⑦
朝の光が、カーテン越しに柔らかく差し込んでいた。
旅館の部屋は静かだった。
聞こえるのは空調の音と、隣で寝ている彼女の小さな寝息だけ。
長いまつげが頬に影を落とし、ほわっと緩んだ唇が愛おしかった。
Hはしばらくその顔を眺めていた。
触れるのがもったいないほど、無垢で柔らかい表情だった。
ふと彼女が目を開けた。
「……ん……?」
少しだけ眠たげにHの顔を見て……固まった。
そして、顔が一瞬でまっ赤になる。
「え、え、Hさんっ……!!!」
「おはよう」
「お、おはようございます……!!!」
彼女はシーツにくるまったまま、転がるように布団の端に避難した。
「……えっと……その……昨日の……」
昨夜のことを思い出したらしい。
耳まで真っ赤だ。
「昨日……すごく……すごく……幸せでした……!」
彼女は、恥ずかしそうに視線を落とした。
「……嬉しくて怖くて……ほんとにHさんが、わたしの上にいる……って思って……夢みたいで……心臓ばくばくして……」
言いながら胸に手を当てる。
「声も……耳の奥に、ずっと残って……思い出しただけで、なんか……変な感じになります……」
変な感じ、と言いつつ彼女はふにゃっと笑って、枕に顔を埋めた。
「匂いも……昨日より今日のほうが強く感じて……ああ、隣にHさんがいるんだって……朝から幸せです」
すると彼女は、急にぽそっと言った。
「……あ、そうだ……ひとつ、内緒にしてた事言っちゃいますね……」
彼女は両手で顔を隠して、恥ずかしそうに震え声で続けた。
「昨日の夜、Hさんが寝てる時に、ある事しちゃいました」
Hが思案していると、彼女は謝りながら言った。
「昨日、わたしのを……いっぱいしてくれたから……その……お返しが……したくて……」
「……経験ないから上手くないんですけど……スマホで調べて……Hさん気づかず起きなかったけど……寝てても……その……元気になるんですね……」
「ごめんなさい……その……その……Hさんの味、ちゃんと覚えておきたかったんです……だって……お薬が強くなると味が、わかりにくくなるかもしれないから……嫌いになりました?」
少しあっけに取られながらHは言った。
「謝らなくていいよ。少し驚いたけど……嫌いになんかならないよ」
そして、布団の中に潜りながら小声で言った。
「……えへ……でも……やっぱり……すこし、苦かったです」
Hが何も言えずにいると、彼女は布団に頭ごと隠れた。
「……わたし、これからお薬の副作用で味覚障害になっても……あの苦さだけは……きっと忘れません。だって……Hさんの味だから……」
そして、彼女はふと表情を曇らせた。
シーツの端をつまみながら、小さな声でつぶやく。
「……その……やっぱり……わたしの身体……傷、多いですよね……?」
Hはゆっくり首を横に振った。
「身体……全部、すごく綺麗だよ」
「……でも、手術あと……」
「見たよ」
彼女の肩がびくっと震える。
Hは続けた。
「それは……生きるために戦った証だろ?」
彼女の目が大きく見開かれる。
「そう。ずっと生きて、ずっと頑張って、ここまで歩いてきたっていう証拠。そんな身体を……見せてもいいって思ってくれたこと、嬉しいよ」
彼女は唇を震わせながら、ぽろっと涙をこぼした。
「Hさん……優しいんですよ……ほんとに……恋愛なんて絶対しない、できないって思ってたのに……ずるいです……」
彼女は泣きながら笑って、そっとHの胸に額を当てた。
「Hさんに見られて……よかった……こんな身体でも……愛してもらえるんだって……初めて思いました……」
「こんな身体、じゃない」
Hは彼女の背中を抱き寄せる。
「……きれいだよ」
彼女は泣きながら、ゆっくり抱き返してきた。
「……朝からこんな幸せで……どうしたらいいんですか……?」
「幸せになってくれればいいよ」
「なってます……もう、これ以上ないくらい……」
———
彼女と関係を結んだ翌日から、Hの世界は静かに変わり始めた。
万博会場に戻り数日経ったが、ブースは終盤に向けて日を追うごとに混雑さが増してきていた。
夏の風がパビリオンの旗を揺らし、人々のざわめきが波のように押し寄せてくる。
いつものHなら、同僚とは最低限の挨拶だけ交わして、他人と必要以上に関わらない……そのはず、だった。
「H、おはよう!昨日のフォロー、本当に助かったよ!」
同僚で、アメリカ出身のウィルが手を振りながら近づいてくる。
気づけば、Hは自然にウィルの隣に立ち、資料を見せながら話していた。
「Hさ、最近めっちゃ話しやすくなったな」
彼女と結ばれたあの日から、胸の奥にこびりついていた暗い影が、少しずつ溶けていった。
彼女の存在が、Hの世界の壊せない壁を、少しだけ変えていた。
「Hさん!」
ふわりと風をまとって、彼女がブースのほうから駆けてくる。
その笑顔を見た瞬間、周囲の空気まで柔らかくなった気がした。
「今日もよろしくお願いします!」
彼女は弾む声で言い、Sのほうへ向き直った。
「Sさん、今日の英語アナウンス、わたしも手伝いますね!」
「ありがとう。助かるわ」
彼女のブースとはあの日から、自然に協力体制が生まれていた。
トラブルの日……常務が帰る際に言った言葉。
「お互いの会社の壁は取っ払え。万博は人と人を繋ぐ場所だ」
いつの間にか、互いのスタッフが手を貸し合い、彼女のブースだけで無く、このパビリオンの中の全てのブース同士が、ひとつのチームのように動くようになっていた。
あらためて、常務の力の凄さとカリスマ性をHは感じていた。
そんな時、人混みの奥から、甲高い泣き声がパビリオンに響いた。
小さな男の子の顔は、涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「迷子ね……」
Sが駆け寄り、英語で声をかけた。
「Are you okay? What’s your name?」
しかし少年はさらに強く泣き出すばかり。
「No… inglese… mamma…!」
「……イタリア語?」
Sが困ったようにHを見るが、Hもイタリア語はわからない。
インフォメーションに連れていくか……そう判断しかけた時、すっ、と、彼女が前に出て、イタリア語で少年に話しかけた。
少年の前にしゃがみ込み、優しい声で語りかけると、泣き声は、ぴたりと止まった。
「そうそう。ママはきっと近くにいるよ。どこではぐれたの?」
「Lì… tante persone… mamma è sparita…」
「そっか。じゃあ一緒に探そっか。大丈夫、大丈夫」
彼女が手をそっと握ると、少年は少し安心した表情を浮かべた。
彼女のイタリア語はあまりにも自然で、HもSも目を丸くした。
パビリオンの中を数分探すと、焦った様子の女性が声を上げ駆け寄って来た。
母と子が抱き合い、女性は彼女に何度も頭を下げた。
「Prego! 迷子にならなくてよかったです!」
彼女が笑う横で、Sがつぶやく。
「……イタリア語、すごいね……」
「へへっ、たまには役に立ちました!語学だけは得意なんです」
彼女の笑顔は、太陽みたいだった。
———
昼のピークを越え、三人はスタッフ控室で弁当を広げた。
他のスタッフは交代で休憩に出ており、控室は静かだった。
「これちょっと苦いけど食べられる?」
Sがゴーヤのおかずを指差し彼女に問いかける。
「私、沖縄出身だから大丈夫です!それに、Hさんの、あの苦いのに比べれば全然──」
Sの目が、まん丸になった。
「それは……」
Sは一瞬で理解して、苦笑いで頬をひきつらせながら言う。
「……こら。女の子がそういうこと、人前で言っちゃダメ!」
彼女の顔がみるみる赤くなる。
「ち、違うんです違うんです!あの……その……!」
顔を真っ赤にして俯く彼女。
その横で、Sは弁当の蓋を静かに閉じた。
「……ごめん、ちょっと席外すね」
その声は、いつもの明るさとは違っていた。
扉が閉まった瞬間、Hはほんの一瞬だけ、Sの目が濡れているのを見た。




