第5話 給金と、もう一つの夢
食堂の卓には、銅貨が十枚ずつ並んでいた。
レオンは二度数え、紙の数字と見比べた。百枚で銀貨一枚。それくらいは知っているのに、食材代を引き、薪の代金を書き、残りを確かめるだけで、いつの間にか夜が更けていた。
最初の客から受け取った金は、銀貨一枚と銅貨六十枚だった。二人分の食事を作り、湯を運び、静かな部屋へ移ってもらった一晩が、掌に収まるだけの金になっている。数え終えても、しばらく片づけられなかった。
けれど、それがなければ次の卵は買えない。
レオンは個人の蓄えへ手をつけず、宿のために分けた帳面を開いた。昨日までの材料費に、リタへ支払った二日分の銀貨二枚を足す。書き込んだあとで、厨房の戸を見た。
明日は、彼女の仕事のない日だった。
◯
「雇ってほしい、じゃなくて、雇いたいって話よね?」
翌日の昼、リタは椅子へ座るなり確認した。
「そうです」
「良かった。あんなに思いつめた顔で呼びに来るから、私に宿を任せて旅へ戻るのかと思ったわ」
レオンは思わず自分の頬に触れた。どれほど頼りない顔をしていたのだろう。リタは笑ったが、卓に置かれた紙へ目を向けると表情を引き締めた。
月の給金は銀貨十二枚。食事と住む部屋は別に用意する。締め日は開店から三十日ごととし、途中から加わる初月も同額を保証する。宿は毎日開けるとしても、二人それぞれに休みを設ける。料理と仕入れを主な仕事として頼みたい。
読み上げるうち、レオンは声が少し速くなっているのに気づいた。
「ただ、最初のうちは宿の収入だけでは賄えないかもしれません。だから、その分の運転資金は先に分けています」
「どのくらい持つか、計算した?」
「しばらくは大丈夫です。ただ、修繕もまだありますし、見落としている出費がありそうで」
「じゃあ、何にいくらかかるか、一緒に出しましょう。私も、分からないまま引き受けたくないから」
レオンは続きを説明しかけ、口を閉じた。一緒に計算すると言ってくれただけで、まだ働くと決まったわけではない。リタが街道で話していた、自分の宿のことが気にかかった。
「ここで働くと、その夢が遅れませんか」
リタは紙から目を上げた。
「遅れることはあると思う。でも、泊まりの商売を覚えられる。隊商では料理をしたけど、部屋の管理も、宿一軒のお金の流れも知らないもの」
指が、仕事の内容を記した欄をなぞった。
「私、料理だけ作って、あとは黙ってる従業員には向かないわよ」
「それは、昨日までで分かりました」
「何よ、その覚悟したみたいな返事」
リタは少し口を尖らせたが、すぐに笑った。
「献立は、食材と予算の中で任せてほしい。高い肉を入れたい日があれば先に相談する。でも、毎朝、玉葱を一つ使っていいかまでは聞かないわ」
「お願いします。俺より分かる人に、決めてもらいたいです」
「それと、休みの日に鍋が焦げたからって呼ばないこと」
レオンは一瞬考えた。リタの目が細くなる。
「そこ、即答する所」
「呼びません。自分で、焦がさない献立にします」
彼女は満足そうに頷き、今度はレオンの休みを尋ねた。
それは、まだ紙に書いていなかった。
◯
午後にはドランも呼び、北側の客室を直す話をした。
開店直後に全室を使う必要はない。だが、傷んだ屋根を放っておけば、直した南側まで水が回る。それに、泊まる客が増えてから工事で眠れなくするより、空いている間に済ませた方がよかった。
「残り三室で銀貨十八枚。今週から入って、十日ほどだ」
ドランの見積りを帳面へ記すと、リタは運転資金から引いた残りを確認した。給金、毎日の食材、薪、洗濯に使う石鹸。修繕で使う分と営業で使う分は、同じ袋から出しても欄を分ける。
「お前ら、客が来なかった日にどう食ってく」
ドランに問われ、レオンは貯蔵用の豆を思い浮かべた。リタは食堂の窓の外を指した。
「村から、昼ごはんを食べに来てもらえないかしら。畑仕事の人や、街道の荷運びの人に」
宿泊しない人へ食事を出すことは、レオンの頭になかった。ドランは腕を組んだまま、昼に温かい物が食えるなら弟子が喜ぶ、と言った。
「ただし毎日違うのを十品も出すなよ。選ぶうちに昼が終わる」
「一日一種類。パンと煮込みか、具を入れた麦粥。銅貨二十五枚ならどう?」
食材の量を見積もり、初めは六食までにした。売れ残っても自分たちの夕食へ回せる物を選び、食べた人数を記す。足りなかった日は翌日いきなり倍にせず、注文を聞いてから増やすことにした。
夕方、ミナにその話を持っていくと、彼女は籠から豆を一掴み出した。
「昼ごはんを作りに戻らなくていいなら、私も助かります。毎日は行けないけど、雨の日は寄るかもしれません」
レオンは何食か取り置こうとしかけ、明日の分はまた聞くことにした。畑の仕事にも、その日の都合がある。ミナは自分で選んで、食べに来てくれるのだ。
帰り道、リタは畑を見ながら、夏には酸味のある冷たい汁物も出したいと言った。遠い町で覚えた料理で、暑い日の隊商では評判が良かったらしい。
「そのときは、俺も作れますか」
「覚える気があるなら。でも、私の休みに急に十人呼ばないでね」
「六食までにします」
「そこだけ覚えたの?」
橋の上で笑い声が重なった。レオンは冷たい汁物の味を想像してみた。まだ分からない。けれど、暑くなる頃には食べられると思うと、夏を待つ理由が一つできた。
◯
十日後、北側の仕切りが外れた。
六つの客室、十二の寝台。全部を毎晩埋めるには、まだしばらくかかるだろう。それでも閉じた場所のない廊下を歩くと、建物の奥まで風が通っていた。
一階の小さな従業員室には、リタの荷物が入った。道中で使っていた鍋と、何冊もの料理帳、よく研いだ包丁。レオンが重い箱を運ぶ間、リタは棚の高さを確かめていた。
「これ、少し下げられる?」
「俺が直すと、壁が心配なので」
「じゃあ、ドランさんに頼みましょう」
名前を呼ばれた大工は、帰り支度のまま金槌を取り出した。レオンは先に追加の手間賃を聞いた。ドランが、分かってきたな、と鼻で笑った。
雇用の紙には、二人で名前を書いた。レオンは自分の仕事を、受付、掃除、洗濯、荷運び、帳面と読み上げた。リタは自分の欄に、料理、仕入れ、厨房の管理と記し、最後に二人の休みの日を加えた。
リタの休みには昼食の営業を休み、泊まり客への食事はレオンが作れる献立にする。彼の休みは、朝の片づけ後から夕方の受付前までを基本にした。休みの予定と食事の有無は、客へ予約時に知らせる。二人で出かける日は、滞在客の予定も確かめ、受付を再開する時刻を入口へ掲げることにした。
「休むためにも、先に分かっている方がいいのね」
リタが欄を足す横で、レオンも予定の日付を指で辿った。先に知らせることさえ、休む支度になる。自分の名前の下にも空いた時間ができるのを、不思議な気持ちで眺めた。
客が増えれば、決めた時刻どおりにはいかない日もあるだろう。困ったら相談する、と紙の最後に書き添えた。レオンが顔を上げると、リタも頷いた。
最初のまかないは、豆と塩漬け肉の煮込みだった。
洗って塩を抜いた肉は柔らかく、豆には玉葱の甘みが移っていた。二人分だけを小鍋で温め、食堂の端に向かい合って座る。
「いただきます」
レオンが口にすると、リタも同じように言った。宿の客へ出す前の味見ではなく、自分たちが昼を食べるための食卓だった。
「おいしいです」
「どの辺がおいしい? 明日も作るんだから、少し教えて」
レオンは匙を口へ運び直した。豆に染みた味を確かめ、次に肉を食べてみる。どちらも好きだったが、椀の底からもう一度すくいたくなるのは豆の方だった。
「豆を、もっと食べたいです」
リタはしばらく彼を見て、それなら今度は増やすね、と料理帳へ書きつけた。




