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組織的異世界転生〜終末の魔女を救う為、呪われ姫は夢洲に仕掛けをしました〜  作者: たりな
第一章 異世界への入り口(万博内郵便局)

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 大屋根リングから階段を降りると、会場の喧騒がゆっくりと戻ってきた。

 さっきまでの静かな景色が嘘みたいに、人の声と足音が広がっている。

「……さっきの景色、忘れられないです。海も綺麗だったけど、それだけじゃなくて……胸がスッとする感じがしました」

「うん。いい場所だったね」

「またいつか……行けたらいいですね」

 彼女の言葉は、願うようでもあり、祈るようでもあった。

 その声にどう返せばいいかわからなくて、Hはただ頷く。

 歩きながら、彼女が突然立ち止まる。

「Hさん、ちょっと手、出してください」

「手?」

 言われるまま手を出すと、彼女はそっと何かを置いた。

「ストロープワッフル、最後のひとかけらです。せっかくだから……一緒に食べたかったんです」

 掌には本当に小さな一片。

 でも彼女は満足そうに目を細めている。

「じゃあ……せーの、で食べませんか? 最後だから」

「……わかった」

 彼女は自分のひとかけらを指先でつまむ。

「せーのっ」

 二人同時に口へ運ぶ。

 甘さが広がり、カリッと小さな音がした。

 それだけで、胸の奥にじんわり温かさが染みた。

「おいしい……最後までちゃんと美味しいですね」

「そうだね」

「……なんか、今日ってすごいですね」

「すごい?」

「だって、ただ食べてただけなのに、ずっと嬉しいんです。誰かと同じ味で幸せになるって、こんなに楽しいんだって初めて知りました」

 彼女はほんのり笑って、視線をまっすぐ前へ向けた。

 その横顔を見ていると、胸のあたりがふっと熱くなる。

「私、今日の事、忘れたくないです。思い出そうとしなくても思い出せるくらい……ちゃんと大事にしたい」

「……大事にできるよ。君なら」

 口にした瞬間、彼女は驚いたように目を見開き、それから静かに笑った。

「……ありがとうございます」

 その笑顔を見て、無意識に歩幅が彼女の歩幅と合っていた。

 まるで自然と並んで歩くように。

 しばらく歩くとパビリオンが視界に入り、彼女の足がぴたりと止まる。

「……もうすぐですね」

「うん」

 彼女は深呼吸をして、小さく拳を握る。

「怖いけど……行きたい。ちゃんと知りたい。期待してる自分ごと、ちゃんと受け止めたいんです」

 それは、しっかりとした覚悟だった。

「無理だと思ったら言ってくださいね」

「言います。そしたらその時は……逃げる理由、ください」

「任せてよ」

 彼女は少し笑う。

 だけど歩き出すその一歩は、ほんのわずか震えていた。

 人混みを避けながら歩くうち、彼女がふいに袖をつまむ。

「……離れないでくださいね」

 その声は頼るよりも、願うような響きだった。

 その一言で胸の奥が大きく揺れる。

「ああ。離れないよ」

 そう答えながら……心のどこかがひどく痛んだ。

 彼女の“支え”になってはいけない。

 期待させてしまえば、彼女はきっと傷つく。


———


 ()()()の事が不意に脳裏に浮かんだ。

 かっての出来事。

 忘れようと思っても忘れられない出来事……。

 それなのに、手を振りほどくことなんてできるはずがなかった。


———


 パビリオンの入り口が目の前に近づく。

 電子チケット(プリントアウトした)のQR表示を開く彼女の指先は、微かに震えている。

 折りたたまれたチケットの裏には、オランダ館のすぐ下の行に、もう一つパビリオン・イベントの予約が印字されていた。

 彼女はその文字を見て唇を結ぶ。

「……行きましょう」

 彼女は覚悟を抱えて一歩を踏み出した。

 Hも彼女のすぐ横で歩き出す。

 けれど胸の奥では、遠くから冷たい波が押し寄せ始めていた。

 ……この距離のままでは、きっとどこかで破綻する。近くなるほど、離れなきゃいけなくなる。

 そんな矛盾が、歩くたびに静かに積み上がっていく。


 パビリオンの扉が、ゆっくりと開いた。


———


 通路を抜けると、目的の展示が現れた。

「……ここだ」

 そこで、彼女の足が止まった。

 彼女は小さく息を呑み、彼女の目はそこに釘付けになった。

  ips細胞から生まれたips心臓……約1センチの小さな心臓……。

 人工の心臓がとても小さく鼓動していた。

 ……心臓の鼓動音が聞こえる。

 その瞬間、彼女の目から涙がすっと溢れた。

 堰を切ったように泣くのではなく、静かに、気づいたら涙が落ちている……そんな泣き方だった。

 彼女は唇を震わせながら呟く。

「来るの、怖かったんです。でも、知りたかった。希望があるのか、ないのか……期待しすぎちゃダメだって思ってるのに、期待してしまう自分もいて……」

 涙がぽた、ぽたと床に落ちる。

「生きたいって……思うんです。普通に……ただ、普通に。結婚して、誰かと笑って、ご飯食べて、歳をとって……夢みたいなことじゃなくて、それだけでいいのに」

 その言葉を聞くのが苦しかった。

 彼女の望みはあまりにも当たり前で、Hは声をかけたいのに、何を言えばいいかわからなかった。

「大丈夫」なんて無責任なことは言えない。都合の良い慰めも言えない。

 沈黙のままではいけないとわかっているのに、声が出ない。

 そんなHの袖を、彼女が弱く掴んだ。

「Hさん……いてくれて、よかった。一人だったら……私はきっと、この展示、最後まで見れませんでした」

 彼女は涙で滲んだ目で笑った。

「……ありがとう。本当に……ありがとう」

 その笑顔を見てしまった瞬間……離れなければいけないはずの気持ちが、形を変えていくのを感じた。

 心の中で警報が鳴る。


 ……この距離は危険だ。

 ……彼女のためにも距離を置くべきだ。

 ……なのに、離れられない。


 葛藤が胸に渦を巻き、呼吸が乱れそうになる。

 彼女は涙を拭いながら言った。

「私、もっと諦めなきゃって思ってきたのに……今日みたいに幸せだと、諦めるのが余計に怖くなります」

 Hは思わず、抑えきれずに言葉を返した。

「諦める必要なんてないだろ」

 彼女が驚いて顔を上げる。

「誰が決めたんだよ。遅いとか、希望がないとか……全部ただの数字や確率だろ。生きたいって思ってる限り、終わりなんてまだ来てない」

 彼女は息を呑む。

 自分でも驚くほど強い声が出てしまった。

「逃げたっていいし、泣いたっていい。迷っても、弱くなってもいい。それでも……生きたいって思う自分まで否定する必要はない」

 言いながら、Hの中にも気づきが刺さる。

 “彼女を救いたい”

 そう思っているのは……好きになってしまったんだ。

 その事実を自覚した瞬間、世界が音を立てて崩れた気がした。

 好きになってはいけない相手を、好きになってしまった。

 彼女は泣きながら笑う。

「……そんなふうに言ってもらえるなんて、思ってなかったです。今日……来てよかった。Hさんと来られて……本当に、よかった」

 涙の跡が残る顔で笑う彼女は、綺麗で、脆くて、愛おしかった。

 なのに……その笑顔はHを追い詰める。

 この距離のままでは彼女を幸せにできない。

 けれど離れたら彼女はまた傷つく。

 答えのない矛盾の中で、胸が痛む。

 Hの胸の中には、たったひとつの恐ろしい確信が生まれていた。

 このままじゃ、いつか彼女を傷つけてしまう。

 それでも……離れられない。


 次の展示に進むと、更に神秘的な空間が広がっていた。

 中央には薄いガラスケース。その中で、薄紅色の膜のようなものが、静かに、しかし、確かに、波打っていた。

「……心筋シートだ」

 Hが呟くより先に、彼女は息を呑んで近づいた。

「鼓動してる……」

 薄い膜が、泡立つように、震えるように、ふわりと上下する。

 まるで風を持たないはずの海の表面が、ひとりでに揺れているようだった。

 ……iPS細胞から作製した心筋細胞をシート状にし、弱ってしまった心臓にこのシートを貼ることで鼓動を取り戻す。

 彼女は指先を口元へ寄せていた。震えを止めるかのように。

「……貼るだけで、心臓が……助かるの?」

「助けられる可能性があるってやつだね」

「可能性……」

 その三文字が、彼女の胸に刺さったのが分かる。

 彼女はガラスの向こうの心筋シートから目を離さない。

「揺れてるの、綺麗ですね。……生きてるみたい」

 彼女の声には涙の音が混ざっていた。

 心筋シートは、規則的には揺れなかった。

 強く揺れる瞬間、弱くなる瞬間、不揃いな瞬間……

 生きようともがいているようだった。

「……私も、あんなふうだったらいいのに」

「え?」

「私の身体も……ああやって“生き続けたい”って揺れてくれたら……って思ってしまいます」

 彼女は泣かないように笑った。

「生きたいって思ってるのに、体がついてこないのは苦しいですね。頑張ってるのに、ちゃんと頑張れてない気がして……すぐに限界って言われて……」

 Hは肩に手を置きたい衝動が走った。

 でも触れたらきっと壊れる。

 だから拳を握りしめたまま踏みとどまった。

「生きたいって思ってるだけで十分だろ」

 彼女はわずかに首を横に振る。

「十分じゃないです……“生きたい”って思って、ちゃんと生きられる人が羨ましいんです」

 彼女は続ける。

「誰かと好きなだけ歩けて、誰かと喧嘩できて、誰かの隣で年を取れる……そんな普通の人生が羨ましい。望んだだけでできる人が羨ましい」

 その背中は小さく、震えていた。

 Hは言い返せなかった。

 誰よりも彼女の言葉が正しいから。

 彼女は小さな声で笑った。

「でも……今日までは、そんな未来のこと、羨ましいってしか思えなかったけど……」

 心筋シートを見たまま、ぎゅっと唇を結ぶ。

「今はちょっと、怖いです。もし……もし、ほんの少しだけ希望が叶ったら……それを失った時、きっと以前よりもっと心が壊れてしまいます」

 希望が増えるほど、失うのが怖くなる。その痛みの心情が、Hにも容赦なく刺さった。

「それでも、知りたかった。生きたいって思ってもいい未来が……本当にどこかにあるのかどうか」

 Hは耐えきれず口を開いた。

「あるよ」

 彼女が驚いて顔を向ける。

「……あるって、そんな簡単に言っちゃダメです」

 その声は少し責めていた。

「君は生きたいと思ってる。それだけで、希望に十分値する」

 心筋シートが揺れている。

 不揃いでも、弱くても、それでも止まらず震え続けている。

 それを見つめながら彼女は涙をポタリと床に落とした。

「……怖くなってきました。生きたいって思うほど、Hさんと一緒にいた今日みたいな時間を思い出しちゃうから……」

 胸が締め付けられる。

 彼女が震える声で言う。

「もし、いつかほんの少しだけ未来が延びたら……その時も、今日みたいに誰かと笑っていられたらって……そんなことまで考えちゃって……怖いです」

 その“誰か”が誰なのか、聞かなくてもわかった。

 彼女は涙を拭い、無理やり笑って言った。

「すみません、変なこと言いました。ありがとうございます。……もう少しだけ、見ててもいいですか?」

「ああ」

 Hは隣に立っていた。

 触れない距離で、けれど離れない距離で。

 心筋シートは、弱くても、揺れ続けていた。

 ……この時間が、きっと彼女を救う。

 でも同時に、きっと彼女を壊す。

 Hは気づいていた。

 だけど離れられなかった。

 長い沈黙のあと、彼女は涙の跡を残したまま、ゆっくりと顔を上げた。

「……行きましょう。まだ、見たい展示があるんです」

 声はかすれていたが、自分の脚で進もうとする力があった。

 Hはうなずき、彼女の歩幅に合わせて隣を歩き出す。

 ガラスの向こうで揺れる心筋シートが、遠ざかるにつれ小さく、静かになっていった。

 だが彼女の肩は、小さく、小さく震えていた。

 その震えを見ないふりをしながら、二人は展示エリアの出口へ向かった。

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