⑧
オランダ館の出口を出ると、海風がふわりと頬を撫でた。
「こっちです」
微笑みながら歩く彼女の手は、オランダ館で買った料理で溢れていた。
「……買いすぎじゃない?」
「えへへ……せっかくなので、食べ比べしたくて」
そんなふうに無邪気に笑われたら、もう何も言えなくなる。
大屋根リングの下──海側の端。
そこは本当に穴場で、人はほとんどいなかった。
ベンチに座ると、海の匂いを含んだ風が優しく吹き抜けていく。
結局、彼女は以下の注文をしていた。
・Herring with onions(塩漬けニシンの玉ねぎ添え)900円×2
・Herring on a bun with onions(塩漬けニシンのサンド)750円
・Dutch Gouda cheese sandwich with mustardゴーダチーズサンド700円
・Stroopwafelストロープワッフル450円
・Vanilla ice cream with stroopwafel crumble(砕いたワッフル入りバニラソフト)650円
万博の中でこの値段はかなり良心的だ。
……いささか買いすぎな気もするが……。
「じゃあ……まずは、これから」
彼女が真っ先に差し出してきたのは……
ハーリング(塩漬けニシンの玉ねぎ添え)。
玉ねぎがキラキラ光り、ニシンの身は、大人でも好みが分かれる見た目をしている。
「……これ、結構……匂い、あるね」
「ありますね。でも、本場ではすごく人気で、これを立って食べるのが通なんですって」
「Hさん、一緒に食べましょう」
彼女の笑顔の圧が強い。
Hは小さく咳払いして、ハーリングをつまんだ。
……が、手が止まる。
「うーん……やっぱり、ちょっと……勇気いるなコレ」
彼女が目を丸くし、首をかしげる。
「Hさん、ひょっとして……魚、苦手なんですか?」
「いや、嫌いじゃないんだけど……見た目のインパクトが強烈で」
彼女はぷくっと頬を膨らませた。
「そうやって先入観で決めつけるんですか?」
「いや、その……」
「……ダメです」
「へ?」
「先に偏見で一歩引くの。そういうの、ちょっと……寂しいです」
彼女は、ほんの少し、怒っていた。
怒っているけど、どこか可愛い。
「私、Hさんと初めての味を共有したくて……だから今日、これだけは絶対に食べたかったのに」
その声は怒っているのに、どこか優しい。
「……分かった。ちゃんと食べるよ」
「ほんとですか?」
「本当」
彼女は安堵したように胸に手を当て、にこっと笑った。
「じゃあ……いただきましょう。せーのっ」
二人で同時に、ハーリングを口に運ぶ。
……思っていたより、ずっと柔らかい。塩気は穏やかで、玉ねぎの甘さがふわっと広がる。
「……あれ。うまい」
「でしょ!? 私もびっくりしました。私、もっとクセがあると思ってました」」
彼女の目がきらきら輝く。
「なんか……想像と違った。もっと強烈なのかと思ってた」
「ふふっ。ほら、何事も先入観で決めつけちゃダメなんですよ?」
「……はい。すみませんでした」
「いいんです。素直に食べてくれたので、許します」
彼女が満足そうに笑う。
次に、ハーリングのバンサンドを二人でシェアし、ゴーダチーズサンドをかじり合った。
「これ、チーズすごく濃いのにしつこくないです。」
「美味しいね。」
「デザート……行ってもいいですか?」
「もちろん」
彼女はストロープワッフルを手にして、それを膝の上でそっと半分に割ってシェアした。
「……すごい。キャラメルが柔らかい……!」
彼女は目を輝かせた。
「これ……美味しすぎます……!」
そして砕いたワッフル入りバニラソフトを口に運ぶ。
「……幸せ……」
とろけそうな声がこぼれる。
「幸せって、こういうのを言うんですね」
彼女がぽつりと呟いた。
Hは風を見るふりをして、横顔が赤くなるのを隠した。
「次……大屋根リング、行く?」
「はい。行きたいです。でも……混んでるかな?」
海の風が吹き抜ける。
食べたニシンの余韻よりも、彼女の言葉の方が、ずっと長く胸に残っていた。
潮の匂いを含んだ風がふっと吹いてきた。
彼女はHの袖を軽くつまむ。
「……じゃあ、行きましょうか。」
その声には不思議な明るさと、緊張が少しだけ混じっていた。




