第8章 — 囁く街
神殿での悲劇を背に、リーは助けを求めて辺境の交易都市へとたどり着く。しかし、カイロスの悪意はすでに都市全体を侵食し始めていた。鳴り響く幻聴、止まない足音、そして都市を包み込む得体の知れない恐怖。リーはかつての友であるはずのレオン……カイロスと、運命の対峙の時を迎える。
惑星は星一つない夜の闇に沈んでいた。
腐り落ちたかのような灰色の雲が、空を覆い隠している。山々の間を吹き抜ける風が、奇妙な音を立てていた。
それはただの風ではない。
まるで……囁きのようだ。
リーは独り、歩いていた。
疲れ果て、埃にまみれ、その顔には数時間の過酷な旅路が刻まれている。巫女の死が、今も彼の心に重くのしかかっていた。
彼女の遺言が頭から離れない。
「貴方の妹……彼女が鍵となる」
「二人を引き離してはならない……」
彼は拳を握りしめた。組織へ警告し、ララを連れてこなければならない。レオンを見つけ出さなければならない。手遅れになる前に。
山岳地帯を数時間彷徨い、ようやく小さな交易ステーションへとたどり着いた。
岩壁の合間に築かれた、孤立した小さな街だ。ネオンサインが通りを照らし、商人、ハンター、ノマド、密輸業者が行き交う。彼らは、何が迫っているのかなど露ほども知らずに。
リーは通信ブースに飛び込み、パネルを操作した。
画面が明滅する。
――接続中……接続中……接続中……
やがて、見慣れた顔が浮かび上がった。リウだ。
「リーか?」
リウが目を見開く。「今どこにいる?」
リーは深く息を吐いた。「よく聞け。レオンを巫女の元へ連れて行った。彼女は助けようとしてくれたが……すべてがうまくいかなかった。最悪の結末だ」
リウの表情が即座に険しくなる。「何があった?」
リーは数秒間、言葉を詰まらせた。どう説明すべきかさえ分からない。
「レオンは、もう一人じゃない」
沈黙が流れる。
「どういう意味だ?」
「何かが、彼の肉体を乗っ取ったんだ。古のものだ。本来、存在してはならない何かがな」
リウは凍りついた。「カイロスか?」
リーは目を閉じた。「ああ」
リウでさえ、その名を聞いて顔面から血の気が引いていくのが分かった。
「神よ……」
リーは続けた。「頼みがある。ララを連れてこい。今すぐだ」
「ララだと?」
「そうだ。理由を問うな。とにかく連れてこい」
リウが頷く。「分かった。向かう」
通信が切れた。リーは壁に頭を預け、初めて自分の疲れを実感した。本当に、酷く疲れていた。
しかし、その瞬間だった。
コンッ。
彼は目を開けた。
コンッ。
ドアを叩くような音。
リーは周囲を見回すが、誰もいない。
コンッ。
今度は近くで。
コンッ。コンッ。コンッ。
ブースを出ると、通りはいつも通り賑わっている。だが、誰もその音を聞いていないようだった。
コンッ。
リーが通りを見やると、道の端に子供が一人、ポツンと立っていた。じっと、こちらを見つめている。
瞬きをした隙に、その姿は消えていた。
リーの心臓が早鐘を打つ。
その頃、街の反対側では……
恐怖が始まっていた。
ある女性が、何かに怯えて目を覚ました。理由など分からない。ただ心臓が激しく波打っている。
ドクン。ドクン。ドクン。
時計を見ると、午前3時17分。
眠りにつこうとした、その時だった。
ザザザッ。
壁を何かが引っ掻く音。彼女はベッドから飛び起きた。静寂。だが再び、
ザザザッ! ザザザッ!
まるで巨大な爪で壁を削るような音。彼女はランタンを手に窓へ歩み寄った。ゆっくりと窓を開ける。
何もいない。だが下を見ると、壁にはおぞましい爪痕が刻まれていた。何かが壁を這い上がってきたかのように。彼女は即座に窓を閉ざした。
街のあちこちで、人々が足音を聞いて目を覚ましていた。
コンッ。コンッ。コンッ。
廊下を歩く足音。銃を構えてドアを開けても、そこには何もない。
振り返ると、また背後で音がする。近づいてくる。
最後には、自分の頭のすぐ後ろで止まる。
「振り返れ」
声が聞こえた。逃げ出したくても、恐怖で体がすくむ。
街全体がそれを感じ取っていた。
勝手に開くドア。明滅するライト。震えるガラス。
ドクン。ドクン。ドクン。
まるで街の地下で、巨大な心臓が脈打っているかのように。誰も理解できず、誰も見えず、しかし誰もが「それ」を感じていた。
街を見下ろす廃ビルの屋上で、影が観測していた。
レオン。いや、その体を持つカイロスが。黄色い瞳を輝かせ、笑みを浮かべる。
「恐怖か……この感覚、懐かしいな」
下界では、人々が家へと逃げ帰り、鍵をかけ、窓を塞ぎ、子供を抱きしめていた。だが、何の意味もない。恐怖は外にあるのではない。彼らの頭の内側にあった。
カイロスは高みの見物を決め込む。
「走れ。隠れろ。祈れ。何も変わらん」
彼が低く笑う。その笑い声は、数キロ先まで街中に響き渡った。
ハ……ハ……ハ……ハ……ハ……
街中の人々が泣き崩れ、失神し、狂乱に陥る。
リーはそれを感じ取った。即座に理解する。
「レオン……いや、カイロスか」
リーは駆け出した。階段を駆け上がり、ビルを飛び越え、その忌まわしい気配を追う。
宇宙の彼方では、組織の宇宙船が星々を駆けていた。
ララは不安げに座っている。何かがおかしい。酷く間違っている。操縦するリウに、「あと数時間で到着する」と言われても、窓の外を見つめる彼女の胸は張り裂けそうだった。誰かが助けを求めている。遠い、遥か遠い場所から。
彼女は目を閉じ、囁いた。
「レオン……」
同じ瞬間、カイロスの瞳が動いた。まるでその声を聞き取ったかのように。
彼は微笑む。「面白い……」
ゆっくりと首を回し、向かいのビルの屋上に立つリーを見つけた。
二人は動かない。風が吹き、街の明かりが点滅し、遠くでサイレンが鳴り響く。
カイロスが、レオンの顔で笑う。
「ようやくか。退屈していたところだ」
二人の黄金の瞳がぶつかり合う。空が轟き、街の上空で雲が渦巻く。
真の悪夢が、今、始まろうとしていた。
第8章 終わり。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。ついにリーとカイロスが街の屋上で対峙しました! 街全体を恐怖に突き落とすカイロスの力と、それを止めるために駆けつけたリー。そして、宇宙から向かうララ。物語は加速し、次章ではいよいよ「神と狼」の激突が描かれます。ぜひ、続きも楽しみにしていてください!




