第8話 角のある旅人
男は玄関の段を上がらず、雨の降りそうな空を一度見た。
レオンは開いた扉の内側から、声をかけた。
「お泊まりですか」
旅人は帽子を取り、二本の短い角を見せた。額の両側から後ろへ沿う、黒い角だった。荷袋を握る指にも人間とは違う硬い爪がある。
「一晩、お願いできますか。魔族でも」
食堂で帳面をつけていた先客が、筆を止めた。布商のベルトだった。今日の昼に着き、明日は南の町へ向かうと言っていた。
レオンはまず旅人の顔を見た。疲れているが、立てないほどではない。荷は一つ、剣も槍も持っていなかった。
「空いています。夕朝食付きで銀貨一枚、素泊まりなら銅貨六十枚です」
男は唇を開きかけ、すぐには返事をしなかった。
「食事は、ありますか」
「はい。苦手な物や、食べられない物は?」
「……生に近い玉葱は、少し苦手で。よく火が通っていれば大丈夫です」
レオンは厨房へ聞きに行った。リタは鍋の蓋を上げ、今日はよく煮てあるが、別に取り分けることもできると答えた。戻って伝えると、旅人はようやく、夕朝食付きで、と言った。
名はガルド。通行証には三十五歳とあった。和平後、境を越えて旅をするための印が押されている。宿帳への記入を頼み、ほかの客と同じように身元を確かめて返すと、彼は証を何度も折り直した。
「前の宿では、預かると言われたので」
「ここでは、確認だけです」
レオンは鍵を出した。ガルドはその手を見て、次いで顔を見た。驚いた目になったのを、彼は見逃さなかった。
「あなたは……」
「以前は、勇者と呼ばれていました。今は、この宿の主人です」
レオンは鍵を持つ手を下ろさずに待った。名を変えて暮らしているわけではないが、宿の説明の代わりになる肩書きでもなかった。
受付の横には、泊まる人への決まりを書いた紙を掛けていた。夜は廊下を静かに歩くこと、ほかの人の部屋へ無断で入らないこと、火と刃物の扱いで困ったら主人を呼ぶこと。レオンは部屋の案内と一緒に、客同士で威嚇や言い争いが起きた場合も、まず自分に知らせてほしいと伝えた。
「皆さんに、同じようにお願いしています」
ガルドは紙を最後まで読んだ。レオンは食堂のベルトにも一度目を向け、困ったことがあれば知らせてほしいと繰り返した。相手が誰であっても、そのために自分が受付にいる。
ガルドの指が鍵の手前で止まった。レオンは差し出したまま待ち、受け取られなければ台へ置こうと思った。その前に、爪のある指が鍵を取った。
◯
部屋へ案内して食堂へ戻ると、ベルトが席を立った。
「あの男を、泊めるんですか」
静かな声だった。レオンも受付の脇へ寄り、ほかの場所へ響かないように答えた。
「はい。お客さんとして」
「軍にいた者の歩き方でした」
ベルトの目は、階段へ向いていた。
レオンも、軍務の癖が身に残ることは知っていた。ただ、それだけであの旅人がどんな道を歩いてきたかまでは分からない。階段を見つめるベルトに、気にしなくていいとも言えなかった。
「気になることがあれば、俺に言ってください。部屋は離しています。荷物はご自分の部屋へ運んで、鍵をかけられます」
「勇者様なら、何も怖くないでしょうね」
何かあれば守る、と答えかけて、レオンは口を閉じた。ベルトが尋ねているのは、自分が勝てるかどうかではない。一呼吸置いてから、言い直した。
「俺が平気かどうかとは、違いますね」
ベルトが初めてこちらを見た。
「食事を部屋へ運ぶこともできます。こちらで召し上がるなら、お一人の卓を用意します。どうしたいですか」
少し考えてから、ベルトは奥の卓を指した。
「あそこで。廊下が見える所がいい」
「分かりました」
レオンは椅子を引き、本人が座る向きを選ぶのを待った。
厨房へ入ると、リタが小声で尋ねた。
「大丈夫そう?」
「奥の席で食べたいそうだ。今夜は、それぞれでいいと思う」
「ええ。ごはんを食べに来ただけだものね」
リタは二つの盆に、同じ煮込みをよそった。干した茸と豆、細かくほぐした鶏肉。ガルドの分には、念のため玉葱の大きな塊が残っていないか確かめた。
そのとき、階段の下にガルドが現れた。
「何か、お手伝いをした方がいいでしょうか」
彼は食堂を見ず、裏口の方へ目を向けていた。
「荷を運ぶ仕事なら、慣れています」
「今はありません。先に夕食にしましょう」
「ですが、私は」
言い淀んだあと、ガルドは自分の指を見た。
「軍の補給をしていました。食糧や、矢や、兵の毛布を」
レオンは頷いた。ガルドは顔を上げなかった。食糧も毛布も、軍が進むために欠かせない物だった。レオンは戦場へ届いた荷車を覚えている。前線にはいなかったのなら、と慰めるような返事はできなかった。
「そうですか」
それ以上の言葉を急がず、レオンは盆を卓へ置いた。
「今夜、ここで泊まる条件に、手伝いは入っていません。お代は、さっき頂きました」
ガルドは受付を一度振り返った。銀貨を置いた場所には、もう何もない。そのことを確かめるような間のあと、ようやく椅子を引いた。
◯
二つの卓の間には、誰も座らない卓が一つあった。
ベルトは黙ってパンをちぎり、ガルドは匙の音を立てないよう食べていた。レオンが空いたパンの皿を下げると、どちらも短く礼を言った。それで会話は終わった。
レオンは空いている卓の椅子を整え、そのまま離れた。今夜は、二人ともそこで食べたいと言っていた。
厨房へ戻ると、リタは空いた鍋を湯に浸していた。レオンも袖を捲り、食堂の方へ何度も顔を向けないよう、皿を一枚ずつ洗った。
「何か起きるのを待ってる顔になってる」
リタに言われ、彼は手を止めた。
「……そうかもしれない」
「呼ばれたら行けるわ。いつもの仕事をしましょう」
布巾を渡され、レオンは器の水気を拭いた。指を止めると、いつもの食事の音が聞こえる。呼ぶ声を聞き逃さないようにしながら、次の皿を手に取った。
やがて、ガルドが空の椀を持ってきた。受付の脇へ置いてもらうと、彼は荷袋から折れた紙を出した。
「この宿で、北からの便りを待てると聞きました。荷運びのダナという人が、来るはずなんです」
フィナの話にあった人だった。レオンは便りを預かれると答え、明日までここで待つつもりかと尋ねた。
「便りが来たら、行き先を決めます。北へ行くか、もう少し東へ回るか」
紙には町の名と、人の名らしいものがいくつか書かれていた。ガルドはすぐ畳み直したので、レオンも覗かなかった。
「届いたら、お渡しします」
「ありがとうございます」
今夜何度目かの礼だった。けれど、今度は顔を上げたまま言ってくれたので、レオンもその目を見て頷けた。
ベルトが部屋へ戻ったあと、レオンは食堂の窓を閉めた。外には雨が降り始めている。明日の洗濯を考えながら階段を上がると、廊下の端でガルドが鍵を確かめていた。
「掛かりにくいですか」
「いえ。中からも、掛かるのかと」
「掛かります。必要があれば、呼んでください」
ガルドは頷き、扉を半分閉めたところで立ち止まった。
「あの料理は、明日も食べられますか」
「明日は、別の物になると思います。リタと相談して」
「そうですか」
がっかりしたのかと思って顔を見ると、ガルドはかすかに笑っていた。
「では、明日は何が出るか、楽しみにしています」
扉が閉じ、鍵の音がした。
レオンは廊下を戻り、ベルトの部屋の前でも立ち止まった。頼まれた湯を置き、外から声をかける。中から返事があり、少し開いた扉の隙間から手が伸びてきた。レオンは湯の器をそっと渡した。
どちらの部屋も、それぞれの内側から閉じられた。
一階に下りると、リタが明日の豆を水へ浸していた。レオンは空になった湯の桶を片づけ、次に使う水を火へかけた。鍋が温まるまで、厨房で一緒に待っていた。




