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魔王を倒した勇者は、辺境で小さな宿屋を始める  作者: Atelier Lotus文庫


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3/10

第3話 勇者、料理に負ける

 鍋を覗くと、八人分の晩ごはんが、とろりと匙にまとわりついた。


 レオンは柄の長い匙で、底からゆっくりかき混ぜた。大麦、干し肉、根菜、乾燥した葉を少々。野営では何度も作った煮込みだが、今朝ミナから買った蕪まで入れたせいか、色が記憶より濁っている。


 味見の一口は、塩辛さで舌が縮むほどだった。呑み込んでも肉の脂が残り、蕪の味までたどり着けない。水を足すと食べやすくなったが、今度は鍋の縁ぎりぎりまで増えてしまった。


「部屋は三つなのに」


 一人で呟き、彼は椀を置いた。三室に二人ずつでも六人。主人の分を足しても、まだ余る。量を考える順番から間違えたらしい。


 夕方に味を見に来たドランは、一匙で黙った。


「どうでしょう」


「戦場で出されたら喜ぶ」


「宿だと」


「明日の昼まで腹が重い」


 レオンは頷いた。自分もそう思っていたので、異論はなかった。ドランは肉の一片を椀の端へ寄せ、どうして乾燥肉を先に洗わなかったのかと聞いた。


「保存するための塩も、全部入ったんだろうよ。俺は屋根なら直せるが、鍋は無理だ」


 誰なら分かるかと尋ねると、粉挽き小屋の隣にある食料品店を教えてくれた。隊商の料理人が、いま村にいるらしい。


「ただし、料理人を道具みたいに借りに行くなよ。本人に聞け」


 レオンは鍋を火から外し、明日ならまだ使える材料を分けた。煮込みを捨てずに済ませる方法も、できれば聞きたいところだった。


     ◯


 翌朝の食料品店では、女が玉葱の袋を前に腕を組んでいた。


「こっち、芽が出てるわね」


「だから安くしてるだろ」


「分かってる。すぐ使う分と日持ちさせる分を分けたいの」


 店主と言い争っているのかと思ったが、女は二つの籠を並べ、迷いなく玉葱を振り分けていった。茶色の髪を頭の後ろでまとめ、袖は肘まできっちり捲っている。


 レオンが声をかけると、彼女は顔を上げた。


「料理人の方でしょうか」


「そうよ。仕事の相談? 何人分で、何日くらい? 台所は使えるの?」


 挨拶より先に質問が三つ来た。レオンは順に答え、灯火亭を再開するつもりだと話した。鍋の失敗まで説明すると、彼女の視線が手提げの干し肉へ落ちた。


「まさか、それを塩代わりに使った?」


「結果としては」


 女は笑いをこらえきれず、口元へ手を当てた。


「正直ね。私はリタ。いまは伯母の家にいるの。その煮込み、昨夜はどこへ置いた?」


 冷ましたあと、涼しい地下の貯蔵場所へ移したと答えると、まず実物を見ないと何とも言えない、とリタは言った。


「今日は、昼までなら空いてる。相談料は取るわよ」


「もちろんです」


 レオンの返事が早かったせいか、リタは一瞬だけ目を丸くした。それから、値段も聞いて、と笑った。


 宿までの道すがら、彼女は隊商との契約が先月で終わったことを話した。料理をしながらあちこちの町を見て、自分の店を出す場所を探していたという。


「宿を持ちたいの。夜に着いた人にも、急いで食べなくていいごはんを出せる店」


「それなら、ここの台所を見てほしいです」


「見るのと、働くのは別よ」


 釘を刺す声は明るかった。レオンは頷き、玄関の鍵を開けた。


 台所へ入ったリタは、食材より先に水場と火床を確かめた。昨日の煮込みは匂いと保管の具合を見て、十分に熱を通して、その日のうちに食べ切るよう言った。根菜と豆を別に煮て少しずつ混ぜれば、塩気も脂も薄まるという。


「全部を大鍋へ戻さないで。直せる量ずつ試して」


 レオンは小鍋を手前へ寄せた。宿の修繕でも、手をつける範囲を決めてから始めた。料理でも、まず一度に扱える量を知るところからなのだろう。


 リタはもう一つの鍋を出し、新しいスープを作ることにした。レオンは指示された三人分の蕪を数え、包丁を握る。切り口を揃えると、彼女はまな板の上を覗いて感心した。


「綺麗。これ、どこで覚えたの?」


「切ることだけは、長くやっていたので」


「なら、次は煮えるまで待つ練習ね」


 レオンは残りの蕪を切り終え、鍋を見た。包丁を使う間はよかったが、ここからは、手を動かさずにいる方が難しそうだった。


 玉葱を炒める間、レオンは何度も薪を足しそうになった。強い火なら早くできると思ったからだ。リタは手を止めずに、鍋底の色と匂いを確かめるよう促した。


「早く焦げるのと、早くおいしくなるのは別」


 玉葱の角が透き通り、甘い匂いが立ってくる。レオンが匙を動かす速さを緩めると、油の音がようやく聞こえた。


 蕪を入れ、水を注ぎ、塩は最後に少しずつ。リタは計量に使った小匙を棚の端へ置いた。毎回同じ物を使えば、昨日の味と比べられるという。レオンは小匙を取り、塩をすくって、今日使った量を確かめた。これなら明日も同じ場所から始められる。覚えることが、目の前に一つずつ並んでいくのが嬉しかった。


 煮えるまでの間に、リタは蕪の残りを布で包んだ。切った物と丸のままの物を分け、先に使う方を棚の手前へ置く。レオンが順番を紙に書くと、彼女は昨日の鍋に残った量も記すよう勧めた。


「足りないのは困るけど、余らせ続けても、お店は困るから」


「多く作れば安心だと、思っていました」


「隊商でも、最初の頃はそうしたわ。それで一度、豆を煮すぎて、次の町まで持って歩くことになったの」


 レオンは思わず顔を上げた。リタは失敗を隠す様子もなく、あれは重かった、と肩を回した。レオンは昨日の大鍋を見やり、つられて笑った。手際のよい彼女にも、重すぎる鍋を抱えて歩いた日があるらしい。次に何をするのか、さっきより気軽に尋ねられた。


 窓から差し込む光が傾く前に、三つの椀が並んだ。二人分と、味見に呼んでいたミナの分だった。匙ですくうと、蕪は形を残したまま、舌の上でほろりと崩れた。


「同じ畑の蕪ですよね」


 レオンが聞くと、ミナが吹き出した。


「うちの蕪だと思えないくらい、おいしいですか?」


「はい」


「そこは、うちの蕪は元からおいしいと言ってほしいなあ」


 リタまで笑った。レオンは慌てて頷き、もう一口食べた。塩のあとに、さっきは分からなかった甘さが残る。蕪を口の中でゆっくり潰してから、呑み込んだ。


     ◯


 昼の食器を洗い終えると、リタは借りた布巾を干した。帰る支度をする背に、レオンは声をかけた。


「明日から二日、手を貸していただけませんか。開店の準備と、最初のお客さんの食事を」


 リタは振り返り、すぐに承諾はしなかった。


「二日が終わったら?」


「その先は、改めて相談したいです。今日、初めて台所を見てもらったばかりなので」


「……そうね。それなら、考えられる」


 相談料と二日間の給金を決め、働く時間も紙に書いた。二日分は銀貨二枚。仕入れのお金は別で、立て替えさせない。彼女の都合で午後に抜ける時間も、先に確認した。


 レオンが紙の端へ大きく『お願い』と書くと、リタが覗き込んだ。


「契約、でいいんじゃない?」


「そうでした」


「頼むのが下手なのね」


「頼まれる方が、多かったので」


 言葉が途切れ、レオンは紙へ目を落とした。リタはそれ以上聞かず、小匙を一本、彼の方へ差し出した。


「じゃあ明日は、六人分をいきなり作らないこと。客数が分かるまで、下拵えで止めておきましょう」


 レオンはそれを受け取り、棚に決めた場所へ置いた。


 リタを見送ってから、食堂の入口に料金を書いた板を立てた。一泊夕朝食付き銀貨一枚。文字の大きさが揃わず、最後の一文字だけ小さくなったが、読めることは読めた。


 看板を『準備中』から『明日開店』へ掛け替えようとして、レオンは手を止めた。取っ手の鎖は、もう外してある。


 明日は誰かが、扉を叩くかもしれない。


 彼は厨房へ戻った。洗い終えた鍋のそばにも、炒めた玉葱の甘い匂いがほのかに残っていた。自分で書いた献立には、初めて、客に出せそうな料理の名前が一つ載っていた。

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