第6話 土間に増えた寝床
枯れ枝を拾いに出たレオンは、薪を森に置いて帰ることになった。
レオンが枯れ枝を束ねていると、藪の向こうから細い鳴き声がした。川へ続く斜面に、小さな白灰色の獣がうずくまっている。狼の子に似ていたが、尾の先だけが綿のように丸かった。
後ろ脚に古い細縄が絡まっていた。捨てられた荷紐だろう。暴れるたび輪が締まり、濡れた毛の下に赤い筋が見える。
レオンはすぐには近づかず、荷物を下ろした。獣の耳は伏せられ、口元から小さな牙が覗いている。
「切るだけだ。少し、じっとしてくれ」
頼んで通じる相手ではない。彼は上着を腕へ巻き、噛まれてもよい角度からそっと体を押さえた。牙が布を掴んだところで、もう片方の手に短剣を持ち、縄だけを切った。
獣は斜面を一歩下り、脚をかばって止まった。レオンは手を離して待ったが、二歩目は出なかった。
薪を背負うための布で包むと、今度は暴れなかった。白い顔だけが布の端から出て、鼻先を伸ばして、彼の手の匂いを確かめていた。
森を出たところで、宿の煙突が見えた。
ひとまず雨風はしのがせたいが、客のいる玄関から抱えて入るわけにもいかない。レオンは裏へ回り、布の中の獣を支え直して、厨房の外からリタを呼んだ。
「相談があるんですが」
顔を出したリタは、彼の腕を見た。
「それ、薪ではないわね」
「薪は、置いてきました」
「見れば分かるわ」
呆れた声だったが、リタはすぐに古い敷布を持ってきた。
◯
薬師のエダは、昼の片づけが済む頃に来てくれた。
森の獣も診ることがあるという彼女は、レオンが用意した籠の中を覗き、綿尾獣だね、と言った。親を待っている子ではないかと尋ねると、群れを作らず、育ち始めると単独で動く種類だと教えてくれた。
「まだ若いけど、親元を離れるくらいには育ってる。大きくなっても、大きめの犬くらいさ」
脚を洗い、傷へ薬を塗る間、レオンは体を支えた。毛の下には細い骨が触れ、身じろぎするたび掌へ体温が伝わった。逃がさず、押さえつけすぎずにいるために、レオンは何度も指の位置を変えた。
「骨は大丈夫。しばらく歩き方を見ておきな。食べられない、熱がある、傷が腫れる。そのときは呼ぶこと」
エダは食べ物の種類と、してはいけない味付けを書いた紙を渡した。塩の濃い肉も、客の料理の残りも向かない。レオンは自分の最初の煮込みを思い出し、真剣に頷いた。
診察代を支払うと、エダは籠にしゃがみ込んだ。
「治ったら森へ戻すこともできる。ここで世話するなら、怪我が治ったあとも続く話だよ」
「はい」
返事をしてから、レオンはリタを見た。
彼女は腕を組んでいたが、首は振らなかった。
「まず、どこで寝かせる?」
裏口の土間なら、厨房と扉で分けられる。夜の風は防げて、外へ出る戸もある。客室には入れず、食材の棚からも離す。朝夕の餌と掃除はレオンが主に担い、手が離せないときは先に頼む。
朝夕の餌、敷布、水、戸締まり。紙に書く行が増えていった。リタは籠の手前へ手を差し出し、獣が自分から匂いを嗅ぎに来るのを待った。
「人懐っこいからって、お客さんに好きに抱かせたりはしないでね。獣が苦手な人もいるし、この子だって、いつでも触られたいわけじゃないでしょう」
「俺も、そう思います」
レオンは土間の戸の留め具を確かめた。ここなら獣を休ませられ、厨房へ入る前には手も洗える。話して決めたことを一つずつ確かめるうち、寝床を置く場所がようやく定まった。
◯
三日ほどすると、獣は脚を引きずりながらも、自分から水を飲みに行くようになった。
食べた量と傷の具合を毎朝見て、敷布を洗う。土間の掃除を終えてから客室へ行き、食事の前には改めて手を洗う。仕事が増えた分、朝の順番を変えた。
名前の話を持ち出したのは、昼食に来たドランだった。
「そいつ、いつまでも『おい』じゃ振り向かねえだろ」
「振り向くことはあります」
「お前じゃなく、鍋の音にな」
確かに食器を置く音には、よく反応した。リタは土間を覗き、丸い尾を見て、モコ、と口にした。
耳が動いた。
「今、聞いた?」
「尾に合ってるな」
ドランはそれだけ言って、自分の昼食へ戻った。レオンがもう一度呼ぶと、獣は籠の縁に顎を載せた。返事なのか眠いだけなのか分からなかったが、ひとまずモコになった。
その日の午後には、ミナが空いた籠を受け取りに来た。モコが土間の戸へ寄ると、彼女は膝を曲げ、少し離れた床へ掌を置いた。待っているうちに鼻先が近づき、指へ冷たい感触が触れた。
「触ってもいいかな」
問いかけると、モコは頭を下げた。ミナが短く撫でて手を引くと、丸い尾が揺れた。レオンも同じようにしようとしたが、そのときには寝床へ戻ってしまった。
「今は終わり、だそうですよ」
ミナに笑われ、彼は伸ばしかけた手を下ろした。敷布へ戻ったモコは、もうこちらを見ていなかった。レオンは起こさず、あとで寝床を戸の正面から少し外すことにした。
その晩、泊まり客が一人、食堂の入口で足を止めた。土間へ続く戸の向こうで、モコが小さく鳴いたのだ。
「獣がいるんですか」
「裏で保護しています。こちらや客室には入れません。気になるようでしたら、戸をもう一枚閉めます」
男は少し考え、そうしてもらえますかと答えた。レオンは頷き、廊下との間の戸も閉じた。食堂へ戻ると、男は待っていた夕食へ匙を入れた。レオンもそれを見てから、受付の仕事へ戻った。
男が部屋へ戻ったあと、レオンは土間で餌の器を洗った。モコは足元の敷布に丸まり、目だけで手の動きを追っていた。
「お前の家に、してもいいか」
答えはなかった。けれど水の器を戻すと、モコは寝床から出てきて、彼の靴の横に座った。
◯
翌日の昼過ぎ、レオンは受付で三度同じ数字を書き直していた。
「寝不足でしょう」
リタが隣へ立ち、帳面を見た。
「夜、脚を噛んでいないか、少し気になって」
「エダさん、傷が落ち着いたら何度も起こさなくていいって言ってたでしょう。昨夜、三回は見に行ったわよね」
言われたとおりだった。傷は落ち着き、モコも朝にはよく食べた。それでも音がするたび立ち上がる癖が抜けなかった。廊下で物音がすれば客を思い、土間で音がすれば傷を思う。
リタは卓に鍵を置き、窓辺の長椅子を示した。
「次のお客さんが来るまで、私が受付にいる。モコも見る。半刻、横になって」
「でも、洗濯物が」
「風が乾かすわ」
「薪が」
「今朝、積んだでしょう」
レオンは自分で積んだ薪を思い出した。洗濯も薪も、今日はもう済ませていた。次の言い訳を探して、レオンは口をつぐんだ。リタは困ったように笑った。
「お願い。眠い人に火を見てもらう方が、私は心配」
自分が心配される側だと分かると、もう言い返せなかった。
靴を脱いで長椅子へ横になると、思ったより体が重かった。窓の外で洗濯物が鳴り、厨房から器を重ねる音がする。誰かが働く音を聞きながら、自分が目を閉じている。
一度、起き上がりかけた。
「何?」
「……毛布を、取ってもらえますか」
リタは棚から薄い毛布を下ろし、彼の手へ渡した。受け取った毛布を胸まで広げると、長椅子の背から入る風が柔らいだ。レオンは礼を言い、今度は起き上がらずに目を閉じた。
目を覚ますと、食堂の影が少し動いていた。リタは受付で料理帳を開いている。戸の向こうから、モコが寝息を立てているような、小さな音が聞こえた。
「何か、ありましたか」
「なかったわ。お茶、飲む?」
レオンは体を起こし、頷いた。半刻の間、宿は無事だった。差し出された茶を両手で受け取ると、眠る前より、湯の温かさがよく分かった。




