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 私はこの日、基金運営の調整に難航していた。朝に屋敷を出て、なんとか目処をつけて帰宅したのは、日暮れ近くだった。

 鉛のように、体が重く感じた。


「姫さん!」


 ……うそ?

 そんな私の帰宅を待ち構えていたのは、予想外の人物だった。


「アスラン将軍……」


 アスラン将軍は屋敷を空けるのも突然なら、帰宅もまた嵐のように突然だった。

 固まる私を尻目に、アルラン将軍は私に熱の篭った瞳を向ける。

 

「長く屋敷を空けてすまなかった! だが、どうしてもガラージュに行かずには、いられなかった……」


 アスラン将軍は立ち尽くす私の右手を取ると、その手を両手に包み込み、額に戴くように掲げた。

 一週間の不在を経て屋敷に戻ったアスラン将軍は、まるで人が変わったみたいに情熱的に言い募る。


「姫さん、俺はカルバンから正式にガラージュ領主を任命された。俺は姫さんを愛してる。この後は俺と共に、ガラージュ領を盛り立てていって欲しい」

 

 !!

 突然聞かされたガラージュ領主就任と、取って付けたみたいな愛の告白に理解が追いつかない。


「姫さん?」


 茫然と立ち尽くしたままの私に、アスラン将軍が呼び掛ける。

 真摯なコバルトブルーの双眸が、不安を滲ませて私を見ていた。


「……分かりました」

 やっと口を吐いて出た、私の声は掠れていた。


 突然の告白が嬉しくないというのは嘘。

 けれど、まるで教科書から切り取ったみたいな台詞に感じるのは、僅かな違和感。


 誰かから何か言われた? 何かの思惑があって私との円満な夫婦関係を望んでる?

 頭の中に、そんな疑念が浮かぶ。

 余裕に乏しい私の心が、疑心暗鬼にキュウキュウと軋む。


「領主夫人として、期待に添えるように頑張ります」


 強張りが解けぬままやっと言葉にしたのは、こんな可愛げのない台詞だった。

 告げた瞬間、アスラン将軍のキラキラと輝くコバルトブルーは陰りを帯びて、笑みの形に作られた口元は引きつった。アスラン将軍が見せる明らかな落胆に、心が痛んだ。


「……っ、俺は一体何をやっているんだよ」


 え?

 アスラン将軍が何事か小さく呟いたと思った。次の瞬間には、アスラン将軍は浮かべていた落胆の陰りの一切を消し去った。


「すまない姫さん、伝える順番が違っていたよな」


 そうしてアスラン将軍は誠実さの篭る目で私を見つめ、静かにこう切り出した。


「まず、これまで俺が取ってきた行動を謝らせて欲しい。夫として、俺がいかに不誠実だったか、俺は身に沁みた。その、なんだ。姫さんの不貞を疑ってした愚かな断罪は、詫びても詫びきれん。本当に、申し訳ない事をした。それから――」


 アスラン将軍は、誠実に言を重ねる。

 けれど疲れから、だろうか。……ズキズキと頭が痛む。

 痛みの波に、アスラン将軍の言葉が被さって、痛みが増幅した。


「アスラン将軍、もう、もういいです。アスラン将軍だけにそんなふうに謝罪を重ねさせるのは、少し違う気がします。私にも至らないところがあったのは、間違いありませんから……ただ、今は少し時間をください」

「姫さん……」

「ごめんなさい。なんだか今日は、少し疲れていて……」


 アスラン将軍の謝罪を遮った、その最たるは私の体調的なところ。頭が割れるように痛み、既に立っているのも辛い状態だ。

 ……だけど、それだけじゃない。心の中が、色んな感情でぐちゃぐちゃになっていた。散らかりきった心には、新しい感情を受け入れる余裕がなかった……。


「そ、そうか……」

「すみません……」


 私は短く伝え、俯き加減のままアスラン将軍の隣を通り抜けた。

 アスラン将軍の消沈した様子と、かつて聞いた事がない弱々しい声が、胸に堪えた。けれど今の私には、これ以外の態度の取りようがなかった。

 申し訳なくて、居た堪れなくて、私はそのまま逃げるように寝室に向かった。



 

 ベッドに横たわっても、頭痛は治まらなかった。そうしてズキンズキンと響く痛みの合間に浮かぶのは、光を失ったコバルトブルーの双眸だった。


 ……馬鹿。私、ほんと馬鹿だ。


 嬉しいくせに傷つくのが怖くって、あんな言葉で逃げた私は臆病者だ。邪推ばかりを巡らせて、素直になりきれない自分にうんざりした。

 だけどそれだけ、私にとって直接何も告げられぬままに置かれた一週間は大きくて……。


 私はギュッと瞼を閉じて、浮かびあがるコバルトブルーの双眸を遮断した。


 あんなにも望んでいた、アスラン将軍との会話。私はその機会を、自らの意思で遠ざけたのだ……。


「っ、頭が痛い……」


 けれど、それ以上に心が痛い――。




 

 私の心を置き去りに、それでも寝て起きれば日の出を迎え、新しい一日がまた始まる。

 アスラン将軍が帰宅して、既に五日が経っていた。この短い期間に、私達を取り巻く状況は一変していた。


 アスラン将軍が帰国した翌日に、カルバン国王が国内外に向けて、アスラン将軍のガラージュ領主任命を大々的に告示した。

 同時にこれまで秘されてきた、アスラン将軍の王弟という身分までもが、あっさりと明かされたのだ。


「姫さん、あんたも色々忙しいんだ。就任祝いの来訪者の応対は、カルスに任せていいんだからな」


 しかも赴任までに与えられた期日は僅か一週間。


「いえ、屋敷に居合わせた時は、きちんと熟させてもらいます。妻の仕事ですから」


 何故か『妻の仕事』と告げた瞬間に、アスラン将軍の顔が泣きそうに歪む。


「え? あの」


 もしかして私は何か、マズイ事を言ったのだろうか。


「……いや、世話を掛けさせるな。だが姫さん、あんたは基金の方でも忙しくしてるんだ。くれぐれも無理のないようにな。それじゃあ、いってくる」


 アスラン将軍はこんなふうに、さも当たり前のように私へ労わりを向ける。

 こういったアスラン将軍の気遣いは、出会って間もない頃から常に感じていた。けれど最近、その気遣いに含まれる熱量が高いような気がしている。

 それはまるで、アスラン将軍にとって、私が大切な存在ででもあるかのような錯覚を呼び起こす。


「いってらっしゃい」


 私の見送りに、アスラン将軍は笑みを深くして頷いた。晴れやかなその笑みを見れば、泣きそうだと感じた先ほどの表情は、私の見間違いだったのかもしれない。

 そうしてアスラン将軍はヒラリとジルガーに跨ると、そのまま軽快な手綱捌きで駆けていった。



 急な引継ぎ業務に追われるアスラン将軍は、連日日の出と同時に屋敷を出る。私はこうして庭先でそれを見送るのが、日課になっていた。

 

 そして私もまた基金の最終調整に、在宅時は来訪者らの応対にと、忙しい日々を過ごしている。アスラン将軍にも言ったけれど、妻が屋敷にいながら来訪者に挨拶のひとつもしない訳にはいかない。


 けれどこの目の回りそうな忙しさが、私には有難かった。忙しく動き回っている時は、余計な事を考えなくていい。

 なにより、アスラン将軍と向き合う時間が少なくて済む事に、私は安堵していた。


 ちなみに、深夜を回って帰宅するアスラン将軍とはこの五日間、性的な接触は一切ない。けれどアスラン将軍の帰宅が早かったとしても、こんなに心に距離がある状況では、親密に体を寄せ合う事はきっと出来なかった……。


 お互い表面上は穏やかに取り繕いながら、その実、どうしたって噛み合わない違和感が拭えていない。

 あんなにも切望した夫婦の会話。今はそれすらも、持て余していた。顔を合わせる出勤前の僅かな時間も、私は敢えて赴任準備に関する報告や相談を持ち出して、事務的な会話に終始する。


「……ほんと、意気地なし」


 小さな呟きが、早朝の澄んだ空気に溶けた。




 この日も午前中から、続々と就任祝いの来訪者が訪れた。


「カルスさん、やっと落ち着きましたね」


 夕刻近くに最後のお客様を見送って、やっと来訪者の列が途切れた。


「はい奥様、お疲れになりましたでしょう。少し休まれてはいかがですか」

「いえいえ、全ての来訪者に応対するカルスさんに比べれば、こんなの疲れの内にも入りません。せっかくですから、このまま少し庭を散歩して戻りますね」

「左様ですか、ではどうぞごゆっくり」


 カルスさんは丁寧な礼を残し、屋敷に戻っていった。


 一人になった庭で、私は傾き始めた太陽を仰ぐ。ドルーガン王国の空も、じきに見納めだ。


「ミーナ姫」


 ぼんやりと空を眺めていたら、後ろからトンっと肩を叩かれた。


「セリュートさん!?」


 ハッとして振り返れば、立っていたのは予想外の人物だった。


「……あ! すみません、今はもうセリュート新将軍ですよね。将軍就任、おめでとうございます。もしかして、アスラン将軍への急用とかでしょうか? でしたらアスラン将軍はまだ戻っていなくて」


 セリュート青年の突然の訪問に、驚きは隠せなかった。


「はい、知っています。それから私に将軍の敬称は不用です。どうもまだ、馴染みません」


 しかもアスラン将軍あての急用かと思えば、それも違うと言う。


「セリュートさん? ええっと、とにかく立ち話もなんですから、中へどうぞ」 


 あたふたと落ち着かない私とは対照的に、セリュート青年はとても静かな目を私に向ける。


「いえ。すぐに帰りますのでここで」


 セリュート青年は小さく首を横に振り、屋敷に上がろうとしない。セリュート青年の訪問の意図が、まるっきり読めなかった。

 

「ミーナ姫、私は今日、最後に貴方に会いたくて来たんです」

「私に?」


 だけど訪問の目的を告げられても、私の謎は深まるばかりだった。

 セリュート青年はそんな私の心の内を知ってか知らずか、柔らかな笑みを浮かべてジッと私を見つめていた。


「ミーナ姫、私では駄目でしたか? 私の父は筆頭侯爵、母は王家より降嫁した姫で、陛下の叔母にあたります。無理を押せば、貴方を手に入れる事も不可能ではありません。もしも貴方がそれを望んでくれるなら、私は地位も財も全てを投げうっても惜しくはない」


 あまりにも突然の告白。身にあまる真摯で熱い想いの吐露は、ともすればその真偽を疑いそうにもなる。

 けれどセリュート青年の瞳を見れば、伝えられた言葉に嘘偽りが無い事は瞭然だった。

 セリュート青年は急かそうとはせず、静かに告白の答えを待つ。


「セリュートさん……」


 私は、告白の真偽とは別に、セリュート青年の真意に気付いていた。それは他ならない、セリュート青年の告白が教えてくれた。『駄目でしたか』の問いかけから始まった告白の目的は、決して過去に抱いた恋心の成就じゃない。


「私は、アスラン将軍とガラージュに戻ります。そうしてこれが、私の望みです」

「アスラン将軍を選ぶんですね?」


 示された『もしも』の仮定は、セリュート青年の心の中で、既に過去として昇華している。


「選んだつもりはないんです。私の心の奥底では、そもそも最初からアスラン将軍以外の選択肢がありませんでした」

「驚いた! これでは私はアスラン将軍に天晴なくらいの完敗です」


 言葉とは裏腹に、セリュート青年自身、この結果を予想していたに違いない。

 事実、目の前のセリュート青年は、これ以上ないくらい晴れやかに笑う。


 セリュート青年が、最後に私に会いに来たのは、己の心にひとつの区切りをつけるため。


「完敗だなんてとんでもない。将軍としての手腕は絶対、セリュートさんに軍配が上がると思いますよ? 人伝ですが、アスラン将軍は軍務規定を無視した行動もままあったようですから」


 わざと悪戯めかして告げれば、セリュート青年は沈んでいく西日を仰ぎ見て、眩しそうに目を細めた。


「ミーナ姫には、全てお見通しですね。本当は聞かずとも、貴方の答えは分かっていました。けれど敢えて伝えたのは、私の中で踏ん切りをつけたかったからです。わざわざ混乱させるような事を言って、すみません」


 そうしてもう一度私に目線を移すと、セリュート青年は泣き笑いみたいにクシャリと笑って言った。


「けれど、これだけは言えます。愛した心に、嘘はありませんでした」


 ……不思議だった。

 先にもらった告白よりも、言葉がダイレクトに胸に沁みる。決して移り気な思いからではないけれど、湧き上がる高揚と歓喜が、確かに胸を高鳴らせた。


「セリュートさん、嬉しいです。私はこの見た目ですから、人から厭われる事はあっても、受け入れてもらう事は本当に難しかった。だからセリュートさんの気持ち、物凄く嬉しいです……」

「ミーナ姫、やはり貴方は得難い人だ。私は貴方を諦めるのが、物凄く惜しいです。けれど白状すれば、アスラン将軍という人もまた、私にとって得難い人です。飄々とした立ち姿の後ろでは、存外肌理細やかに部下に目を配り、神憑り的な采配でもって大軍を纏め上げてしまうんです。同じ将軍という土俵に立った時、私の手腕が目劣りしないよう、精々尽力しなければなりませんね」


 私達はどちらからともなく手を差し出し、固く握手を交わした。


「セリュートさん、いえ、ここは敢えてセリュート将軍! どうかお元気で!」

「ミーナ姫、ガラージュ領主就任の餞にひとつお教えします。アスラン将軍は目の回る忙しさの合間を縫って、連日王宮を訪ねています。私が苦言を呈しても、アスラン将軍は軍部を抜けての王宮通いを止めません。しかも、その目的に関しては、決して口を割ろうとしません。これの意味するところが何なのか私には見当もつきませんが、もしかすると貴方には何か心当たりがあるかもしれませんね」


 目を丸くする私の手を最後にキュッと握り締め、セリュート青年はその手を解いた。


「さようならミーナ姫。ガラージュ領の一日も早い復興を、ドルーガン王国の地から見守っています!」


 そう言い残すと、セリュート青年はくるりと身を翻し、疾風のように駆けていった。その背中が見えなくなっても、私はしばらくその場から動く事が出来なかった。

 気付いた時、傾いていた太陽は地平線に沈んでいた。





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