⑩
大屋根リングから階段を降りると、会場の喧騒がゆっくりと戻ってきた。
さっきまでの静かな景色が嘘みたいに、人の声と足音が広がっている。
「……さっきの景色、忘れられないです。海も綺麗だったけど、それだけじゃなくて……胸がスッとする感じがしました」
「うん。いい場所だったね」
「またいつか……行けたらいいですね」
彼女の言葉は、願うようでもあり、祈るようでもあった。
その声にどう返せばいいかわからなくて、Hはただ頷く。
歩きながら、彼女が突然立ち止まる。
「Hさん、ちょっと手、出してください」
「手?」
言われるまま手を出すと、彼女はそっと何かを置いた。
「ストロープワッフル、最後のひとかけらです。せっかくだから……一緒に食べたかったんです」
掌には本当に小さな一片。
でも彼女は満足そうに目を細めている。
「じゃあ……せーの、で食べませんか? 最後だから」
「……わかった」
彼女は自分のひとかけらを指先でつまむ。
「せーのっ」
二人同時に口へ運ぶ。
甘さが広がり、カリッと小さな音がした。
それだけで、胸の奥にじんわり温かさが染みた。
「おいしい……最後までちゃんと美味しいですね」
「そうだね」
「……なんか、今日ってすごいですね」
「すごい?」
「だって、ただ食べてただけなのに、ずっと嬉しいんです。誰かと同じ味で幸せになるって、こんなに楽しいんだって初めて知りました」
彼女はほんのり笑って、視線をまっすぐ前へ向けた。
その横顔を見ていると、胸のあたりがふっと熱くなる。
「私、今日の事、忘れたくないです。思い出そうとしなくても思い出せるくらい……ちゃんと大事にしたい」
「……大事にできるよ。君なら」
口にした瞬間、彼女は驚いたように目を見開き、それから静かに笑った。
「……ありがとうございます」
その笑顔を見て、無意識に歩幅が彼女の歩幅と合っていた。
まるで自然と並んで歩くように。
しばらく歩くとパビリオンが視界に入り、彼女の足がぴたりと止まる。
「……もうすぐですね」
「うん」
彼女は深呼吸をして、小さく拳を握る。
「怖いけど……行きたい。ちゃんと知りたい。期待してる自分ごと、ちゃんと受け止めたいんです」
それは、しっかりとした覚悟だった。
「無理だと思ったら言ってくださいね」
「言います。そしたらその時は……逃げる理由、ください」
「任せてよ」
彼女は少し笑う。
だけど歩き出すその一歩は、ほんのわずか震えていた。
人混みを避けながら歩くうち、彼女がふいに袖をつまむ。
「……離れないでくださいね」
その声は頼るよりも、願うような響きだった。
その一言で胸の奥が大きく揺れる。
「ああ。離れないよ」
そう答えながら……心のどこかがひどく痛んだ。
彼女の“支え”になってはいけない。
期待させてしまえば、彼女はきっと傷つく。
———
あの時の事が不意に脳裏に浮かんだ。
かっての出来事。
忘れようと思っても忘れられない出来事……。
それなのに、手を振りほどくことなんてできるはずがなかった。
———
パビリオンの入り口が目の前に近づく。
電子チケット(プリントアウトした)のQR表示を開く彼女の指先は、微かに震えている。
折りたたまれたチケットの裏には、オランダ館のすぐ下の行に、もう一つパビリオン・イベントの予約が印字されていた。
彼女はその文字を見て唇を結ぶ。
「……行きましょう」
彼女は覚悟を抱えて一歩を踏み出した。
Hも彼女のすぐ横で歩き出す。
けれど胸の奥では、遠くから冷たい波が押し寄せ始めていた。
……この距離のままでは、きっとどこかで破綻する。近くなるほど、離れなきゃいけなくなる。
そんな矛盾が、歩くたびに静かに積み上がっていく。
パビリオンの扉が、ゆっくりと開いた。
———
通路を抜けると、目的の展示が現れた。
「……ここだ」
そこで、彼女の足が止まった。
彼女は小さく息を呑み、彼女の目はそこに釘付けになった。
ips細胞から生まれたips心臓……約1センチの小さな心臓……。
人工の心臓がとても小さく鼓動していた。
……心臓の鼓動音が聞こえる。
その瞬間、彼女の目から涙がすっと溢れた。
堰を切ったように泣くのではなく、静かに、気づいたら涙が落ちている……そんな泣き方だった。
彼女は唇を震わせながら呟く。
「来るの、怖かったんです。でも、知りたかった。希望があるのか、ないのか……期待しすぎちゃダメだって思ってるのに、期待してしまう自分もいて……」
涙がぽた、ぽたと床に落ちる。
「生きたいって……思うんです。普通に……ただ、普通に。結婚して、誰かと笑って、ご飯食べて、歳をとって……夢みたいなことじゃなくて、それだけでいいのに」
その言葉を聞くのが苦しかった。
彼女の望みはあまりにも当たり前で、Hは声をかけたいのに、何を言えばいいかわからなかった。
「大丈夫」なんて無責任なことは言えない。都合の良い慰めも言えない。
沈黙のままではいけないとわかっているのに、声が出ない。
そんなHの袖を、彼女が弱く掴んだ。
「Hさん……いてくれて、よかった。一人だったら……私はきっと、この展示、最後まで見れませんでした」
彼女は涙で滲んだ目で笑った。
「……ありがとう。本当に……ありがとう」
その笑顔を見てしまった瞬間……離れなければいけないはずの気持ちが、形を変えていくのを感じた。
心の中で警報が鳴る。
……この距離は危険だ。
……彼女のためにも距離を置くべきだ。
……なのに、離れられない。
葛藤が胸に渦を巻き、呼吸が乱れそうになる。
彼女は涙を拭いながら言った。
「私、もっと諦めなきゃって思ってきたのに……今日みたいに幸せだと、諦めるのが余計に怖くなります」
Hは思わず、抑えきれずに言葉を返した。
「諦める必要なんてないだろ」
彼女が驚いて顔を上げる。
「誰が決めたんだよ。遅いとか、希望がないとか……全部ただの数字や確率だろ。生きたいって思ってる限り、終わりなんてまだ来てない」
彼女は息を呑む。
自分でも驚くほど強い声が出てしまった。
「逃げたっていいし、泣いたっていい。迷っても、弱くなってもいい。それでも……生きたいって思う自分まで否定する必要はない」
言いながら、Hの中にも気づきが刺さる。
“彼女を救いたい”
そう思っているのは……好きになってしまったんだ。
その事実を自覚した瞬間、世界が音を立てて崩れた気がした。
好きになってはいけない相手を、好きになってしまった。
彼女は泣きながら笑う。
「……そんなふうに言ってもらえるなんて、思ってなかったです。今日……来てよかった。Hさんと来られて……本当に、よかった」
涙の跡が残る顔で笑う彼女は、綺麗で、脆くて、愛おしかった。
なのに……その笑顔はHを追い詰める。
この距離のままでは彼女を幸せにできない。
けれど離れたら彼女はまた傷つく。
答えのない矛盾の中で、胸が痛む。
Hの胸の中には、たったひとつの恐ろしい確信が生まれていた。
このままじゃ、いつか彼女を傷つけてしまう。
それでも……離れられない。
次の展示に進むと、更に神秘的な空間が広がっていた。
中央には薄いガラスケース。その中で、薄紅色の膜のようなものが、静かに、しかし、確かに、波打っていた。
「……心筋シートだ」
Hが呟くより先に、彼女は息を呑んで近づいた。
「鼓動してる……」
薄い膜が、泡立つように、震えるように、ふわりと上下する。
まるで風を持たないはずの海の表面が、ひとりでに揺れているようだった。
……iPS細胞から作製した心筋細胞をシート状にし、弱ってしまった心臓にこのシートを貼ることで鼓動を取り戻す。
彼女は指先を口元へ寄せていた。震えを止めるかのように。
「……貼るだけで、心臓が……助かるの?」
「助けられる可能性があるってやつだね」
「可能性……」
その三文字が、彼女の胸に刺さったのが分かる。
彼女はガラスの向こうの心筋シートから目を離さない。
「揺れてるの、綺麗ですね。……生きてるみたい」
彼女の声には涙の音が混ざっていた。
心筋シートは、規則的には揺れなかった。
強く揺れる瞬間、弱くなる瞬間、不揃いな瞬間……
生きようともがいているようだった。
「……私も、あんなふうだったらいいのに」
「え?」
「私の身体も……ああやって“生き続けたい”って揺れてくれたら……って思ってしまいます」
彼女は泣かないように笑った。
「生きたいって思ってるのに、体がついてこないのは苦しいですね。頑張ってるのに、ちゃんと頑張れてない気がして……すぐに限界って言われて……」
Hは肩に手を置きたい衝動が走った。
でも触れたらきっと壊れる。
だから拳を握りしめたまま踏みとどまった。
「生きたいって思ってるだけで十分だろ」
彼女はわずかに首を横に振る。
「十分じゃないです……“生きたい”って思って、ちゃんと生きられる人が羨ましいんです」
彼女は続ける。
「誰かと好きなだけ歩けて、誰かと喧嘩できて、誰かの隣で年を取れる……そんな普通の人生が羨ましい。望んだだけでできる人が羨ましい」
その背中は小さく、震えていた。
Hは言い返せなかった。
誰よりも彼女の言葉が正しいから。
彼女は小さな声で笑った。
「でも……今日までは、そんな未来のこと、羨ましいってしか思えなかったけど……」
心筋シートを見たまま、ぎゅっと唇を結ぶ。
「今はちょっと、怖いです。もし……もし、ほんの少しだけ希望が叶ったら……それを失った時、きっと以前よりもっと心が壊れてしまいます」
希望が増えるほど、失うのが怖くなる。その痛みの心情が、Hにも容赦なく刺さった。
「それでも、知りたかった。生きたいって思ってもいい未来が……本当にどこかにあるのかどうか」
Hは耐えきれず口を開いた。
「あるよ」
彼女が驚いて顔を向ける。
「……あるって、そんな簡単に言っちゃダメです」
その声は少し責めていた。
「君は生きたいと思ってる。それだけで、希望に十分値する」
心筋シートが揺れている。
不揃いでも、弱くても、それでも止まらず震え続けている。
それを見つめながら彼女は涙をポタリと床に落とした。
「……怖くなってきました。生きたいって思うほど、Hさんと一緒にいた今日みたいな時間を思い出しちゃうから……」
胸が締め付けられる。
彼女が震える声で言う。
「もし、いつかほんの少しだけ未来が延びたら……その時も、今日みたいに誰かと笑っていられたらって……そんなことまで考えちゃって……怖いです」
その“誰か”が誰なのか、聞かなくてもわかった。
彼女は涙を拭い、無理やり笑って言った。
「すみません、変なこと言いました。ありがとうございます。……もう少しだけ、見ててもいいですか?」
「ああ」
Hは隣に立っていた。
触れない距離で、けれど離れない距離で。
心筋シートは、弱くても、揺れ続けていた。
……この時間が、きっと彼女を救う。
でも同時に、きっと彼女を壊す。
Hは気づいていた。
だけど離れられなかった。
長い沈黙のあと、彼女は涙の跡を残したまま、ゆっくりと顔を上げた。
「……行きましょう。まだ、見たい展示があるんです」
声はかすれていたが、自分の脚で進もうとする力があった。
Hはうなずき、彼女の歩幅に合わせて隣を歩き出す。
ガラスの向こうで揺れる心筋シートが、遠ざかるにつれ小さく、静かになっていった。
だが彼女の肩は、小さく、小さく震えていた。
その震えを見ないふりをしながら、二人は展示エリアの出口へ向かった。




