⑤
泣き崩れた彼女を郵便局員が、そっとブースの外へ導くあいだ、Hは黙って後ろに立っていた。
彼女の肩が震えるたび、胸の奥がかすかに痛んだ。
——生きたい、と言っていた。
その言葉が頭から離れずにいた。
Hは彼女をひとまず近くの椅子に座らせ、未開封のペットボトルの水を手渡すと、郵便局員に促されるようにして同じブースへと入った。
AIカメラの前に立つと、受付の郵便局員が言った。
「20年後のあなたの夢を入力してください」
指先を画面に近づけたが、思った以上に手が動かなかった。
彼女とは違う理由だ。
なぜなら、目標も夢も、すべて封印してきたからだ。
本当は何をやりたかったのか。
……全て分からなくなっていた。
……あの事件を境に。
逡巡しながら手を画面に添えた。
20年後の自分。
そこには、何が残っている?
仕事だけか。孤独だけか。
胸が冷えた。
だが、その冷たさの底で、かすかに別の感情が動いた。
彼女が泣いたときのあの言葉。
“生きたい”
その声は、H自身の胸の奥を不意に掴んでいた。
気づけば、指が動いていた。
ゆっくりと、ためらいながら。
“誰かのために笑える俺でいたい”
その「誰か」が誰なのか、分からないままに。
入力が終わると、AIが静かに処理を始める。
数秒後、コトン、と音がする。
青い紙が受け取り口に落ちてきた。
Hはそれを拾い上げた。
そこにあったのは……確かにHだった。
20年後のHは、驚くほど柔らかい表情をしていた。
スーツもネクタイもしていない。
海沿いの見たこともない街を歩いていた。
彼女と同じく、現実世界とは思えない異世界のような世界で旅をしていたのだ。
胸が不思議な熱に包まれた。
そして、手紙の文字を目で追った。
———
20年前の俺へ。
まず言う。お前は思っているよりずっと強い。
そして、思っているよりずっと弱い。
その弱さから逃げるために、仕事に逃げ続けただろう?
仕事。信頼。人望。そして高い評価……。
全部揃っているのに、心のどこにも“手に入れた喜び”がない。
それを、俺は知っている。
たが、20年後の俺は、誰かのために笑っている。
ただ仕事をしているだけじゃない。
誰かと一緒に、生きている。
あの頃のお前が願えなかったものを、俺はちゃんと手にしている。
心から愛せる人と、静かに笑える時間もある。
その人が誰か、今は言わないでおこう。
ただひとつだけ、確実に言える事がある。
お前は変わる。
そして、生きる価値を見つける。
20年後の俺より。
———
読み終える頃には、胸が詰まっていた。
彼女のように声を上げて泣くことはなかったが、
紙を握る指がじんわりと熱くなる。
……俺は、何のために、誰のために生きるんだ?
彼女の涙が頭によぎる。
……ブースの横を見ると、そこに彼女が立っていた。
目元はまだ少し赤い。
けれど、俺を見ると柔らかく笑った。
「……どうでしたか?」
俺は、胸に手紙をしまいながら答えた。
「悪くなかったよ。想像よりもずっと」
彼女は少し安心したように笑い、俺の横に並んだ。
その瞬間、心の奥に静かに波が立った。
20年後の俺が隠した“誰か”。
その影が、ほんの少しだけ、彼女の姿と重なった。




