④
Sが去ったあと、通路は驚くほど静かだった。
照明の淡い光のなかで、彼女とHはまだ手をつないだまま立ち尽くしていた。
彼女の指が震えている。
怖がっている……それが伝わった。
その時、通路の向こうから、どっしりとした足音が響いた。
「H」
振り返ると、常務が凛と立っていた。
状況を一瞬で把握するような目で彼女の顔を見て眉を寄せた。
「その子、相当参っているな。休ませた方がいい」
彼女が慌てて頭を下げる。
「あ、す、すみません、私、別の企業のスタッフでして……」
Hがすぐに補足した。
「常務、この子はうちのスタッフではありません。隣の企業のスタッフです」
「なるほど。天城君のところか」
常務は一つ頷くと、スマホを取り出してその場で数秒会話し、すぐに通話を切った。
「話は通した。戻らなくていい。今夜は休め」
「えっ……でも、来場者の皆さんが……」
彼女の声は責任感に満ちていた。
だが常務は首を振る。
「無理を美徳にするな!」
「疲れたスタッフに笑顔は作れん。スタッフが倒れれば来場者はもっと不安になる。だから休むのは義務だ」
言葉は厳しいのに、声音は優しかった。
「それに電車が動き始めた。シャトル運行と終夜運転で、近場の来場者は十分に帰せる。遠くから来た方達は会場で一夜を過ごさねばならんだろうが、誘導も体制は整った」
常務はこの夜、すでにこのパビリオン全体の主導権を握っていた。
共催構造で複雑なこの館を、各社の責任者と直接交渉し、大広間を来場者の避難所として開放させ、更に、水の配給と非常食の配布も不平不満と混乱がないよう再度手順を見直し、誰がどう動くべきかも細かく指示し、全スタッフをまとめあげていた。
……圧倒的な存在感
……圧倒的なリーダーシップ
スタッフと来場者の両方を守り、場を飲み込み指揮する。
その背中を全スタッフが信頼するのも当然であった。
……だが、彼女はまだ迷っていた。
自分が抜けることで迷惑をかけると思っている。
常務はそれを見抜いた。
「明日も万博は続く。来場者は今日が一生の思い出だが、君らにとっては今日がゴールじゃない。……ここで無理をするのは『責任』じゃない」
彼女の瞳が揺れた。
「帰れる者は帰れ。帰って、また明日最高のおもてなしをしてこその『責任』だ」
そう言って、今度はHを見た。
「H、お前もだ。東京のトラブルを解決してすぐ大阪に戻り、そのままこの騒動。疲れているに決まっているだろう。……今日はもう終わりだ」
そして彼女を指す。
「そのお嬢さんを送って、そのまま帰れ。……業務命令だ」
反論の余地などなかった。
彼女は小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
その声には、罪悪感ではなく、少しの救いがあった。
常務は踵を返し、また戦場の中心へ歩いていった。
その背中に、全ての責任を一人で背負う覚悟が滲んでいた。
残された彼女は、ぽつりと呟いた。
「……すごい方ですね」
「あれが、本物の指導者なんだと思う。……俺は上司に恵まれた……俺は……」
Hは少し遠い目をしてそう言った……その時少し寂しそうな表情をしたのを彼女は気づかなかった。
彼女は胸の前でぎゅっと手を握りしめた。
「……私、帰っていいんだって……初めて思えました」
その言葉には、ほっとした安堵と、帰りたくない気持ちの両方が混ざっていた。




