苛立ち
「で、俺はマシュの野郎に言ったんだよ。確かに可愛い尻かもしれねえが、そいつは俺の尻だ。アンの尻はあっちだってよ」
マナリナはカイトの言葉に両手を叩きながら、大きな笑い声を上げた。それに合わせて灰色の髪が生き物のように宙で波打つ。
「笑いごとじゃねえって、マナリナ。危うくマシュの野郎と違う意味での穴兄弟になるとこだったんだからよ。先っぽがよ、こうして当たってたんだぜ。こうしてさ」
カイトも笑いながら身振り手振りでそれを伝える。
マナリナは再び両手を叩いて大きな笑い声を上げた。カイトはそんなマナリナを見ながら、満足そうな顔で麦酒を煽っている。
お互いにそれは何杯目だろうか。もうよく覚えてはいない。
でも、これだけお酒を飲むのは久しぶりだった。そして、何よりもマナリナは楽しかったのだ。
「なあ、マナリナ、何で俺たちの前から急に消えたんだよ?」
あ、本質に切り込んできた。
マナリナの脳裏でそんな言葉が浮かんできたが、酔いのせいかその言葉は瞬時に頭の中で霧散した。
「嫌になったのよ。あれも、嘘つきなあんたのこともね。何もかもが全部、嫌になったのよ」
「何だよ、それ。それに俺は嘘なんかついてねえぞ」
カイトが子供のように口を尖らせる。
そう言えば、こういう表情もよくしていたな。マナリナはカイトを見つめながら思う。
「それが嘘だっていうの。あんなに酷いことをしていて、何を言ってるのよ。何度カイトに私が殴られたか……」
「だから、それは悪かったって、さっきから謝っているじゃねえか。少し歳を取ったとはいっても、お前はまだ十分に綺麗なんだ。まだまだ稼げる。なあ、だからまた一緒にこの街で始めようぜ。昔のことは謝るからさ……」
こいつは私が相手だったら、謝れば全てが許されるとでも思っているのだろうか。
そんな思いが少しだけ浮かんだが、それもすぐに酔いで鈍くなった脳裏で霧散してしまう。
「まあ……昔の話なんて、何でもいいんだけどね」
マナリナは小さく呟くように言う。
何でもいいはずがなかった。
それでいいはずがなかった。
そんな言葉が浮かんだが、またすぐに消えていってしまう。それが酔いのためなのか、楽しいからなのかは分からない。そして、そんなことは、どちらでもよいのだとマナリナは思っていた。
そう。今が楽しいのだから。
この懐かしい感じが、今は楽しいのだから。
それからマナリナは二、三日に一度の割合で、カイトと夜の店に出かけるようになっていった。いや、もっと多いかもしれなかった。
昔を懐かしむなどと言うつもりはないのだが、お酒の席も含めてカイトと一緒にいる夜の世界が、やっぱり刺激的で楽しかった。
それは宿屋だけの閉ざされたような世界では、絶対に味わうことができない感覚だった。
そんな生活が始まって一か月ほど経ったある日だった。その日、二日酔いの頭を抱えながら不機嫌な顔でマナリナが宿屋の受付台に座っていると、宿屋の経営者であるロゼスとエマの老夫婦が姿を見せた。
今日は宿屋に来る日ではなかったのに。
二日酔いで痛む頭を抱えながら少しだけ顔を上げて、灰色の髪の間から見える老夫婦にマナリナは視線を向ける。
二日酔いからくる不快感で、自分の視線は尖っているかもしれないとマナリナは思う。でも、それを取り繕う気にはどうしてもなれなかった。
「マナリナ、変わりはないかい?」
ロゼスのいつもと同じ言葉だった。しかし、それすらも今のマナリナは苛立ちを覚えてしまうようだった。
変わりがあるはずがないだろうとマナリナは思う。こんな街外れにある染みったれた宿屋なんかで……。
「いえ、別に……」
マナリナの返答が素っ気なかったからなのか、ロゼスは何かを言い出しづらそうな雰囲気を醸し出していた。
二日酔いによる不快感もあって、そんなロゼスの様子がさらにマナリナを苛立たせてしまうようだった。




