第8話 逃走
振り下ろされる!
その時、一本の矢が〈計算盤〉の腕に突き刺さった。続けて、何本も、何本も。その隙に〈沈黙〉が〈計算盤〉を押しやり、〈さえずり〉と〈血まみれの聖母〉を助け起こす。
もう一度、近付こうとする〈計算盤〉と、〈血まみれの聖母〉との間に、腹の臓物を押し込みながら〈銭飾り〉が立ち上がっていた。血を吐いて言う。
ヘッ、一緒どころか、勇み足だったぜ。おい、〈さえずり〉〈沈黙〉それと〈狼の皮〉野郎! さっさと、その可愛げのない姫さまを連れて行けよ。俺か? 俺がダメなのは、見ればわかるだろう。姫さまも、ぐっすり寝てる場合じゃねぇぞ。
その声に、ほんの刹那、〈血まみれの聖母〉が目を開いて。唸るようにしたかと思うと、〈忿怒の遺産〉に呼びかけた。倒れていた血まみれの軍勢が起き上がり、遮二無二、周囲を襲い始めた。
ふぅん、惚れた女のためとか言うやつか。正直、きみに、それだけの侠気があるとは思わなかったよ。それに、落ちている矢すら操れるとは。なかなかやる。
ヘッ、そいつはどうも。だから、こんなことだってできるんだぜ。喰らいやがれ!
戦場に落ちていた無数の矢が、ふわりと浮かびあがった。死ね!死ね!死ね! と〈銭飾り〉が叫ぶ度に、〈計算盤〉に次々と矢が突き刺さっていく。
もはや刺さる余地もないほどの有り様になり、〈計算盤〉の足が止まった。
さあ、行け! おまえら、姫さんを頼んだぞ!
その場に座り込んだ〈銭飾り〉の背中を見たとき、無数の矢を突き立てたままの人影が一歩ずつ近付き、〈忿怒の遺産〉を振りあげた。
続けて、物が綺麗に断ち切られる音。
その後は、無我夢中だった。また気を失った〈血まみれの聖母〉を背負って、〈さえずり〉と〈沈黙〉の切り開いた道を抜けていく。
戦場を離れ、街道から外れて深い森へ逃げ込めば、まだ助かる余地はある。だが、森へ入っても、追撃は止まず、〈さえずり〉と〈沈黙〉が足止めに残らざるを得なかった。
にゃはは、さすがにしつこいね。ここは、あたしたちに任せなさい! って、なーに、その顔。まさか、死ぬつもりかぁ、なんて? にゃはは、だいじょうぶ。夜の森で、この〈さえずり〉と〈沈黙〉に敵うもんか。
い、息を切らしてるって? そりゃ、そうでしょう。息ぐらい切らすってば。でもね、その人を死なせるわけにはいかないのさ。助けてくれたんだ、弟を。
いいから、さっさと行け!
〈さえずり〉に蹴飛ばされ、深い闇の奥へと進む。街道から外れれば、そこは暗い異界のようなもの。狼や野犬だけでなく、化物も潜んでいるのではないか。
手元に残っているのは、慈悲の剣、ミセリコルデだけだ。逃げるのに夢中で気付かなかったが、あちこち負傷もしていた。
〈血まみれの聖母〉の脇腹にも大きな傷があり、血が止まらない。あげく、血の匂いにつられたか、現れたのは狼の群れ。
万全の状態でさえ、戦いたくない相手だ。
しかし、餓えと警戒が釣り合った状態なのか、こちらが疲弊して眠るのを待っているのか、すぐに襲ってくることはなかった。
すでに日は落ち、わずかな月明かりだけが頼りだ。
樫の大木を背に、少し開けた場所で〈血まみれの聖母〉を下ろし、狼の群れから目を離さずに傷の手当てをする。痛みに目を覚ました〈血まみれの聖母〉が、狼か、と呟く。
他の者はどうした? そうか、おまえと私だけか。
ここで狼とは、面白いものだな。〈狼の皮〉を狼が襲うか。ふふ、もういい、私を置いていけ。狼が始末をつけてくれるだろう。残りは蛆虫にくれてやる。
活きがよければ、もう少し可愛げがあれば、私の身体など、おまえにくれてやったものを。魔剣のない私など、雑兵にもならん。
自嘲気味に呟きながら、自分の身体がほとんど動かないことを確かめていた。そして、思い出したように。初めて厩舎で話した時のように。
〈血まみれの聖母〉は、ぼろぼろになった修道服の胸元を無造作に大きく広げ、こぼれ落ちそうな胸の膨らみの間から、ロザリオを取り出した。
約束だ。ロザリオをやろう。私の犬として、よくやってくれた。これで、おまえは自由だ。故郷へ帰るなり、賊に身をやつすなり、好きにしろ。気楽な傭兵になるのもいいな。私自身は、ずっと鎖に繋がれたままだった。復讐と、流血の生む平和というまやかしに縋って。私の夢は、殿下が生きていればこそだったのだ。ただ、私は……。
その時、なにが切っ掛けだったのか、狼の群れが襲いかかってきた。疲弊した体に鞭打って、頼りない短剣一本に賭けて戦う。
負傷しながらも、何匹かの狼を屠った。
しかし、さすがに〈血まみれの聖母〉を護り切るだけの余裕がなく、外れた一匹が襲いかかる。
無気力に喰い殺されるかと見えた〈血まみれの聖母〉は、寸前で狼の口に小手をねじ込んでいた。
くそ! くそ! なぜだ? 私は、なぜ生き延びようとしているんだ。これまで、何人も、何人も、何人も、殺してきたというのに。
駆けつけて、ミセリコルデを狼の背に突き立てた。だが、狩の高揚が優っているのか、狼は小手を吐き捨て、〈血まみれの聖母〉の喉元に噛み付こうとする。
くそ! いやだ、死にたくない。
泣き喚くようにして、〈血まみれの聖母〉が、手にしたロザリオを狼の片目に突き刺した。
痙攣するように飛び跳ねた狼がロザリオを突き出したまま絶命する。その様子を見ていたからなのか、他の狼も退いていき、後には静かな夜の森が残った。
雲が流れ、切れ目から月の光が落ちる。
樫の木に生える宿り木のように、獣の死体から突き出たロザリオが煌々と輝き、光を増す。狼の目からロザリオを引き抜き、〈血まみれの聖母〉に手渡した。
なんだ、いらないのか?
いまは、いらない。まだ十分な働きをしていないから、ロザリオは受け取らない。きっと帝国まで生きて戻ってみせる。だから……。
まだ死ぬなと言うのか? 厳しいな。厳しい部下だよ、おまえは……。ふふ、ふふふ。
笑っているようで泣いているような、肩を震わせる〈血まみれの聖母〉の声が森に響いた。




