⑥
デート当日の朝、レンタカーを借りたHは、彼女を見つけて一瞬だけ息を飲んだ。
白いブラウスに落ち着いた水色のスカート。
派手じゃないのに、すれ違った人が一度振り返るほど綺麗だった。
———
明治村のゲートをくぐると、澄んだ風がふっと頬を撫でた。
夏の暑さの空の下、村全体がゆっくりと時間を巻き戻したように静かだった。
彼女は深呼吸する。
「……いい匂い。木の匂い……昔の建物の匂いです」
村内に並ぶ建物は、どれも古さの味わいがそのまま残っている。
「明治村の建物って、取り壊されてしまうはずだったのを移築して、当時のまま保存されている本物なんです。だから博物館明治村って言うんですって……」
彼女はぽつりと呟いた。
「……ここで結婚式する人もいるんですよね。テレビで見ました。変わらぬものの中で、変わらぬ愛を誓うって……」
「興味あるの?」
「……す、少しだけ……」
目を逸らしながら、はにかんだ。
「だ、だって……すごく素敵じゃないですか……? 本物の教会で、明治の建物に守られて、変わらない景色の中で……好きな人と……あの……これは、その……ただの憧れで……!」
「うん」
「わ、笑ってます!?」
「笑ってない……らしいなって思っただけ」
彼女はむくれたように頬を膨らませたが、すぐに真顔になって、小さく言った。
「……いつか、そんな未来が来たらいいなって……思ってます。あ、あの……勝手に、ですけど……」
彼女の目はきらきら輝いていた。
こんなにも何かを好きそうに話す彼女を見るのはオランダ館のハーリング以来だった。
「……今日は特に嬉しそうだね」
「えへ……ずっと来たかったので」
村内を歩いていると、貸衣装館の前に着いた。
「……着てみる?」
「ふえっ!? わ、私がですか!?」
「似合うと思うよ」
「……着ます!!」
控え室へ消えていった彼女は、10分後、淡い紫色の袴姿で戻ってきた。
思わず息を呑んだ。
可愛いとか綺麗とか、そういう言葉では足りない。
気品があって、凛としていて、どこか儚い。
「Hさん……に、似合って……ませんよね……?」
「似合いすぎてる。……みんな見てる」
「ええーーーっ!? や、やめてくださいそんなの……!」
写真を何枚も撮ると、彼女は満足そうに微笑んだ。
———
しばらく歩くと博物館明治村簡易郵便局に着いた。
歴史ある木造の建物。
展示物で郵便局の歴史にも触れる事ができる。
そして、人々の想いが10年眠る手紙……。
保管は郵便局がするわけでは無い。博物館明治村の独自サービスとして保管するそうだ。
「……ここが、一番来たかった場所です」
彼女はそう言いながら便箋を受け取り、木の机に向かった。
一文字一文字、丁寧に、何かを確かめるように綴っている。
Hも便箋を開いた。
そして……彼女への気持ちを書いた。
彼女は祈るように手を合わせた。
「……10年後も、Hさんと一緒にいられますように」
言葉は小さくても、その願いはまっすぐだった。
———
郵便局を出ると、遠くで「ポォーーッ」と蒸気機関車の汽笛が響いた。
「SL……SLですよ!」
彼女は子どものように目を輝かせた。
その笑顔を見るだけで、今日ここへ来てよかったと思った。
「乗ってみようか」
「はいっ!」
ガタン――ゴトン――と揺れる車内。
窓から入る風はどこか懐かしく、ゆっくり時間が溶けていく。
彼女はふとHの肩に頭を預け、小さく囁いた。
「……幸せです」
———
夕方になり、出口へ向かう頃、彼女は小さくHの袖を引いた。
「Hさん……今日、その……泊まり、ですよね?」
「旅館は予約してあるよ」
「じ、じゃあ……その……」
「きょ、今日……えっち……するんですよね……?」
言い終えた瞬間、彼女の顔は真っ赤で、もう泣きそうなほど震えていた。
Hはそっと彼女の頭に手を置く。
「嫌じゃなければ、だよ」
「……嫌じゃ、ないです」
夕暮れの明治村を出る時、彼女の指は少し震えていた。
———
宿に着いたのは、夕暮れが群青色に溶けはじめたころだった。
明治村を歩き回った疲れが足に残っているはずなのに、彼女は部屋に入った途端、ぱっと花が咲くみたいに表情を明るくした。
「わぁ……!畳の匂いって、すき……」
彼女は靴を脱ぎながら、まるで新鮮な空気を胸いっぱい吸いこむように深呼吸した。
その仕草すら、どこか子どものようで、でも大人の女性らしい可愛さもあって、Hは気づかれないように目を細めた。
もともと整った顔立ちなのに、本人は自覚がない。
肩にかかる柔らかい黒い髪は光を受けると少しだけ薄茶色に見える。
スタイルも驚くほど良く、華奢なのに曲線はしっかり女性的で、歩くたび服のラインがふわりと変わる。
なのに、彼女自身はまったく気にしていない。
その無防備さが、逆に危なっかしくて、可愛くて、守りたくなる。
彼女は畳に座り込み、手のひらで畳をすりすりして「これ、好きなんですよねぇ……」と笑った。
その瞬間、ふわっと香ったのは……彼女の匂い。
特別な香水でもない。
けれど、彼女自身が持つ、ほのかな甘さと、やさしい石けんの匂いが混ざったような香り。
彼女といると、家にいるような安心感があるのは、きっとこのせいだ。
彼女の匂いは、優しくて、あたたかくて、どこか懐かしい。
Hはその匂いが、気づけばどうしようもないほど好きになってしまっていた。
夕食を終え、ふたりで明治村の話をしながら団らんし、風呂に入り、部屋に戻ったころには夜の虫の声が窓の向こうで響いていた。
そして、自然な流れで彼女がHの隣に座った。
彼女は指先をもじもじ動かしながら、でも逃げようとはしなかった。
「Hさん……えっと……」
「無理しなくていいから」
「無理じゃ……ない、です」
彼女の髪が頬に触れ、あの匂いが一瞬で距離を消していった。
はじめて触れる彼女の身体は、驚くほど温かくて、柔らかくて、壊れそうに繊細だった。
彼女の指は最初すこし震えていたけれど、途中からぎゅっとHの手を握り返してきた。
彼女の呼吸……小さな声……すべてが、胸の奥でほどけていくように感じた。
———
そして……しばらくして。
彼女は、Hの胸に頬を押しあてながら、なぜか、必死に言葉を探すみたいに、もぞもぞ動いた。
「……あ、あの……Hさん……」
「ん?」
「えっと……その……えっちって……」
彼女は、恥ずかしさで顔どころか耳まで真っ赤にしている。
「……なんか……Hさんそのものって感じで……」
「うん?」
「えっと……熱くて硬くて頑なで……でも柔らかくて……なんていうか……可愛いいってかんじで……」
あまりに天然で、Hは声を出さずに笑ってしまった。
「もうっ!笑わないでください……!」
「ごめん。でも……らしくて可愛いよ」
「も〜〜っ……!」
彼女は布団をかぶってしまったが、しばらくして少しだけ顔を出した。
「……あの……つぎ、Hさんの番です」
「ん?」
「……感想……言ってください」
そう言って、彼女は照れながらもにこっと笑った。
「……すごく、可愛かった」
「~~~っ!!」
彼女はばたんと布団に潜り、枕に顔を埋めてもぞもぞ動く。
「可愛かった……って……なんですか……もう……」
「そのままの意味」
「……ちゃんと、私、気持ちよかったですか?」
Hは彼女の背をなでながら、布団の上から抱き寄せた。
「うん。凄く」
彼女は真っ赤になりながら、布団から目だけを出しながら、小さな声でつぶやいた。
「私……Hさんに触られると……なんか、凄く安心するんです」
彼女は、ぽふっとHの胸に倒れこんだ。
「……匂い、すごく好きだよ」
「え?わ、私の匂い……?」
「生活に溶け込む感じ。帰ってきたって感じがする匂い」
「……えへへ……じゃあ……たくさん嗅いでください」
彼女はそのまま、Hの胸の上で指先を動かしながら、柔らかい声でささやいた。
「Hさんといると、すごく……すごくしあわせなんです」
「俺もだよ」
「……じゃあ、明日の朝も……起きたら、まずぎゅって、してくださいね……?」
「もちろん」
彼女はそのまま、安心した顔で眠った。
Hは、彼女の寝息と、ほんのり甘い匂いに包まれながら、この夜のことを絶対に忘れないと心に誓った。




