②
彼女はまっすぐこちらを見ていた。
その震えた声に、逃げ道は無かった。
Hは腹を括った。
「……誰かを大切にすればするほど、失う気がして怖い」
彼女の表情が曇る。
けれど、それでも逃げずに見つめ返してくる。
「昔、守れなかった人がいる。自分には、誰かを大切にする資格がないって分かったんだ」
彼女が息を詰めた音が聞こえた。
「それを忘れたくて……仕事の延長だとか、誰にでも優しいふりをして、自分の本音から逃げてた」
彼女の唇が震えた。
「……じゃあ、私に優しくしたのも“ふり”だったんですか?」
問いから逃げたらまた同じ後悔を積み重ねるだけだ。
「違う。優しくしたのは、ふりじゃない。本気だった」
「じゃあ……どうして“仕事の延長だ”なんて言ったんですか?」
「好きになりそうで……怖くなったからだ」
彼女の目から、ひとつ、涙が落ちた。
Hは続けた。
「一緒にいると、君が笑うと……“守りたい”って思ってしまう。そう思った時点で、もう二度と誰かを失いたくないって恐怖が出てくる」
「……だから距離を置いたんですね」
「あの言葉が君を傷つけてしまったんだね」
彼女はゆっくり首を振った。
「違います。傷つけたのは……逃げたからです」
胸の奥がえぐられた。
彼女は涙を拭わずに話し続けた。
「逃げずに向き合おうとしてくれたなら、私はどんな言葉でも受け止めます。“好きじゃない”と正直に言われたほうがまだ良かった」
痛いほどまっすぐな言葉だった。
「私、強くないです。」
「今日みたいな日も、笑ってなきゃ崩れちゃうから、笑ってただけです。Hさんがいなくて……でも会いたくて……そんなの、耐えられる人間じゃありません」
彼女が喉を震わせた。
「……それでも、諦められなかったんです」
胸の奥の触れてほしくない場所を、真っ直ぐに突かれた。
それでも……彼女は泣きながら笑った。
「Hさんが怖いなら、そのままでいいです。無理に強くならなくていいです。代わりに、私が勝手に好きでいます。それでも迷惑じゃないなら、それでいい」
彼女の声は震えていたのに、どこまでも強かった。
「でももし……Hさんが、一人で苦しい時、記憶の片隅に私を思い出してくれたら……私はそれで生きていけます」
そんな愛し方、耐えられるはずがなかった。
「違う」
気づけば彼女の肩を掴んでいた。
「“苦しい時だけ思い出せ”なんて、言うな」
彼女が大きく目を見開いた。
「君が笑ってる時も、泣きそうな時も、うまくいってる時も、いってない時も……全部そばにいたいと思ってしまう。」
「だから怖かった。失ったら、生きていけなくなる」
「じゃあ……」
「好きだ」
彼女が息を呑む。
「ごまかしじゃない。ふりじゃない。逃げない。君が好きだ。君を守りたいと思う自分が怖くても、それでも好きだ」
彼女の喉から、声にならない嗚咽が漏れた。
「……言ってほしくて……ずっとずっと……」
耐えていた涙が一気に溢れ、彼女は顔を覆った。
「ありがとう……生きててよかった……私……」
その言葉は、あまりにも重く、あまりにも真っ直ぐで……胸の奥が焼けるほど苦しくて愛しかった。
肩を引き寄せると、彼女は拒まず、胸元に顔をうずめた。
細い身体が震えている。
人混みの喧騒から隔離された夜の海風の中。
互いの体温だけが鮮明だった。
どちらも言葉が出なくなるまで抱き締めたあと、彼女が小さく呟いた。
「……もっと一緒にいたい」
離れていたら後悔する。
離れていたら、また逃げる。
だから……彼女の手を取った。
彼女は涙の跡を残したまま、弱く微笑んだ。
二人は歩き出した。
手を離さずに。
振り返らずに。
逃げずに。
……この夜、二人の関係は“始まった”のではない。
ずっと始まりを恐れていた関係に、ようやく踏み込んだだけだった。
そして、さらに大きな運命が二人を待ち受けていることを……。
彼女もHも、まだ知らない。




