③
夜の風がゆっくり吹き、波の音だけが聞こえている。
Hと彼女は、まだ手をつないだままだった。
彼らの出展しているパビリオンから少し離れた暗がりのベンチに腰を下ろすと、彼女はそっと肩を寄せてきた。
寄りかかるのではなく、触れているだけの距離。
でもその距離が、胸の奥を熱くする。
「……夢みたいです。さっきの言葉」
彼女が小さく呟く。
「夢じゃない」
「そうだと分かってるのに、信じられないんです。今日一日だけ幸せで、また明日になったら全部なくなるんじゃないかって……」
不安の混ざった弱々しい声だった。
「明日もいる。もう逃げない」
彼女は声を詰まらせ、口元を押さえて泣き笑った。
「……それだけで、生きていける気がします」
その言葉にまた胸が締めつけられる。
重い。怖い。けれど離れたいとは一度も思わない。
彼女が少し俯き、呟く。
「私、誰かを好きになるのって、怖いんです。いつか離れてしまうって、想像しただけで崩れちゃうから……
だから好きになったことがなかった。ずっと避けてきたのに……」
彼女は涙目のまま、笑った。
「どうしようもないくらいHさんが好きです」
胸の奥に、幸福とも痛みともつかない熱が広がる。
彼女が安心したように目を閉じ、Hの肩に静かにもたれた。
海風と鼓動の音だけが流れていた。
その時だった。
「……H?」
振り向くと、通路の照明の影にSが立っていた。
彼女の体がびくっと震え、手を放そうとする。
でもHは離さなかった。
Sは表情を固まらせたまま彼女の元へ一歩踏み出した。
「……探してたの。あなたの事が心配で……ずっと探してたのよ」
彼女は立ち上がり、深く頭を下げた。
「すみません……ご迷惑を……」
震える声。
Sは彼女の涙の跡を見て、Hとつないだままの手を見て……胸の奥を押さえるように息を吸った。
そして彼女ではなく、Hを見た。
「H。あなたのその顔……久しぶりに見た」
「俺の顔?」
「守りたいって決めてしまったのね」
胸の奥が刺される。
Sだけが知っている過去を抉るえぐる言葉。
彼女は意味が分からず、困惑してHとSの顔を交互に見ていた。
Sは続けた。
「その顔になった時のあなたは止められない。そして……みんな、あなたに傷つけられた」
彼女が息を呑む。
Hは声を絞り出す。
「今回は違う」
「違わないわ。だってもう“守る”って顔をしてる」
彼女は、ほとんど聞こえない声で言った。
「私が……迷惑なんですか?」
Sはすぐに否定しなかった。
一度目を閉じ、開いてから、優しい声で言った。
「違う。迷惑なんかじゃない。あなたは悪くない。悪いのは……Hよ」
その言葉は怒りでも憎しみでもなく、痛みを知る者の声だった。
「優しさを武器みたいに使うの……やめてあげて。救いたいと思うほど、その人を縛ってしまうなら……優しくされた人は、逃げられなくなるのよ」
彼女は泣きそうな顔でHを見た。
Sは彼女に歩み寄り、そっと肩に触れた。
「……もし苦しくなったら逃げていいからね。逃げたっていいの」
彼女は首を横に振った。
「逃げません。逃げたくない。それでも苦しいなら……それでも一緒にいたいです」
Sは一瞬だけ彼女を抱きしめた。
そして離れて、小さく微笑んだ。
「……強いのね」
次にHを見る。
その瞳は優しく悲しくて、諦めていた。
「H。この子の幸せを奪ったら……許さないから」
その言葉が胸に、深く突き刺さった。
Sは踵を返し、夜の通路を歩き去っていく。
彼女とHだけが残された。
彼女は手を握ったまま、小さな声で言った。
「……嫌われちゃいましたね、私」
「違う。Sは君を守りたかっただけだ」
「じゃあ……Hさんは誰を守りたいんですか?」
答えは、わかっていた。
「君だ」
彼女が涙をこぼしながら笑った。
その笑顔は、幸福と不安の両方だった。
彼女の手を強く握り返しながら、Hは思う。
誰かの幸せを選べば、誰かの涙を選ぶ。
それでも離れられない。
この夜から、三人の運命は静かに狂い始めていった。




