第7話 昔の仲間が泊まりに来た
玄関を叩く音が、昔と同じだった。
二度、少し間を空けて一度。夜営の見張りを交代するとき、盾の縁を叩いていた音だ。受付の紙を押さえていたレオンの手が、思わず止まった。
「開いてるなら入るぞ、宿の主人」
扉の向こうから現れたのは、片肩に大きな袋を担いだ男だった。続いて、灰色の旅装をした女が靴の泥を落として入ってくる。
「セド。フィナまで」
「まで、って何よ。来るなって言われた覚えはないけど」
治療師のフィナが眉を上げた。レオンは首を振り、二人の顔を順に見た。魔王の城を出たあとも、半年は王都で何度も会った。それでも、鎧も式典の服も着ていない二人を見るのは久しぶりだった。
セドが荷を下ろし、受付へ肘をついた。
「引退したと思ったら、宿を買ったと聞いてな。寝る所はあるか」
「ある。二人で一室でいいか?」
「別にして。この人、寝言でも作戦会議をするの」
「お前だって、寝坊した奴を揺さぶる手つきは荒いだろ。治療のときと大違いだ」
二部屋分の鍵を出しながら、レオンは笑った。フィナが宿帳を引き寄せ、まだ余白の多い頁へ、迷いのない字で名前を書いた。
夕朝食付き一人銀貨一枚。友人だから、と言いかけたレオンの前に、セドは早々と金を置いた。
「客として泊まりに来た。見学代込みで安いくらいだ」
「何を見るつもりだ」
「お前が鍋を焦がすところ」
厨房から出てきたリタが、その言葉を聞いて頷いた。
「見るなら、今はもうなかなか見られませんよ」
「今は、って言ったな?」
レオンが止めるより先に、二人の客は彼女へ向き直った。
◯
夕方の厨房では、レオンが玉葱を刻んでいた。
リタは鶏を鍋へ入れ、香草の束を紐で結んでいる。今夜は骨からゆっくり味を出した煮込みと、こんがり焼いたじゃが芋だった。セドは肉があれば喜ぶ。フィナは旅で生野菜を食べ損ねると、機嫌が悪くなる。
そう話すと、リタは蕪の浅漬けの量を少し増やした。
「よく知ってるのね」
「長く、一緒に旅をしたから」
「なら、宿の仕事にも使えるじゃない」
レオンは切り終えた玉葱を皿へ移した。二人の好物なら、考えるより先に口に出た。あの旅で覚えたことを、食卓を整えるために使ってもいいのだと思うと、少し気が楽になった。
次の仕事を尋ねかけたところで、リタがまな板を見た。
「さっきから、いつもより急いでない?」
「そんなことは」
言いかけて、自分の肩が上がっているのに気づいた。仲間を迎えたからこそ、ちゃんとできているところを見せたい。鍋を失敗した話をされると、笑いながらも落ち着かなくなった。
「英雄が、不器用な宿主になっていたら、がっかりするかなと」
リタは香草の紐を鍋の取っ手へ結び、彼を見た。
「それ、本人たちに聞いた?」
いつも言われることだった。
レオンが息を吐くと、リタは少し声を和らげた。
「今夜の料理は、私とあなたで作るのよ。鶏はこっちで見るから、じゃが芋をお願い。いつもどおりで大丈夫」
じゃが芋を天板へ並べる仕事を受け取り、彼は間隔を空けて置いていった。隣同士がくっつかないよう、一つずつ置く。背後では、リタが鍋をかき混ぜている。レオンはそちらへ振り返らず、自分の天板を整えた。
食堂へ戻ると、フィナが棚の器を眺めていた。セドは窓辺でドランから修繕の話を聞いている。作業帰りに夕食を食べに寄った大工は、玄関の釘の話までしていたらしい。
「一本目で板を割ったって?」
「三本、失敗した」
レオンが答えると、セドは声を立てて笑った。
失敗を話すとき、つい先に相手の顔を見てしまう。部隊の前では、不安にさせたくなかった。それでも、セドは心配そうな顔などせず、直った踏み板とレオンを交互に見て笑っている。彼も、もう一つ話してみたくなった。
「四本目は入ったんだ」
そう付け加えると、ドランが顎を上げた。
「そいつは俺も初耳だ」
「見せれば良かったですか」
「板一枚持って呼びに来るなよ」
また笑いが起きた。レオンは空の器を抱え直し、もう一度厨房へ戻った。今度は肩の力を抜いたまま歩けた。
◯
夕食が揃うと、フィナが隣の椅子を引いた。
「あなたの分は?」
「片づけが終わったら」
「冷めるわよ。緊急の用があるの?」
見回せば、食べている客は二人とドランだけだった。リタも自分の椀を持って出てきて、厨房の火は落としたと告げた。
レオンは一度だけ受付を見てから、席に着いた。
鶏の身は骨から簡単に外れた。セドはじゃが芋を半分に割り、湯気へ塩を振っている。フィナは浅漬けを食べて、ようやく旅が終わった気がすると呟いた。
セドがパンの籠を取り、レオンへ回した。昔は最後の一切れを誰が食べるか、皆で遠慮した日もあった。今日は足りなければ台所から持ってこられる。レオンがそう言うと、セドは嬉しそうにもう一つ取った。
「朝までの見張りは?」
何気なく尋ねてから、セド自身が苦笑した。フィナが匙の柄で卓を軽く叩く。
「戸締まりをしたら、おやすみ。それでいいの」
レオンは同じように残っていた自分の癖を思い、頷いた。セドの苦笑がほどけるのを見て、レオンも皿の上の鶏をほぐした。懐かしい話をしているうちにも料理は冷める。温かな身を口へ運び、浅漬けの皿をフィナへ回した。
二人も、別の暮らしを始めていた。セドは町の警備をする若者へ盾の扱いを教え、フィナは小さな診療所で、戦傷ではない怪我を見る時間が増えたという。
「腰を痛めた粉屋に、突撃するなって言いかけたの」
「言ってないのか」
「言う前に気づいたわよ。あなたも、客に撤退しろとか言わないでね」
レオンはユイを別室へ案内した夜を思い出した。部屋を替える判断ならしたが、幸い、その言葉は使わずに済んでいた。
食べ終える頃、セドが匙を置き、台所へ目を向けた。
「お前、ここにいて楽しいか」
声はいつもの調子だった。レオンも、すぐに格好のよい答えを探すのをやめた。
「忙しい。分からないことも多いし、客が来ないと不安になる。でも昨日、昼飯を食べた人が、また同じ物を頼んでくれた。それが、思っていたより嬉しかった」
セドはしばらく黙って聞き、それなら良かった、と頷いた。
「王都を出たって聞いたきりだったからな。帰る場所も決めずに、また歩いてるんじゃないかと思ってた」
「……今は、ここにある」
口にしてから、レオンは食堂を見た。剥がれかけた壁の塗り、洗ったばかりの窓、リタの肘の横にある料理帳。何もかも借り物のようだった最初の夜より、自分の手をかけた物が増えていた。
「落ち着いたら、お前たちもまた来てくれ」
「宿代を持ってな」
セドが言い、フィナが頷いた。
翌朝、出発の前に、レオンは二人へ小さな頼み事をした。街道で宿を探す人に会ったら、灯火亭が開いていると伝えてほしい。大々的な勇者の宿という触れ込みではなく、食事と寝床がある宿として。
フィナは承知したと言い、北へ向かう荷運び仲間の話をした。道沿いの宿へ手紙を託すこともある人たちらしい。
「便りを待つ旅人にも、場所を教えていい?」
「受け取る相手と預かる物が分かるなら。困ることがあれば、先に聞いてもらって」
客を呼ぶ頼み事は、初めてだった。セドが荷を担ぎ直し、玄関の新しい踏み板を踏んだ。
「これなら、俺でも落ちないな」
「落ちないように、作ってもらった」
背中を見送ると、リタが残った器を抱えて来た。
「良いお客さんだったわね」
「ああ」
リタが器を台所へ運んでいく間に、レオンは受付の宿帳を開いた。見慣れた二つの名前に、宿泊代受取済みの印をつける。
頁を押さえる指に、少しだけ力を込めた。次に来るときも、この帳面へ名前を書いてもらおう。紙を閉じ、客室へ持っていく新しい寝具を取りにいった。




