②
王城の西塔。
そこにある執務室の窓からは、王都全体が見渡せた。
だが今、その景色に活気はない。
煙突から立ち上る煙は減り、市場は閑散としている。
飢えは確実に王都を蝕んでいた。
「……最悪だな」
窓辺で呟いた男は、一枚の報告書を机へ放り投げた。
ハルキ・レオンライト。
パンジャ王国侯爵家嫡男。
三十五歳にして、王国近衛騎士団統括団長のエリート。
そして国王アマギ・パンジャの親友だった。
幼少期から騎士学校まで共に過ごした腐れ縁。
寄宿舎では同室で、授業を抜け出して城下町へ遊びに行き、教師に追い回されたことが何度もある。
嫌がるアマギを囃し立て、深夜に女子寮へ忍び込もうとして二人揃って一週間の謹慎を受けたこともある。
「今思えば馬鹿だったな」
苦笑する。
だが、その頃は楽しかった。
国も豊かで人々には活力があり、こんな未来が来ることを想像することさえ出来なかった。
扉がノックされた。
「失礼します」
若い騎士が入室する。
「南門で略奪騒ぎです」
「何人死んだ」
「三人です」
ハルキは目を閉じた。
もう驚かない。
最近は毎日だ。
飢えは人々から理性を奪う。
「分かった」
騎士が去り、部屋に静寂が戻るとハルキは机の引き出しを開いた。
そこには一枚の古いハンカチが入っていた。
何度も洗われた白い布。
刺繍は少し色褪せている。
だが彼はそれを捨てられなかった。
自然と口元が緩む。
「……参ったよな」
あの日のことを思い出す。
———
五年前。
王城の庭園だった。
当時のハルキは有名だった。
女好きの遊び人。
端正な容姿から社交界の華で、婚約話が出ては消え、恋文は山ほど届き、本人もそれを楽しんでいた。
誰も本気で愛さない。
誰にも縛られない。
それが自分だと思っていた。
そんなある日だった。
三日徹夜で海賊討伐に出ていた疲労から、庭園で不意に倒れてしまった。
剛健な体が自慢だったが流石に無理が祟った。
目を覚ますと誰かの膝枕の上だった。
柔らかな声が聞こえた。
「起きましたか?」
見上げると、陽光を背にした美しい少女がいた。
十歳にも満たない少女。
綺麗だった。
だが、美しさよりその目にハルキは心を奪われた。少女は、春の湖のように澄んだ瞳をしていた。
「お水、飲みますか?」
彼女は笑った。
アマギ国王の妹。
ミライ・マティーニ。
まだ十三歳だった。
(パンジャの名は王にだけ許された称号で、マティーニ家で名乗ることが許されたのはアマギだけだった。)
「無理しすぎです」
「皆さん、ハルキ様は強いって言いますけど」
「強い人ほど無理して倒れるんですよ」
少女はそう言って笑った。
「だから休んでください」
「国を守る為に、犠牲になる人がいたら、悲しいです」
その言葉が不思議なくらい胸に刺さった。
誰もそんなことを言わなかった。
皆が求め、ハルキに期待した。
戦え。勝て。守れ。強くあれ。
だが彼女だけは違った。
休んでくださいと言った。
それが嬉しかった。
心が救われ、気づけば彼は変わっていった。
やがて女遊びは控え、婚約話も断り、社交界からも距離を置いて独身を貫いた。
周囲は知らないが、王だけはその変化の理由を知っていた。
「お前、まさか……」
「そのまさかだ」
「十七歳も下だぞ」
「知ってる」
「妹だぞ」
「知ってる」
「……殺すぞ」
「勘弁してくれ……」
そんなやり取りをしたのも一度や二度ではない。
だがハルキは諦めなかった。
いや。
諦められなかった。
恋だったからではない。
もっと深い。
あの少女がいる限り、この国を命を賭けて守りたいと思えた。
———
窓の外を再び見る。
乾いた王都。
飢えた民。
崩れゆく祖国。
そして迫り来るカリメア。
ハルキの瞳から笑みが消えた。
「来るなら来い」
決意は揺るがなかった。
「この国は誰にも渡さない」
拳を強く握る。
「王も、民も……あの人も」
窓の外では夕陽が沈み始めていた。
———
その頃、遥か西の海では黒竜の旗を掲げた艦隊が着実に距離を縮めていた。
パンジャ王国は知らない。
カリメア帝国が欲しているものが、鉱山でも土地でもないことを。
目的は人だった。
パンジャ人は勤勉で、教育水準が高かった。
今でこそ国難で犯罪が横行しているが、平時の時の犯罪率は世界的にも著しく低く、規律を守る国民性と従順性。そして、技術を学ぶ能力にも優れていた。
帝国の奴隷市場では、パンジャ人一人が他国の三倍の値で取引されると目されていた。
優秀で、従順だからだ。
帝国は知っていた。
この国は貧しく領土に価値はない。
だが、人材だけは世界有数の価値があると。
そして、もう一つ。
帝国が欲したものがあった。
パンジャ王国第一王女。
ミライ・マティーニ。
透き通る瞳で、見る者全てを魅了すると言われる美貌。
その名は海を越え、大陸中に知れ渡っていた。
絶望の中でもなお美しい一輪の花。
そして、その花を守るため命を懸ける男がここにいた。
戦争は、もう始まっていた。




