⑧
9月21日(日)国際平和デー(ピースデー)
何度も挑戦して、ようやく勝ち取った西ゲート9時枠。
その日がついにやってきた。
東京から車を大阪へ持ち込んでいるのも、すべては彼女と過ごす時間を大切にしたいがためだった。
その甲斐あって、日本館の抽選が当たり、深夜2時にはオランダ館の先着予約を拾えた。
日付が変わった直後の争奪戦で、障害者用駐車場も8時枠で無事に確保できた。
舞洲万博P&R駐車場Aからシャトルバスで夢洲へ向かい、西ゲート前に到着すると、既に来ているタクシー組の熱気と気合いが渦巻いていた。
「こいつら……何時に来ているんだ?……」
だが長い列を抜け、9時10分すぎにゲートを通過した時には、積み重ねた小さな奇跡の数々に、思わず笑みさえこぼれた。
「Hさん、どこから行きますかっ」
彼女が嬉しそうに腕を軽く引く。
西ゲート近辺にあるオランダ館の予約にはまだ時間がある。
比較的近くで入場できる所を探していると、シンガポール館のスタッフに、「この時間帯は予約なし、待ち時間ゼロですよ」と案内された。
赤い球体が浮かぶように輝くシンガポール館は、夢のような空間だった。
天井を覆うドームスクリーンに広がる光。
指で描かれた来場者の無数の夢が、小さな球体に変わり、空へ向かってゆっくりと昇っていく。
「Hさん……これ、すごい……!」
彼女は丸いパネルの前で、子どものように真剣な顔つきになった。
夢を書けるスペースは小さい。
それでも一生懸命、小さな文字で夢を書き込む。
「できた……!これ、どうするんですか?」
「こうやって、すくうんだよ」
Hが軽く手のひらを差し出すと、彼女もそっと真似して両手で光る球体をすくった。
二人の手から離れた夢は、すぅっと中央に流れて上昇し、天井のスクリーンへ運ばれていく。
上階に行きスクリーンを見上げていると、みんなの書いた夢が花火のように打ち上げられていた。
ふいに彼女が「あっ」と小さく声を上げた。
彼女が書いた(いつも一緒♡)という可愛らしい夢が、柔らかい光を放ちながら浮かんでいた。
そのすぐ横に、Hが書いた(いつも笑って楽しく)が並んで輝いた。
次々とみんなの夢が打ち上げられて、スクリーンに浮かんでは消えていく。
彼女は胸の前で手をそっと組み、小さく呟いた。
「……誰かの夢と並ぶだけで、心があったかくなりますね……」
シンガポール館を出ると、彼女はHの袖をそっとつまんだまま歩き出した。
向かう先はオーストラリア館。
西ゲート入場後、当日登録で予約を取ることができた。
館内へ一歩踏み込むと、ユーカリの香りと涼やかな空気が広がった。
「Hさん……あ、コアラ……!」
入ってすぐ左の大きな木のスクリーンに、コアラの映像が映っている。
枝にしがみつき、のんびり瞬きをする様子に、彼女は目を輝かせた。
「かわいい……!もふもふしてて……胸のあたりがぽよんってしてます……!」
「ぽよん、って、何?」
「ぽよんは、ぽよんですっ!」
そんな他愛ないやり取りをして、コアラの映像を見つめながら、彼女はふいに声を落とした。
「本物……一回でいいから……見たいなぁ……」
その願いは、風に触れるくらい繊細で小さかった。
彼女は語学が堪能だが、病気のことがあって海外には一度も行ってないと、残念そうに言っていた事をHは思い出した。
さらに歩くと、天井と前後左右の巨大スクリーンが鮮やかに光り、青い海が広がっていた。
魚たちがゆるやかに泳ぐその世界に、彼女は圧倒されたように息をのんだ。
「……きれい……まるで海の中にいるみたい……」
「オーストラリアの自然は、すごいからね」
「え……?行ったこと、あるんですか?」
「学生の頃に、バイクで1人旅をしていたんだ」
「自然の大きさに圧倒されっぱなしだったよ。あの広大な大地の中にいると、自分の悩みなんて全部ちっぽけに思えて……」
彼女は目をまん丸にして、吸いこまれるように聞いていた。
「……Hさん……行動力すごすぎです」
「いつか行ってみたいな……オーストラリア……」
「行けるよ。行こう、いつか必ず」
彼女は小さく「約束ですよ」と笑った。
(……この身体で……本当に行けるのかな……でも、いつか……いつか……)
オーストラリア館を出ると、海の青さと光の余韻が胸に残っていたが、彼女は少しの不安を抱えていた。
(……薬の影響なの?身体が重い……)
「次は……オランダ館、ですよね!」
彼女はHの前では、体調の異変を隠して精一杯の笑顔と明るさを心掛けた。
「うん。もうすぐ予約時間だし、行こうか」
オランダ館は、フリー入場もできたが、あえて予約時間どおりに入場した。
展示を見終え、出口付近のショップに入った途端、彼女は足を止めた。
前は買えなかったぬいぐるみが、そこにいた。
「え…Hさん……!見てください……!今日はこの子います……!」
「ほんとだ。今日は運がいいな」
胸の奥が温かくなる。
「連れて帰ってあげないとね」
「はい!」
館を出て、オランダ名物のハーリングを以前と同じように大屋根リングの下、海側の端の方のベンチで食べる事にした。
彼女はハーリングの味に魅了されていた。
「また半分こしようよ」
「ありがとうございます……!」
彼女は一口、ぱくっと食べた。
(……味が、しない)
舌の上を滑っていくのに、何も残らない。
匂いはある。
でも、肝心の味の輪郭がぼけている。
(……薬の副作用、かな……)
強めの薬に変えたばかりだった。
味覚障害が出る可能性があると説明を受けていたけれど、まさか今日とは思わなかった。
「どう?」
「おいしいですっ!ねっとりしてて……濃厚で……!」
言葉が空を切っていくのが、自分でも分かる。
でも言わなきゃ、心配させてしまう。
Hは「そっか」と一言笑っただけで、特に疑うこともなかった。
(……よかった)
(……よくない)
(本当は全然よくないのに……)
胸の奥で小さく何かが沈んでいくのを感じながら、彼女は必死に笑顔を作った。
———
アメリカ館は、相変わらず長蛇の列だった。
けれど、英語レーンはそれほど人がいない。
二人並んで英語レーンに入り、入口のスタッフから簡単な英語テストを受けたが、二人とも難なく通過した。
「すごいな、発音きれいだよ」
「Hさんも、ネイティブ並みですね!」
アメリカ館に入ってから、彼女はふと気づいた。
Hが、笑わない。
映像が素晴らしいから、彼女は素直に声を上げてしまう。
でもHは、ぼうっとしたようにスクリーンを見つめているだけで、口数も、少ない。
(……どうしたの、Hさん……?)
胸がきゅっと痛んだ。
一緒に見ているのに、同じ景色を見ていないような気がした。
館を出たあと、そのままシャインハットホールへ向かった。
有名歌手のライブがあると聞き、家族連れや若い人たちで既にいっぱいだった。
「あら……Hも来てたのね」
私服のSは、いつもよりずっと柔らかい雰囲気で、そこにいた。
「今日はお休みなんですか?」と、彼女は尋ねた。
「うん。ピースデーだから、どうしても来たくてね」
ホールはほとんど満席で、三人とも別々の席に座ることになったが、ライブが始まる直前に、Sが彼女に声を掛けた。
「こっち空いてるよ。よかったら来る?」
Sの横の席が一つだけ空いていた。
「え……じゃ、じゃあ……お邪魔します……!」
彼女はそっと席を移動した。
Hの方を見ると、少し離れた場所で、まっすぐステージを見つめていた。
その横顔は硬く、なにかを考えているようにも見えた。
音楽が流れはじめた頃、彼女は小さな声でSに尋ねた。
「……Sさん。今日のHさん……なんか変で……」
簡単に経緯を話すと、Sは目を伏せ、小さく息を吐いた。
「アメリカ館へ行ったのね……」
「……はい」
Sは、しばらく黙っていた。
音楽がゆるやかにホールを満たす。
そして、静かに言った。
「H……アメリカに行く話が昔あったの」
「アメリカ……?」
「うん。Hは行きたかったのよ。心の底から……」
「自分の技術を、アメリカで磨くのがHの夢だったの。でもね……ある事件があって、行けなくなったの」
「……事件……?」
彼女の声が震えた。
Sはステージを見つめたまま、続けた。
「私とHには、もう1人同期で仲の良い子がいたの。Rって言うんだけど……その子が誹謗中傷の被害にあっていたの」
「その犯人、Rが家族ぐるみの付き合いをしていた上司だったのよ」
息が詰まった。
「Hは……その上司を、許せなかった。正義感が強いからね。……追い詰めたの。徹底的に。結果、その上司は辞職。家族も離れていったわ。Rはその事に心を痛めて……会社を辞めた。H、やりすぎたって……ずっと悩んでた」
「…………」
「そして……アメリカ行きの話を断ったの。Rが辞めたのに自分だけ夢を追えないって……」
彼女は、震える声で尋ねた。
「Hさん……今でも……そのこと、悩んでるんですか?」
Sは小さく頷いた。
「ええ。きっと、今日も。アメリカ館で、思い出したのよ……全部」
Hの横顔が脳裏に浮かぶ。
映像に心を奪われるどころか、どこか遠くを見ていたあの顔。
(……気づいてあげられなかった……)
涙が込み上げる。
……Sは言わなかった。
今またアメリカ行きの話がHに来ていることを。
それは、H自身の口から彼女に伝えるべきことだから。




