第4話 一枚目の宿帳
「子どもが一人いるんですが、泊まれますか」
初めての客は、玄関から中を覗きながら尋ねた。
荷車を引いた男の後ろで、小さな女の子が上着の裾を握っていた。夕方から降り始めた雨で、二人とも肩が濡れている。レオンは磨いておいた受付へ駆け寄り、用意した言葉を思い出した。
「はい。灯火亭へ、ようこそお帰り――」
初対面だった。
言い直す間に、男が笑った。
「お帰りは、次に来たときの分に取っといてください」
行商人のトーマと、六歳の娘ユイ。商いのため隣町へ行き、帰り道で雨に遭ったという。レオンは宿帳を開き、二人の名を書いてもらった。まっさらだった紙に、少し右へ傾いた文字が並んだ。
子どもの料金は、まだ板へ書いていなかった。レオンが迷っていると、台所から出てきたリタが空いている欄を指さした。
「お子さんのごはん、どのくらい食べられるか伺っても? 料金も、先にお伝えしますね」
トーマと相談し、ユイの分は夕朝食付きで銅貨六十枚とした。大人の分と合わせて銀貨一枚と銅貨六十枚。確認すると、トーマはそれでお願いしますと頷いた。厨房へ戻ると、リタが小声で言った。食べられる量が分かれば無駄も減るし、あとで料金を聞いて驚かせずに済むでしょう、と。
「ユイちゃん、苦手な物はある?」
レオンがしゃがむと、女の子は父親の背へ半分隠れた。戦場なら、相手を見失わないよう目を見る。けれど、ここではじっと見つめるほど、彼女の肩が上がってしまう。
「人参が、少し」
代わりに答えた父親へ頷き、レオンは先に二階へ案内した。
一号室の寝台は二つ。雨戸を閉め、乾いた布を渡し、湯を運ぶことを告げる。荷物を持とうとすると、トーマは小さな箱だけを胸へ寄せた。
「ああ、これは自分で。壊れ物なんです」
「失礼しました」
差し出しかけた手を下ろすと、ほかにすることが見つからなかった。湯の前に寝具を見てもらうべきか、それとも荷車を確かめるべきか。部屋を見回すレオンに、トーマが穏やかに声をかけた。
「夕飯まで、二人で少し休ませてもらえますか」
廊下へ出て扉を閉めた。何もしていないようで落ち着かなかったが、中からユイの小さな吐息が聞こえた。扉から手を離し、今度はそのまま階段を下りた。
◯
夕食は鶏と大麦の煮込みに、蕪の浅漬けを添えた。
リタはユイの器だけ少し浅いものを選び、人参を小さく刻んだ。レオンがすべて取り除こうとすると、まだ本人に聞いていないでしょう、と手を止められた。
「このくらいなら食べられるか、聞いてみて。全部よけるのは、そのあとでも間に合うわ」
食堂へ運び、器を置く前に尋ねると、ユイは煮込みの中を覗いた。それから父親を見て、小さく頷いた。
「これなら、たぶん」
「残しても大丈夫です」
レオンが言うと、ユイは今度は彼の顔を見た。
「怒らない?」
「怒りません。多かったかどうか、教えてもらえると助かります」
彼女は匙を握り直し、湯気へ息を吹きかけた。レオンも立ったまま待ちかけたが、リタが袖を引いたので厨房へ戻った。
「何かあったら、呼んでもらえる距離にいれば十分よ」
洗い物をしながら食堂の声を聞く。トーマは今日売れた針の話をし、ユイは道端で見た白い鳥の話をした。二人の食事には、宿主の返事がなくても続く会話があった。
食堂を覗くと、ユイが椅子の上で座り直していた。足が横棒へ届かず、ぶらぶらしている。レオンは小さな足台を持っていき、使うかと尋ねた。頷いたユイが両足を置くと、踏ん張るように上がっていた肩が、すっと下がった。
食べ終える頃には、人参も一切れ残らずなくなっていた。
「おいしかった?」
ユイは返事の代わりに、空の器を両手で持ち上げた。レオンも両手で受け取った。思っていたよりずっと軽く、その軽さが嬉しかった。
父親にはおかわりを頼まれた。鍋にはちょうど一杯分があり、リタは残りの量を確認してから頷いた。鍋底には、まだ薄く汁が残っている。レオンは今夜用意した量を覚えておこうと思った。
食後、リタは決めていた時間に伯母の家へ帰った。翌朝、朝食の支度に間に合うよう来ることになっている。レオンは戸口まで見送り、初めて客のいる夜を一人で迎えた。
食堂を掃き、湯を下げ、薪を確認する。二階で物音がしたので駆け上がると、一号室の扉の前にトーマが立っていた。
「すみません。雨戸が、少し鳴るもので」
窓の留め具が緩んでいた。強い風が吹くと、板が壁へ当たって音を立てる。ユイは寝台の上で膝を抱えていた。
レオンは窓へ手を伸ばしかけ、止めた。力で曲げて留めたら、明日には開かなくなるかもしれない。
「直すまで、隣のお部屋で休みませんか。そちらの雨戸も先に確かめます」
使える三室のうち、客は一室だけ。二号室を確かめてから寝具を運ぶと、トーマは助かります、と荷物を抱えた。ユイも自分の小さな袋を持ち、敷き直した寝台へ座った。
「こっちは、静か」
窓の外へ耳を向け、彼女は言った。
レオンは一号室に戻り、音が出ないよう雨戸を押さえる木片を挟んだ。明日ドランに相談するため、宿帳とは別の紙に書いておく。客が眠ってから廊下で金槌を使わずに済んで、ほっとした。
戸締まりを終えた頃、雨は静かになっていた。二号室の扉の向こうには、もう話し声がなかった。レオンは足音を抑えながら、階段を一段ずつ下りた。
◯
翌朝、食堂には焼いたパンと卵、温めた乳の匂いが満ちていた。
リタが持参した林檎の煮物を、ユイは匙の背で少しずつ潰していた。昨日よりも深く椅子へ座り、レオンが近づいても父親の背へ隠れなかった。
「おじさん、あの大きな荷物、持てる?」
指さした先には、出発前の荷車があった。レオンはトーマを見て、手伝ってよいか尋ねた。壊れ物の箱は本人に任せ、車輪の前の石をどけてから、軒下まで車を引いた。
「おお。本当に力持ちだ」
トーマは驚いたが、それ以上は聞かなかった。レオンも名乗り直さなかった。今は荷車を雨から出す、それだけの仕事で十分だった。
会計を終えると、トーマは銀貨と銅貨を受付へ置いた。
「部屋替えまでさせてしまったので、少し安く――」
レオンが言いかけると、彼は首を振った。
「困ったときに替えてくれたでしょう。食事も寝床も、約束どおりでした。ただ、雨戸の具合は次までにお願いします」
「必ず、直します」
「それと、表の板。素泊まりの料金もあると、急ぐ客が分かりやすいですよ」
レオンは礼を言い、雨戸と料金板のことを紙へ書き足した。卓の上には、約束したとおりの金額が置かれている。受け取り、次には困らせないよう直す。今度は値引きを申し出ず、二人の顔を見て、ありがとうございましたと伝えた。
玄関で、ユイが手を振った。
「次、来たらね」
「はい」
「お帰りって、言ってね」
レオンは返事の前に一度笑ってしまった。約束します、と伝えると、彼女は満足そうに荷車の隣へ戻った。
親子を見送ったあと、リタと使った部屋を片づけた。枕にはまだ小さな頭の跡があった。布を外し、窓を開けると、雨上がりの匂いが流れ込んできた。
「最初のお客さん、帰っちゃったわね」
「ええ。次も来ると、言ってくれました」
言い終えると、さっきまでユイがいた寝台へ目が戻った。リタも釣られるようにそちらを見てから、洗濯物を籠に入れた。
「また使ってもらえるようにしなくちゃね」
レオンは宿帳を開いた。最初の名前の下には、まだたくさん余白がある。二日間の臨時契約は、今日で終わる。その先の食事を一人で用意する自分を思い浮かべ、彼は厨房の方を見た。
もう一度、一緒に働いてほしい。
それをきちんと頼めるよう、まずは今夜、宿の帳面を開くことにした。




