⑨
お目当ての女性歌手のライブが終わりを告げた頃、日本館の予約時間が迫っていた。
他の人のライブも聴いていくと言うSに別れを告げ、彼女はすぐHのもとへ向かった。
Hは立ち上がり、少しぎこちない笑みを浮かべた。
「どうだった?楽しめた?」
「はい……とっても」
そう答えたけれど、本当は心の奥がざわついていた。
Sの話してくれた事。
Hの少し沈んだ表情。
考え始めたら、壊れてしまいそうで黙った。
シャインハットホールを出て、二人は日本館へ向かった。
その展示の終盤——。
伊勢神宮の式年遷宮を紹介するパネルがひときわ大きく展示されていた。
神様が常にきれいな場所に住めるよう、20年に1度交互に建て替える1,300年も続く行事。
だからいつ見ても美しいのだと。
古い社殿を壊し、すぐ隣の場所に新しく建て替える様子がイラストで分かりやすく説明されていた。
形は同じでも、木は新しく、そうやって永遠を保ち続けてきたんだと理解できた。
(壊すことは、終わりじゃない。新しく生まれるための、始まりなんだ……)
彼女はパネルを見つめながらそう感じて胸が痛くなった。
(……わたしも……何かを壊さなきゃいけないのかな)
Hを引き留めたい気持ち。
夢を願うHの目を曇らせてしまう不安。
自分の体調の変化……。
全部が胸に積もっていく。
日本館を出ると、外の風が少し涼しく、火照った感情を鎮めてくれるようだった。
「……日本館で何考えてた?」
「……少し。思うところがありました。また……いつか……」
「……そっか」
海沿いの大屋根リングを歩く。
照明が水面に線を描いて揺れている。
夢洲の夜は、昼とは別の顔をしていた。
(きれい……でも、胸が重い……)
沈黙が続いたが、しばらく歩いたところで、Hがぽつりと言った。
「今日……無理してない?」
「えっ……!」
びくっと肩が揺れた。
「オランダ館でも、日本館でも、なんとなく分かった。……無理するとき、ちょっと声の出し方が変わる」
(そんな細かいとこまで……気づいてたの……嬉しい)
自分でも分からない涙が波のように胸に満ちる。
「……すみません……。今日は、ちゃんと楽しみたかったから……」
「楽しみたいなら、無理しなくていいんだよ。俺と一緒のときくらい」
「だって……Hさんと……」
その先がどうしても言えなかった。
たった一言で、全てが変わるのが怖かった。
Hは海のほうへ視線を落とし、まるで誰にも届かない声のように呟いた。
「……俺さ、たぶん……」
彼の心の扉が、きしむように動き始めている。
「……自信がなくなることがあるんだ」
「え……?」
「守りたいと思うのに……やりすぎてしまいそうで。誰かを守ったせいで、別の誰かを傷つけるんじゃないかって……それが怖いんだ」
Sの言っていた事件が胸を刺す。
(Hさん……そんなふうに……)
「笑ってくれると嬉しい。でも、その笑顔が俺のせいで曇ったらどうしようって……それも同じくらい怖いんだ」
「……わたしも、です」
自然と言葉がこぼれていた。
「……わたしも不安です。Hさんが、わたしのせいで……」
口にした瞬間、息が止まった。
(言っちゃだめなのに……)
Hの胸の奥にある夢を、自分が握りつぶしてしまうんじゃないかと、その先を言えずにいたそのときだった。
ふらっ……
不意に視界が閉ざされた。
床が波打ち、身体が沈んでいった。
(……また……!)
倒れ込む寸前で、Hの腕に支えられた。
彼女は咄嗟にHの胸に縋った。
「ごめんなさい……ちょっと……」
「ちょっとじゃない!顔色が——」
「大丈夫です……」
本当は全然大丈夫じゃない。
でも言ったらHはきっと、自分の夢を諦める。
それだけは、絶対に嫌だった。
「ベンチへ行こう。話は後でいい」
ベンチに座らされ、彼女は深呼吸を繰り返す。
やっと視界が戻る。
「隠さないでほしい……」
その一言が胸に刺さる。
(……隠したいよ。だって、あなたの夢を奪いたくないの)
「ほんとに……もう大丈夫です。立ちくらみですから」
Hは苦しそうに眉を寄せた。
「……俺より、自分を大事にしてよ」
優しいのに、どこか遠ざかっていくように聞こえた。
その言葉に、胸がぎゅうっと痛む。
(遠くに行かないで……)
泣きつきたかった。
でも、それをしたら、Hは、夢を捨てて自分の手を握り続けてしまう。
だから彼女はまた笑顔を作った。
「ありがとうございます。ほんとに大丈夫ですから」
その笑顔は、たぶんひどく不器用だった。
———
シャトルバスに乗る頃には、夜風が強くなっていた。
Hは窓の外を見つめ、彼女は視線を落としたままだった。
二人の間に、言葉にならない沈黙が厚く積もっていた。
(……壊さないといけないのかな。何かを)
日本館で見た、式年遷宮。
壊すのは悲しいことじゃない。
新しく生まれ直すための、儀式。
その言葉が胸の奥でゆっくり灯る。
(……わたしも。Hさんの未来のためなら……)
決意にも似た静かな熱が胸に生まれる。
バスは闇を進み、夢洲の灯りが遠ざかっていった。
その光の向こうに、まだ誰も知らない別れの前触れが漂っているとも知らずに。
———
「……S。大丈夫、苦しいの?」
布団の中で、弱った心の奥を、Rの吐息が正確に捉えてくる。
初めは拒んだ。
女同士でそんな事をするなんて、と、何度も振りほどこうとした。
でも、Sは抗えなかった。
あの日、Hと彼女の性行為を想起させる話に傷つき、崩れるように涙し塞ぎ込んだSを、Rが抱きしめた瞬間から、気づけば互いの孤独が絡まり離れられなくなっていた。
「……H……」
弱っていた心から、思わずその名が漏れた。
Rの身体が、ぴくりと震えた。
ほんの一瞬で、空気の温度が変わった。
「まだ、あいつのこと……好きなの?」
Sは答えられず、唇を噛んだ。
Rは傷ついた笑みを浮かべた。
悔しさと絶望が入り混じった、壊れた笑顔だった。
「あいつは全部壊した。わたしの心も、夢も、人間関係も……。なのに、Sまで傷付けるの?」
「傷付けるなんて……そんなこと、Hは……!」
「優しい顔して、壊すの!あいつはそういう人間なの!」
RはSの手を強く握る。
逃がすまいとするように。
「Sは……わたしの全部なんだよ。わたしには、あなたしかいないの。Sだけが、壊れたわたしを見捨てずにそばにいてくれた……」
その目は危うく、どこか祈るようにも見えた。
Sは胸が締めつけられた。
Rの孤独も、痛みも、全部知っている。
だから……離れられない。
「……あなたを見捨てたりしないよ」
Rは静かに目を閉じて、Sに額を寄せた。
まるで自分の味方でいて、と、縋すがる子どものように。
その瞬間、Rの中で何かが決まった。
(Hを許さない……Sを守るためにも)
ゆっくりと、ゆっくりと、Rは復讐のため、表舞台に戻る準備を始めた。




