楽しかった日々
「ところで、あのお嬢ちゃんは、どうしたのかしら? あんな所に一人で座っていて」
部屋の隅で本を読んでいるミアに、夫人のエマが興味深げな視線を向けた。
「父親と二人連れのお客です。夕方まで見ているように頼まれたので」
「おやおや……」
何がおやおやなのか。マナリナには分からなかったが、エマがそんな声を上げた。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
エマが声をかけると、ミアは本から顔を上げてマナリナたちに視線を向ける。
「ミア」
ミアはそれだけを短く言う。当然、その顔には何の表情も浮かんではいない。
「あ、あら、綺麗なお顔のお嬢ちゃんね。幾つなのかな?」
「八歳」
「そ、そうなのね。えっと、随分と難しそうな本を読んでいるのね。まだ小さいのに偉いわね」
「はい……」
表情を少しも変えることがないミアの顔と、まるで抑揚のない口調。それらにエマは気圧されたようで、次の言葉を探しあぐねているようだった。
「エマさん、この子は少し大人しいみたいで。そっとしておいた方が……」
マナリナも何と言えばいいのか分からず、取り敢えずはそう助け船を出した。
「そ、そうなのかしら。え、ええ、そうね。そうみたいね」
マナリナの当たり障りない抽象的な言葉にエマは頷いた。
「すまんな、お嬢ちゃん。妻が本を読む邪魔をしたようじゃ。気にせずに続けてくれ」
夫のロゼスが口を挟むと、ミアは何を言うでもなく分厚い本に再び視線を落とした。気づくとロゼスが微妙な苦笑を浮かべながら、マナリナの顔を見ている。そんなロゼスを見て、マナリナは口を開いた。
「悪気はないのでしょうが……ね」
マナリナとしてもそう言って、ロゼスに苦笑を返すことぐらいしかできないのだった。
その日の夜だった。新たなお客も来ないし、そろそろ自分の部屋に戻ろうかとマナリナが考えていた時だった。
宿屋の扉が静かに開いた。それを目にした時、マナリナは嫌な予感がした。
自分は子供の頃から、この手の勘はよく当たるのだ。
やはりと言うべきなのだろう。
姿を現したのはカイトだった。宿屋から出ようとしないマナリナに、とうとう業を煮やして中に入って来たのかもしれない。
「ちょっと……どういうつもりなのよ? こんなところにまで押しかけて」
「そんな顔をするなよ、マナリナ。知らない仲じゃないだろう?」
カイトは前に再会した時とは違って、不遜な態度を見せるようなことはなかった。逆に少しだけ気弱そうな笑顔を浮かべる。
ああ、いつもの顔なのだとマナリナは頭の隅で思う。
その顔を見ていると、マナリナの中で深く埋めていたはずの記憶が次々と掘り起こされていく。そして、不思議と思い出される記憶は楽しかった日々ばかりだった。
楽しかった日々よりも、辛く嫌な日々の方が多かったはずだ。それは間違いないはずだった。だからこそ、カイトから逃げ出したのだ。だけれども、思い出す記憶は楽しかったことばかりなのだ。
「で、一体、何の用なの?」
マナリナはカイトの顔を見ながら、大きな溜息を吐いて尋ねた。
「いや、この前の態度は俺も反省したんだ。あれは酷いよな。謝るよ。それも兼ねて久々に会ったんだから、飲みにでも行かねえかなって。仕事、もう終わったんだろう? 久々に会ったんだ。面白い話もたくさんあるんだぜ」
カイトが言うように、もう部屋に戻ろうかと思っていた時だった。そもそも、宿屋に夜の仕事はほぼないに等しい。食事を提供する宿屋ではないので、夜はあてもなく新たなお客を待つ以外に仕事らしい仕事はなかった。
「あれだったら……もう私はやらないわよ」
「分かっているよ。反省したって言っただろう? そんなつもりで来たわけじゃねえよ」
反論しながらも、再びカイトは気弱そうな笑顔を浮かべる。
嘘つきのカイト。酷いカイト。自分を叩くカイト。大嫌いなカイト……。
でも……やっぱり自分の大好きなカイト。
マナリナの中でそんな言葉が次々に浮かび上がってくる。
マナリナは大きな溜息を吐くと、小さく頷いて同意の意思を示すのだった。




