⑧
渓谷を包む沈黙は重かった。
燃え続ける落とし穴。
副官が命と引き換えに作った炎。
その前に立つ黒衣の魔女。
ハルカ・セレスティア。
誰も動けなかった。
恐怖だった。
目の前にいる女から感じる圧力が、人間の本能へ直接訴えかけてくる。
だが、不意に一人の兵士が前へ出た。
まだ若い騎士だった。
震える手で剣を握り締めている。
「副官殿は……」
声が掠れる。
「副官殿は命を懸けたんだぞ」
誰も返事をしない。
だが全員が聞いていた。
「俺たちは何のために近衛騎士になった」
剣を強く握る。
「王を守るためだろう!」
震えていた声が少しずつ力を帯びる。
「民を守るためだろう!」
兵士達の顔が上がる。
「この国を守るためだろう!」
副官の最期が脳裏に浮かぶ。
副官はこの国を守る為に逃げなかった。
ならば、自分達も逃げてはいけない。
「俺は怖い!」
若い騎士が叫ぶ。
「だが、副官殿はもっと怖かったはずだ!」
剣を構える。
「それでも戦った!」
一歩前へ出る。
「だから俺も戦う!」
その隣に一人。
また一人。
さらに一人。
近衛騎士達が並び始めた。
王国最強にして国王直属の精鋭。
パンジャ王国近衛騎士団。
彼らは弱くなかった。
魔法という未知に圧倒されて怯えていただけだった。
だが今、副官が思い出させてくれた。
自分達の役目と誇りを。
そして守るべきものを。
「パンジャ王国万歳!」
誰かが叫ぶ。
「パンジャ王国万歳!」
声が重なり渓谷に響く。
「突撃!!」
騎士達が走った。
ハルキは止められなかった。
彼らは理解した上で進んでいる。
死ぬと分かっていて。
それでも誇りのために前へ前へ進んでいる。
ハルカは静かにそれを見ていた。
「愚かね」
彼女が指先を軽く動かす。
それだけで先頭の騎士が吹き飛んだ。
まるで見えない巨人に殴られたかのように身体が宙を舞い、断崖へ叩き付けられる。
骨が砕ける音が響き、騎士はそのまま動かなくなる。
続く騎士達も次々と吹き飛ばされる。
誰も近付けない。
触れることすら出来ない。
崖へ叩き付けられた兵士達が血を吐きながら絶命していく。
まるで子供が虫を払うような作業だった。
あまりにも一方的だった。
それでも、誰一人逃げなかった。
最後まで剣を握り続けた。
「もういい!!」
ハルキが叫んだ。
怒声が渓谷に響く。
「下がれ!!」
兵士達が止まる。
ハルキは前へ出た。
これ以上は意味がない。
これ以上は殺されるだけだ。
副官が命を懸けて未来を託した兵達を、ここで失うわけにはいかない。
ハルカを見据える。
「聞きたい」
魔女は無言でハルキを見つめる。
「お前達は何が望みだ」
返答はない。
ハルキは叫ぶ。
「答えろ!」
ハルカの紫の瞳が細くなった。
「望み?」
冷たい声だった。
「そんなもの決まっているでしょう」
黒い魔力が渦を巻く。
空気が震え地面が軋む。
「殺したい奴を殺すだけよ」
その視線がハルキへ向く。
明確な殺意だった。
圧倒的な黒い魔力が槍のように収束した。
狙いはハルキ。
防げない。ハルキはそう思った。
だが、一本の手がハルカの腕を掴んだ。
「そこまでだ」
ハルカが振り返る。
兵士達も息を呑んだ。
そこにいたのは。
金色の髪と蒼い瞳。
黒い軍服を纏う若き貴公子ウィルヘルム・ロック。
カリメア帝国侵略軍総司令官。
ハルカは不満そうに眉を寄せた。
「邪魔しないで」
「駄目だ」
「殺したいのだけれど」
「駄目だ」
ハルカは小さく舌打ちするがウィルヘルムに従う。
それだけで兵士達の背筋に寒気が走った。
あの魔女が。
世界最強の存在が一人の男の言葉に従った。
ウィルヘルムはハルキを見る。
まるで品定めするように。
そして微笑んだ。
「案内しろ」
ハルキの眉が動く。
「……どこへだ」
ウィルヘルムは答えた。
「王城だ」
蒼い瞳が細くなる。
「国王アマギ・パンジャに会う」
その言葉に。
ハルキの背筋を嫌な予感が走った。
「王を殺すつもりか」
ウィルヘルムは高らかに笑った。
「……失礼……殺しはしないさ」
「王はこの国を治めるのに必要だ」
「信用できるか!」
「……王城でも兵士は抵抗するだろう……無駄な犠牲は出したくないのが本心だ……その為には、我々の圧倒的な戦力を国民に知らしめる必要がある」
「どうだ?お前が死んでくれるか?そうすれば王は助けると約束しよう」
まるで最初からそれだけが目的だったかのようだった。




