることができた。


 ゲヘヘ、変な奴だったな。


 と、取り戻した魔剣〈忿怒の遺産〉が言う。


 いつも計算だよ、計算、と言ってやがったが、まったくもって計算外、予想外だったじゃねぇか。馬鹿な野郎だよ。


 にゃはは、本当にね。馬鹿だねぇ……。


 王国の方を振り返った〈さえずり〉が寂しそうにつぶやき、珍しく黙り込んでいた。


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