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 セリュート青年訪問の翌日、私は基金の資金配分に関する最終決定に頭を悩ませていた。

 今日は有識者を招いての、大詰めの審議だった。当初、割りとスムーズに最終決定までもっていけるだろうと予想していた。

 けれど予想に反して議論は紛糾し、夜半になっても審議に収拾はつかなかった。


「ミーナさま、屋敷で待つご亭主が心配しておりましょう? 一旦解散し、日を改めて審議いたしますか?」


 議長役を務める男性が、心配そうに私の耳元で声を潜めた。

 目の前の論議は、とても白熱していた。皆が皆、基金運営の最善を模索して、熱い論議を繰り広げる。

 

「いいえ。屋敷の者には状況次第では、帰宅が難しい場合もあると伝えています」


 一瞬だけ、アスラン将軍の姿が脳裏を過ぎった。けれど念のためと、カルスさんには帰れない可能性も伝えてある。

 なにより今は、上がった意見のひとつひとつを全員で精査しながら、確実に求める最善へと近づいている状況だった。終着点が見えてきている今、論議はまさに佳境と言ってよかった。


 そんな最終段階にある論議を、私の事情によって中断するなど、考えられなかった。


「ですからこのまま、最終決定までもっていきましょう!」

「はい、ミーナさま!」



 そうして未明、全員が納得する資金配分の指針が定まり、白熱した議論に幕を下ろした。


「皆さん、お疲れさまでした! お陰で基金にとってこれ以上ない最終決定が出来たと、自信を持って言えます。基金の明るい先行きを願う皆さんの熱い論議に、心から感謝します!」


 そのタイミングで私が真っ先に伝えたのは、この場に集う全員への感謝だった。

 この基金を発案したのは私だ。だけど基金を明確な形とし、運営の道筋が描けたのは、皆の力があってこそだ。


「なんとしてもミーナさまがいる内に、明確な指針を立てておきたいというのが、全員の共通認識でございました。ミーナさまがガラージュに発たれる前に、こうして形になって本当にようございました」


 議長の男性が私の前に進み出ると、微笑んでこんなふうに告げた。


「議長…っ」


 掛けられた言葉の優しさに、ジンと胸が熱くなった。


「ミーナさま、基金の事は何も心配いりませんぞ」

「ええ! 私たちの手で、しっかりと基金運営を引き継がせていただきますからな!」


 議長の言葉を皮切りに、方々から掛けられる声が、胸に篭る熱を弾けさせた。


「皆さんっ、ありがとうございます!!」


 私は巡る歓喜のまま、深く深く頭を下げた。


 今日の審議参加が事実上、私が基金運営に携わる最後だった。

 新しい代表が決まっていない事が、唯一心残りではある。

 けれど私がいなくなった後は、ここに集う皆の手で基金は舵を切って、着実に前へと進むだろう。


「この後の基金を、よろしくお願いします!」


 私は最後に、基金の未来を担う全員と握手を交わし、朝日を浴びながら議場を後にした。一睡もしていない体は疲れている。

 けれどそれ以上に心が充足して、深く満たされていた。

 屋敷に向かう私の足取りは軽かった。



***



 姫さんはガラージュへの出発を目前に控え、基金の最終調整に、屋敷の来訪者の対応にと、息つく間もない毎日を送っていた。


 軍に所属し、底なしの体力を自負する俺とて、連日の引継ぎ業務には僅かばかり疲れも感じている状況なのだ。

 体力に劣る姫さんが、疲労を溜めていない訳がなかった。


 ……無理をし過ぎてなきゃいいんだがな。


「はぁ……」


 俺は小さく溜息を吐くと、早々に午後の業務に取り掛かるべく、定食の残りをかっ込んだ。



 コトン――。


「ん?」


 粗方食べ終えたタイミングで、俺の目の前に器が置かれた。

 見上げれば、向かいから器を差し出したのはセリュートだった。


「連日、かつて見た事もないほど精力的に働くアスラン前将軍に、私からの差し入れです」

「ほー、差し入れたぁ気が利くじゃねぇか?」


 若干引っ掛かる物言いには蓋をして、貰える物は素直に貰う事にする。

 そもそもセリュートと言い合いをしたところで、俺はどうせ勝てん。ちなみにこれは、決して逃げの一手ではない。

 これまでと違い、俺は不毛な行動を回避する、建設的な思考を身に付けたのだ。

 もう一度セリュートから、目の前に置かれた器に目線を移す。


「なんだ? こんなんメニューにあったか?」


 隊員食堂のメニューにバリエーションはなく、お世辞にも美味いとは言い難い。しかし猫の手も借りたいほど忙しい今は、外に食べに行く時間も惜しい。

 そういった訳で、俺は連日隊員食堂の昼食に舌鼓を打っていたのだが……。


「おお! もしかして隊員食堂のおやじがついに新作を出したのか!?」


 バンッ!

 卓が叩かれた衝撃で、涼やかな器とそれに添えられた匙が、カランと小さく音を立てた。


「そんな訳ないでしょう! ここの隊員食堂で、こんなに繊細な涼菓を口にできると本気で思っているのですか!?」


 俺の言葉に、セリュートは眉間に青筋を浮かべていた。


「……冗談だ。で、これはなんだよ?」


 俺だって、本気で言った訳ではない。『繊細な涼菓』というセリュートの言葉通り、目の前の器の中身は、果実と砂糖細工で食うのが惜しいほど繊細に飾られていた。

 誰の目にも、隊員食堂で食える代物でないのは瞭然だった。


「王都で今、貴婦人らに人気の菓子です。上にのる果実や砂糖細工のこだわりはもちろん、この菓子の特出すべきは、ゼリーという下の柔らかな食感部分です」

「ゼリー?」


 はじめて聞く名前の菓子だった。


「驚くべきことに、牛の骨や皮から加熱抽出した成分を使っているそうです。店主が数年の試行錯誤を経て、やっと形にしたそうですよ。超人気で、昼食の時間で行って返って来られるか危ぶんだのですが、こうしてなんとか戻って来られました。まぁ、お陰で私は昼食を食べそびれてしまいましたがね」


 セリュートはヒョイと肩を竦めてみせた。

 ……この菓子に、まさか牛の骨や皮が使われていようとは、聞かされても俄かに信じる事が出来なかった。

 いや、それよりも更に驚くべきは……。


「なんだって昼飯も食わずに、わざわざこんなん買いに行ってんだ?」


 怪訝に首を傾げる俺に、セリュートは笑みを深くした。


「私からの、餞別です。もし気に入ったのなら、買って帰られたらどうですか? 引継ぎ業務は貴方の尽力もあって順調で、一定の目処も付いてきました。定刻で上がって真っ直ぐに向かえば、開店時間に滑り込めますので」

「セリュート……」

「ちなみにゼリー部分はこの陽気ですと、一時間ほどで型崩れし始め、数時間で溶けてしまうそうです。では、私は先に執務室で業務を始めていますのでごゆっくり」


 セリュートは言いたい事だけ言えば、サッサと背中を向けてしまう。


「おいセリュート! わざわざありがとうな!」


 俺が慌てて礼を叫べば、セリュートは背中越しにヒラヒラと手を振って、隊員食堂を後にした。




 ひとり残った俺はおもむろに匙を掴むと、さっそく器に差し入れた。掬い上げたゼリーは柔らかさを誇示するように、匙の上でふるふると揺れた。


「……美味い」


 慎重に口に含めば、自然と感嘆の声が漏れた。

 味わうようにゆっくりと飲み下して、ひと息吐く。そうして脳裏に思い浮んだのはやはり、愛しい姫さんその人だった。


 つるんと口当たりのいいこの涼菓を、なんとしたって姫さんに食わせてやりたいと思った。


 この涼し気で繊細な見た目は、姫さんの疲れた心を癒すだろう。

 ひんやりとした優しい食感と甘さは、姫さんの疲れた体に沁みるだろう。


 この涼菓が、疲れた姫さんの一時の慰めとなれたらいい。俺は噛みしめるように、残りのゼリー菓子を口に運んだ。




「セリュート、すまんが今日はこれで上がらせてもらうな」


 定刻で業務を終えた俺は、隣でいまだ書類に噛り付くセリュートに水を向けた。


「はい、お疲れさまでした。店は中央通りの西区画ですが、行けばすぐに分かると思います」


 俺の行動など、分かりきっていたのだろう。セリュートは目線こそ手元の書類に向けたままだったが、応える声はとても柔和な響きだった。


「その、なんだ。今日滞った分は、必ず明日やるからな」

「はいはい。こっちは大丈夫ですから、どうぞ行ってください。売り切れてしまいますよ?」


 セリュートは書類から目線を上げ、苦笑交じりにそう言った。


「お、おう! それじゃーな、お疲れさん!」


 俺はセリュートに背中を押される形で、今度こそ足早に執務室を後にした。

 中央通りに出ればセリュートの言葉通り、店は多くの女性客で長い列ができており、遠目でも場所はすぐに分かった。俺も急いで列の最後尾に並んだ。

 俺が並んですぐに、購入者の列は締め切られた。なんとか購入に滑り込めた事に、俺はホッと安堵の息を吐いた。


「お客様、申し訳ございません。商品がもう、ひとつしか残っておりませんで……」


 やっと俺の番になり、カウンターに向かえば、開口一番に店主が言った。


「いや! ひとつでも構わん!」

「ありがとうございます。すぐにお包みいたします。長く置くと溶けてしまいますので、お早めにお召し上がりください」


 こうして小一時間ほど並んだ後、俺はついにゼリー菓子を手にした。姫さんの喜ぶ顔を想像しながら、俺はゼリー菓子の入った箱を懐に抱え、足取り軽く屋敷に帰った。




「お帰りなさいませ。今日はお早いお帰りでございますな」


 けれど帰宅した俺の出迎えに、姫さんの姿はなかった。


「カルス、姫さんはいないのか?」

「はい、奥様は基金の方で、大事な審議があるのだとか。お出かけの際に、もしかしたら状況次第で、帰宅できないかもしれないと仰っておられました」

「姫さんが、帰って来ない!?」


 カルスに聞かされた言葉は、俺にとってかなり衝撃的なものだった。


「いえいえ、奥様はこれまでも同じように言い残して出掛けております。けれど奥様が、実際に帰宅されなかった事は一度もございません。もしもに備えて、そんな言葉を残していかれるだけだと思いますよ」


 カルスは俺の外套を受け取りながら、なんでもない事のようにそう付け加えた。

 ……そうか、姫さんが帰らなかった事は一度もないのか。


「お食事はどうされますか?」

「あーっと、姫さんを待って一緒に食うから今はいいわ」

「左様ですか」


 俺は居間のテーブルに買ってきたばかりの菓子を置くと、その前の椅子に腰かけて姫さんの帰りを待った。


「……これを見たら、きっと姫さんは笑ってくれる」


 そうして口に含んだら、姫さんは一体どんな表情をするだろう……。

 姫さんの笑顔を想像しながら、俺はわくわくとした気持ちで姫さんを待っていた。





 けれどその晩、待てど暮らせど姫さんが帰宅する事はなった。


 箱の中のゼリー菓子は聞かされていた通り、小一時間ほどで崩れ始め、数時間が経った頃には色の付いた水になった。

 朝にはゼリーの上に飾られていた繊細な砂糖細工も果実も、色の付いた水の中に沈み込み、ふやけたように形を崩した。


「……これじゃ姫さんの喜ぶ顔は、見れそうにないな」


 俺は重い腰を上げると、すっかり形を変えたそれを、厨房のシンクに流して捨てた。


 厨房に設えられた窓からは、朝日が差し込んでいた。

 誘われるように、視線を向けた。

 清廉な朝の陽光は、どこか姫さんを思わせる。清らかな光は、後ろめたさばかりを抱えた俺の目に眩し過ぎて、スッと目を細くした。


 ……姫さん、ちゃんと戻ってくるよな?


 俺は、居間の長窓越しに月が位置を変えていくのを眺めながら、まんじりともしない一夜を過ごした。

 そうすれば、もしかして姫さんは俺に愛想を尽かして出ていったんじゃないかと、そんな想像も脳裏に浮かんだ。

 なにより堪えたのは、その想像を馬鹿馬鹿しいと一蹴できない事で、俺のこれまでの行動を鑑みれば十分にあり得ると思えた。

 焦燥に、身が焼かれるようだった。


 ……姫さん、どうか無事に帰って来てくれ。今はもう、それだけでいい……。


 昇る朝日を祈るように見つめ、ギュッと拳を握り締めた。



 カタン――。


 !!

 その時、玄関からの物音を聞き付けて、俺は弾かれたように玄関に向かった。

 そうすれば、薄く開けた扉から中に身を滑り込ませたのは、俺が一晩帰宅を待ち焦がれた姫さんだった。


「姫さん!」


 姫さんは玄関先で待ち構えていた俺の姿を視界に捉えると、驚いたように目を見開いた。


「……アスラン将軍」


 駆け寄って、勢いのまま姫さんの両肩をグッと掴んだ。


「よかった!! 帰ってこないから心配したぞ!」


 手のひらに感じる姫さんの細い肩の感触に、夢まぼろしでなく、現実の姫さんの帰宅を確信する。

 やっと胸が、深い安堵で満たされる。


「……心配?」


 けれど、そんな俺を見上げる姫さんの目が、僅かに険を帯びたように感じた。


「アスラン将軍、カルスさんに聞いていませんか? そう心配しなくても、私は貴方のような場所で夜は明かしませんよ」

「!!」


 姫さんの口からサラリと語られた衝撃的な言葉に、俺は言葉を失くして固まった。


「あの? アスラン将軍?」


 姫さんが、困惑気味に俺を呼ぶ。


「っ! あ、ああ、なんでもない。そうだな、カルスから聞いてはいたんだが、これまで帰らなかった事は一度もないとも聞いたもんでな」

「そうでしたか。ついつい議論が紛糾しちゃって、すみません。心配を掛けてしまいましたね」


 姫さんは続く俺の言葉に、素直に謝罪をして寄越す。

 これによって知れる。

 姫さんのさっきの言葉には他意や、ましてや俺を貶める意図もなにもない。


 単純に、俺が姫さんに取ってきたこれまでの言動を鑑みての、姫さんの正直な言葉。


 姫さんの言葉で突き付けられたのは、不甲斐ない俺自身。姫さんにとって、俺という男がいかに信用がないのかを、まざまざと知らしめられた思いだった。

 あまりにも重く、そして身につまされる言葉……。


「ふぁ~……あ、すみませんっ」


 俺が口を開きかけるよりも前、目の前で姫さんがあくびをかみ殺す。


「……いいや。姫さんが無事に帰って来てくれてよかった。姫さん、あんた寝てないんだろう? 早く横になって休め」

「はい、すみません。流石に寝ずの議論は堪えます。それじゃあアスラン将軍、申し訳ありませんが今日のお見送りはここで省略させてもらっちゃいますね。アスラン将軍ももう日がありませんが、無理し過ぎないように、気を付けて行ってきてくださいね」


 姫さんは俺の言葉に素直に頷いて、眠たそうに瞼を擦った。


「ああ、ありがとうよ。おやすみ姫さん」


 俺は寝室に向かう姫さんの背中を見送って、わしわしと頭を掻きむしった。


 ……俺は、どうしようもない阿呆だ。


 胸に押し寄せるのは、圧倒的な後悔だった。

 これまでもずっと、後悔を感じていた。けれど今、俺は押し潰されそうなほどの後悔に喘いでいた。


 姫さんは、戻らない俺をこんな気持ちで待っていたのか! ……いいや、俺は姫さんと違い、伝言のひとつだって残していない。ならば姫さんは、もっともっと心配で苦しい思いで俺の帰宅を待っていたに違いなかった。

 

 その上、俺が一夜を明かした場所ときたら……。

 実際に、不貞をした訳ではない。しかし、俺がその意図を持って花街の門を潜ったのは事実だ。

 結果的に行為には至らなくとも、姫さんに対する不実には違いなかった。


 ギリギリと両の拳を握り締めた。食い込む爪の痛みすら、姫さんが心に負ったであろう傷を思えば、欠片だって痛いとは思わなかった。



***



 アスラン将軍が軍部での引継ぎを終えたのは、ガラージュ領への出発前夜だった。

 ガラージュから帰還してからはじめて夕刻に帰宅したものの、アスラン将軍は休む間もなくずっと荷造りに立ち動いていた。

 

 けれどもしかすると、夕食は一緒にとれるかもしれないと、少しだけ私の心は高揚していた。


 しかし、いざ夕食となった時、アスラン将軍の元にカルバン国王から突然の遣いが来た。

 アスラン将軍は、私を残して屋敷を空ける事をしきりに詫びたが、考えてみれば兄弟で過ごす最後の晩なのだ。


「すまん姫さん」

「いいえ、カルバン国王に私からもよろしくと伝えて下さい。それから、せっかくの兄弟水入らずですから、王宮に泊ってきたらどうですか?」

「いや、姫さん。俺とカルバンは別に、水入らずなんて仲じゃねーし。じゃあ姫さん、いってくる」

「はい、気を付けていってらっしゃい」


 こうしてアスラン将軍は慌ただしく出掛けて行った。

 頭では納得していたけれど、いざ一人の食卓につけば、少し物悲しかった。




 この頃には夫婦の寝室での一人寝も、すっかり違和感なく慣れていた。夕食と入浴を済ませた私は、早々に寝台に滑り込んだ。

 するといくらもしない内、うつら、うつらと、心地よい眠りの世界が私を誘う。


 コンコン――。


 そんな寝がけに寝室がノックされ、アスラン将軍が現れた時、私はまず夢まぼろしを疑った。

 だってまさか、こんなに早い時間に帰ってこようとは、思ってもいなかった。


「すまん姫さん、もう寝てたか?」


 だけど遠慮がちに掛けられた声も、申し訳なさそうに眉を寄せてみせるその姿も、アスラン将軍その人に違いなかった。


「いえ、起きていました」


 寝台から身を起こしながら答える私に、アスラン将軍がどう思ったかは分からない。


「……そうか。カルバンから姫さん宛てにこれを預かってきた。もう眠っているかとも思ったんだが、どうしても早く姫さんに渡したくてな」


 アスラン将軍が、自身の懐から一通の封筒を取り出した。


「? カルバン国王陛下から、ですか?」


 差し出されたその封筒を何気なく受け取って、そのままくるりとひっくり返す。


 !!

 けれど封筒の後ろに王妃様の刻印を認めれば、衝撃に取り落しそうになった。心臓がバクバクと早鐘を刻む。


「お、おい姫さん、大丈夫か!?」


 アスラン将軍が心配そうに覗き込んできたけれど、私は脇目も振らずに震える手で封を切り、丁寧な文字で綴られた文字を追った。

 読み終えて、けれど俄かに信じられず、もう一度出だしから文字をなぞった。……間違いなかった。


「アスラン将軍……! 王妃様が支援基金の代表を引き受けたいと、そう書いてあります!」


 私の声は、興奮で上擦っていた。


「そうか、よかったな姫さん」


 けれど息巻く私とは対照的に、アスラン将軍はとても落ち着いていて、驚いた様子がない。


「王妃様から申し出てくれたんだ、遠慮なく基金の事を頼めるな」


 アスラン将軍は興奮に息を荒くする私の頭を、ぽんぽんっと撫でつけて笑った。


 ……違う。

 

 全ての、ピースが嵌まる。私はセリュート青年から聞かされた、あの話の真相を確信していた。

 王妃様が、申し出てくれたのは事実。だけどアスラン将軍が言った「王妃様から」というのは、正しくない。

 このタイミングでの、王妃様からの代表就任の申し出。この出来過ぎた流れの裏には、多大な労をかけた、アスラン将軍の連日に渡る交渉があったのは間違いなかった。

 

「今晩中に手紙を認めて託すといい。これで姫さんの基金の行く末もひと安心だな」


 なのにアスラン将軍は一言だって、それを私に伝えようとはしない。

 当たり前に口を噤み、ただ、目の前の事実を共に喜ぶ。アスラン将軍の不器用な優しさが、胸にじんわりと沁みる。

 キュウッと喉が詰まったみたいになって、伝えるべき言葉が声にならなかった。


「? 姫さん?」


 私の様子を訝しんだアスラン将軍が、目の前でヒラヒラと手を振ってみせた。

 剣を握る、硬く分厚い手のひら。だけどその手は私に触れる時、いつだって慎重過ぎるくらいに丁寧で、そしてどこまでも優しくて温かい。


 私はなかなか出ない言葉の代わりに、目の前の大きな手をそっと握る。

 アスラン将軍は驚いたように、僅かに目を見開いた。


「……はい。これで心置きなくガラージュに旅立てます」


 握った手の温もりと、深く綺麗なコバルトブルーに励まされて答えた。


「よし! それじゃあ姫さんは手紙を、俺は残りの荷造りを終わらせる。これで明日には、晴れてガラージュに出発だ!」


 アスラン将軍が繋いだ手を握り締め、弾けるみたいに笑う。


 ……この瞬間、私の胸に湧き上がったのは、苦しいくらいの思慕の情。

 私はこれまで、アスラン将軍の何を見ていたのか。いいや、私はきっと、見てなんていなかった。

 目に見える表面的な部分だけをおざなりに視界に映し、その本質を見逃した。アスラン将軍という人は豪胆で武骨で、一見では粗野にも映る。

 だけどそんなのは、アスラン将軍を語る全てじゃない。言葉が少ないから、誤解もあった。だけどアスラン将軍の誠実な優しさは、いつだって随所から溢れていた。


「それじゃ姫さん、おやすみ。明日は朝から移動になる。今晩は手紙を仕上げたら、ゆっくり休め」


 アスラン将軍はそっと繋いだ手を解くと、眩い笑みを残して夫婦の寝室を後にした。


 ……傷つくのを怖がって、自分の殻に閉じこもって目を閉ざしていたのは私。


 一人残された夫婦の寝室で感じるのは安堵じゃなく、寂寥感。解かれた手には、いまだアスラン将軍の温もりが残っていた。





 翌日、私達はついにガラージュ領へ出発の時を迎えていた。


「では奥様、確かにお預かりいたします」

「はい、お願いします」


 王妃様宛の手紙を、カルスさんに託す。

 これで基金は、名実ともに私の手を離れた。明確な区切りがつき、肩の荷が下りた心地がした。

 

「アスラン様、私もこちらの屋敷の後片づけが済み次第、直ぐにガラージュに向かいます。その間、もし不足があれば――」

「カルス、俺は寝台も満足な飯すらない野営にだって慣れている。数日使用人がいないからと騒ぐ事もない」


 急な領主任命だった為、家令のカルスさんは屋敷の後処理が済み次第、遅れてガラージュに移る事になっていた。


「そうは言ったってアスラン様、今回はミーナさまも一緒だからね。ミーナさまに不自由の無いようにお願いしますよ」


 トルテッタとアモン君母子も同様に遅れての合流だ。アスラン将軍は使用人達からの突き上げに苦笑している。


「トルテッタ、私だって身の回りの事は全部一人で出来るから、そう心配しなくたって大丈夫だよ」

「ミーナさま……」


 そう、私だって一から十までしてもらうお姫様暮らしは馴染まない。


「でもそうだな、身の回りには困らないけれど、トルテッタ達がいないと寂しいな。だからやっぱり、用が済んだら早めに来てね」

「ミーナさま! 僕、やっぱり一緒に行くよっ」


 わっ!


 私の言葉に飛びついて来たのはアモン君だ。一歩後ろにたたらを踏んで、慌てて抱き留める。


「いらん! お前は永遠に来んでいい」

 アモン君の首根っこを掴んだアスラン将軍は私からベリッと引きはがすと、アモン君を放った。


「やんっ!」

 天使は不満げに口を尖らせてみせるけど、アスラン将軍はフンッと鼻を鳴らして顔を背けた。 


 この二人の関係も相変わらず。けれどアスラン将軍はなんだかんだと言いながらも、アモン君が屋敷にいる事を容認している。

 つまるところ、二人の仲は悪くはない。


「ミーナさま、お気をつけて」

 カルスさんとトルテッタ、アモン君に見送られ、私とアスラン将軍は二人、ガラージュに向けて出立した。




 ガラージュまでの道中、アスラン将軍は随従の全てを断って、私との二人旅を選んでいた。


 選んだというよりは、己の腕力に物言わせて強行したと言うのが本当は正しいのだろう。

 けれどガラージュへ向かう道中の一週間は、これまでで一番アスラン将軍との心の距離が近づいた気がしていた。


「姫さん、寒くないか?」


 肌を触れ合わせたのはドルーガン王国でのあの二回だけ、それとて手淫や口淫のみで本当の意味では体を重ねていない。道中も当然、性的な接触はない。


「はい、大丈夫です」

「……そうか、ならいい」


 ! アスラン将軍は私を後ろに引き寄せて、すっぽりと胸に抱き込んだ。


 けれど移動中の馬上、こんなふうにアスラン将軍の胸に包まれた時、アスラン将軍の吐息を首筋に感じた時、私は同じ寝台に横になる以上に胸が熱を持つのを感じている。


 ドキリとして、恥ずかしいのに嬉しい。これは打算も下心もない私の恋心に他ならない。


 私は夫であるアスラン将軍に恋をしている。

 ガラージュの民の為、復興の為、私がガラージュ皇女として転生を果たしたその役割。それは確かに五年という長きに渡る幽閉期間を生きる原動力となった。


 けれどこの先の数十年という人生を、私は誰とどう生きていきたいのか。


 私はアスラン将軍と共にありたい。そして義務感から与えられるものじゃなく、真に愛し愛される、そんな夫婦関係を共に築いていきたい。


 先だってのアスラン将軍の告白を、無体な回答で濁したままの私。虫が良すぎると、呆れられるだろうか?


 けれど、私にとってのタイミングは今で、今こそ一歩を踏み出す時……。



 休憩でジルガーから下りた時、私は意を決し、アスラン将軍に切り出した。


「アスラン将軍、領主館の寝室ですが……」


 ドルーガン王国にいる時に、ガラージュ領主館の夫婦の寝室は別に誂えた事を告げられていた。私は異議を唱える事もなく、受け入れた。

 それはアスラン将軍に流された方が楽だったからで、これ以上の関係悪化を危ぶんだからでもあった。


 だけど、そうじゃない。それじゃだめなんだ。私達は夫婦なのだから、すれ違ったなら分かり合えるまで向き合ったらいい。違うと思ったなら、じっくりと話し合う。違う部分は最終的にはそのままだっていい。ただ、共に納得できる着地点を見つければいい。

 その手間を惜しんだのは、私の怠慢だ。


「ん? ちゃんと姫さん用のを用意させてるから安心しろ」


 アスラン将軍は軽い調子で、さも当然のように答えた。だけど気のせいだろうか、その表情はどこか寂しそうに見えやしないか。


「いいえ、違うんです。今晩からは、一緒の寝室にしませんか?」

「!!」


 ガバッと私を振りかぶり、アスラン将軍は驚きに目を瞠る。私は力強く、ひとつ頷いてみせる。


「だって私達は夫婦、ですから」


 ……やっと、伝えられた。

 随分と遠回りをしたけれど、今やっと言えた。


「……夫婦だから、か」


 アスラン将軍は何事か、小さく呟く。


「あの? アスラン将軍?」

「いや、なんでもない。なぁ姫さん、ちゃんと場所を落ち着けたら、聞いてもらいたいんだ」

「? はい」


 なんだろう? アスラン将軍は微笑んでいるけれど、その表情が少し、硬いように感じた。

 不思議には思ったけれど、きっとアスラン将軍にも照らいがあるのだろうと、そう思った。


 どちらにせよ、私達夫婦はここからが新しい第一歩。

 私達はどちらからともなく手を取り合って、堅く握った。






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