⑦
渓谷は静まり返っていた。
左右を切り立った断崖に囲まれた細長い一本道。
馬車が二台ようやく通れる程度の広さ。
古来よりパンジャ王国を外敵から守ってきた龍の谷。
ハルキは崖の上を見上げた。
そこには近衛騎士団の精鋭達が身を潜めている。
全て準備は整っていた。
「来ます」
副官が告げる。
ハルキは黙って前方を見て人数を確認した。
黒衣の集団、十人全員揃っていた。
港を地獄へ変えた化け物達。
その歩みには恐れも警戒も、感情がまるで感じられない。
ただ命令通りに歩いている。
そんな不気味さがあった。
「今だ」
ハルキが静かに合図を送る。
次の瞬間、轟音に断崖が震えた。
巨大な岩石が雪崩のように落下する。
完全に策にハマった。
誰もが勝利を確信した。
だが。
数十トンもの重い岩は、魔法使い達の頭上数メートルで止まった。
「馬鹿な……」
誰も声を失った。
岩が浮いている。
空中で静止していた。
あり得ない光景だった。
そして、巨大な岩はゆっくりと地面へ降ろされた。
まるで誰かが丁寧に積み木を置くように。
音すらほとんど立てなかった。
「そんな……」
兵士の誰かが呟いた。
絶望が広がる。
魔法使い達は何事もなかったように再び歩き出した。
一歩、二歩と。
そして数歩目で……。
ズボリ。
先頭の魔法使いが消えた。
続く者達も次々と地面へ飲み込まれる。
落とし穴だった。
深さ十メートル、底には大量の油が満たされていた。
「今だ!!」
ハルキが叫ぶ。
無数の火矢が放たれる。
空を埋め尽くす炎。
だが……。
黒い靄が広がり火が消える。
火矢は力を失い地面へ落下した。
油は燃えない。
「……駄目か」
副官が呟いた。
誰もが理解した……終わったと。
これが最後の望みだった。
魔法使い達が穴から出れば、もう策はない。
「団長……」
ハルキが振り返ると、副官が意を決した表情を見せた。
長年共に戦った男。
若い頃から近衛騎士団に所属し、幾度も命を預け合った親友。
「何を……」
副官は鎧を脱ぎ始めていた。
「おい」
嫌な予感がした。
「やめろ」
副官は笑った。
穏やかな笑顔だった。
「団長、私は幸せでした」
「何を言っている」
「あなたと一緒に戦えて」
ハルキは理解してしまった。
何をするつもりなのか。
「やめろ」
「後のことは頼みます」
「やめろ!!」
副官は深く頭を下げた。
「貴方は良い上官でした」
そう言い残して油を頭から被り走り始めた。
「待て!!」
ハルキの叫びが響く。
必死で手を伸ばすが僅かに届かない。
副官は穴へと飛び降りた。
油の海へ着地する。
魔法使い達が顔を上げた。
初めて感情らしきものを見せた。
それは困惑だった。
男は全身に油を浴びながら笑っていた。
火打ちナイフで、腰の松明に火をつける。
「パンジャ王国万歳!!」
そして自らの胸へ火を押し当てた。
瞬間、炎が爆発した。
油に引火する。
地獄のような業火が落とし穴を埋め尽くした。
「ぐあああああああ!!」
初めて魔法使い達が悲鳴を上げた。
咄嗟に黒い靄が広がる。
だが遅い。
油は既に身体へ燃え移っていた。
十人全員、一人残らず炎の中で焼かれていく。
やがて声が消える。
残ったのは燃え盛る炎だけだった。
静寂が辺りを包み込む。
副官の壮絶な覚悟と犠牲に誰も動けなかった。
「勝ったぞ……」
ようやく誰かが呟く。
「勝った!!」
歓声が上がる。
兵士達が副官に敬礼をしながら泣きじゃくる。
ハルキは燃え盛る穴を見つめていた。
「馬鹿野郎……」
声が震える。
「馬鹿野郎が……」
涙が落ちた。
だが、その時急に渓谷全体が静まり返った。
風が止まり、炎が揺れなくなった。
「……なんだ」
兵士達が顔を上げる。
渓谷の入口に、一人の女が立っていた。
漆黒の長髪と紫色の瞳。
漆黒のドレス。
この世の者とは思えない程に美しかった。
そして、穴の中で焼け焦げたはずの魔法使い達の死体が動き出し一斉に膝をついた。
まるで王を迎える臣下のように。
そして灰になり崩れ落ちて跡形も無く消えた。
女の紫の瞳に初めて感情が宿った。
「私の子達を」
声は小さいが、渓谷全体が怒りの感情で震えた。
「よくも殺してくれたわね」
ハルキは悟った。
港で戦った魔法使い達など前座だったのだと。
本当の災厄が、今、ここへ来たのだと。
世界最強の魔女。
ハルカ・セレスティア。
彼女の登場によって。
戦いは新たな絶望へと姿を変えた。




