2 海で助けた自殺志願者
海から吹く風が頬を撫で、馬上のセシルの黒髪とドレスの裾がサラサラと揺れている。
浜辺には、遠く右手に網の手入れをしている領民の姿が見えた。
左の方角には、男が一人立っているが、こちらには気づかないようだ。
(・・・何をしているんだ?)
ジャスティンは、何となく目に入った男の様子が気に掛かった。
まだ若そうな男は、立てたイーゼルに置かれた絵画を、数歩離れた位置で見つめている。服装も、画家のように見えた。
(海の風景画を描いているのか?絵筆は持っていないようだが・・・)
そんな事を考えていると、男がゆっくりと動いた。
描かれたキャンバスをイーゼルから外し、大切そうに胸の中に抱く。
そして彼は、意を決したように足を進め、海の中へ入って行った。
「あっ、あれは!」
入水自殺か、と傍らのセシルに声を掛けたが、彼女はもうそこには居ない。
「えっ・・・」
慌てて視線を巡らすと、セシルは馬を駆って波打ち際から海に入っていた。
けれどセシルの馬は、四肢が浸かるところまで来たら、動かなくなってしまった。
水に浸かったり泳いだりすることを経験してない馬なら、無理もない。
セシルは海に入ってゆく男に声を掛けながら、靴とドレスを脱ぎ捨てた。サッシュを解けば、簡単に脱げるようなドレスだったのが幸いだ。
ザブン!
と、セシルは思い切りよく海に入る。
足は着いたが、波が来れば頭から海水を被るような深さだ。
けれど彼女は、臆することなく進み、キャンバスを抱えた男に近づくことが出来た。
「ちょっと!・・・何でもイイから、止めなさいっ!」
大声を掛けてみるが、それで素直に言う事を聞くはずもない。
「は、離してくださいっ!ほっといてくださいっ!」
バシャバシャ、ガボガボ・・・
海の中で揉み合っているところに、遅れてジャスティンも到着した。
セシルに倣って海に飛び込み、2人掛かりで男を浜の方へ引っ張って行こうとするが、暴れてどうにもならない。
「大人しくしろっ!」
ジャスティンは堪忍袋の緒が切れたように怒鳴り、男の首に腕を回して、後ろからグイと締めた。
若い画家風の男は、締め落とされたように大人しくなる。
力の抜けた身体は、抱きしめていたキャンバスを離し、そのまま浜辺へと連れ戻された。
浜には人が集まっていた。
「この人は、何で海に・・・って、御領主様っ!」
手入れしていた網を放り出して来てくれた人々は、ジャスティンに吃驚仰天だ。
「事情は知らんが、自殺志願者のようだ。村長を、呼んできてくれ」
ジャスティンが落ち着いて指示をしていると、セシルはいつの間にか海へ戻っていた。
(ドレスはあったけど、靴は見つからないわ。後は・・・あの絵ね)
自分が脱ぎ捨てたドレスを見つけ、波の間に漂っているキャンバスを回収する。
ふとその絵を見ると、そこには美しい女性の姿があった。
(油絵だから、大丈夫そうね)
セシルは全身びしょ濡れになって、浜へ上がって来た。
男は人々に囲まれて、深く俯きながら砂の上にペタリと座っている。
「これ・・・大事な物でしょう?」
セシルは男の前にキャンバスを差し出し、優しく声を掛けた。
「あ・・・・・ああ・・・」
男は両手を伸ばし、絵を受け取ると再び胸に抱く。
「・・・濡らしてしまって・・・ごめんよ」
男の眼から溢れる涙は、死にそびれた嘆きもあるのだろうか。けれどジャスティンは、そんな彼に苛立ちを押さえられずにいた。
(迷惑な話だ。気づかれないとでも、思っていたのか・・・折角いい気分だったのに)
けれど何とか不機嫌を隠し、直ぐ来ると言われた村長を待っていたジャスティンが、妙に気恥ずかしそうにそっぽを向く村人たちに気付いた。
(ん?・・・何だ?)
背後を振り帰ると、数歩離れたところにセシルがいる。
「・・・・ひょえあっ!」
思わず珍妙な声が出てしまったが、苛立ちが吹っ飛ぶくらいの驚きだ。
感情のジェットコースターである。
セシルはそこで、濡れたドレスを絞っていた。
それは、良い。
良いのだが・・・身に着けているのは、薄手の白い下着だけ。
楽な恰好、とセシルは言っていた。
だからコルセットも着けず、最小限の下着だけ。
そこに、羽織るようなタイプのドレスだけで、どうやら靴も素足で履いていたらしい。
薄い絹の下着は、濡れてぴったりと素肌に貼りついている。
身体の線も露わで、透けた布の向こうにある肌の色まで、容易に見て取れた。
産まれたままの姿で、海の泡から生まれた女神が、陸に上がって来た絵画のようだ。
いや、寧ろそれよりも色っぽいかもしれない。
ドレスを絞る様子が、神々しさよりも生々しい、生きている女性の艶めきを纏っていた。
そんな恰好を目の当たりにした領民たちが、気まずく目を逸らすのも当たり前だ。
そして当のセシルは、そんな周囲も気にしていない。
ジャスティンは、飛びつくようにセシルに駆け寄り、彼女の手から捩れたドレスを引っ手繰る。
そして勢いよくそれを振って広げ、慌ただしく彼女に着せ掛けた。
「あっ、あの・・・すみません、靴は無くして・・・」
戸惑うセシルが言うのも構わず、彼はその身体を馬の背に押し上げた。
「村長が来たら、ソイツを保護しておくように言ってくれ!」
自分も馬に跳び乗りながら、ジャスティンは大声で村人に伝えると、セシルの馬の轡を取って、館へと走り去るのだった。
翌日、濡れた服での乗馬で、セシルはしっかり風邪をひいてしまっていた。
「医者が暇なのは良いことだと言いますから、自分がもう少し暇を願っても良いのではないかと思います」
クリス侍医は、やんわりと苦言を呈する。
確かに、怪我の直ぐ後に風邪で、同じ患者を立て続けに診るのだから、そう言いたくもなるだろう。
「すみません・・・でも、この程度なら普通に動けますし・・・」
セシルは、寧ろにこやかにそう言う。
微熱程度だし、多少鼻水が出るくらいなのだ。
養成所時代は、もっと高熱で咳が止まらない状態でも、日課の仕事はこなしていたのだから。
「そう言うのを、無理や無茶と言うのです。酷くなる前に安静にして治す。それが一番、身体の負担が少なくて済むのですから。安静が出来る時は、大人しくなさっていて下さい」
静かに、けれどきっぱりと言う侍医は、ジャスティンに目配せをして部屋から出て行った。
「セシル、少しはクリスに暇な時間を与えてやってくれ」
やれやれ、と言うようにベッドサイドに腰を下ろすジャスティン。
セシルは、申し訳なさそうに頷くしかない。
「・・・ジャスティン様は、大丈夫なのですか?」
おずおずと尋ねる彼女に、彼はニヤリと笑って見せた。
「俺は、下半身しか濡れてないからな。冷えたが、腹は壊していないぞ」
大切に育てられた元皇太子だが、身体は丈夫であるらしい。
「昨晩、村長が来たんだが、あの自殺志願者はとりあえず村で保護しておいてもらうよう命じておいた。多少の金子も渡しておいたし、暫くは大丈夫だろう。名は、ダン・フレームだそうだ。それ以外の事は、何も言わないらしいが、村長に任せておけば面倒は見て貰えるだろう。実は、ちょっと気になることもあるんだ」
ジャスティンの言葉に、セシルは小首を傾げた。
「あの絵・・・彼が描いた女性だが、見覚えがあるんだ。エリン・ドゥラ伯爵令嬢だと思う」
ドゥラ伯爵家は、由緒ある家柄だ。現伯爵は、政治的には穏健派であるという。エリンはその三女だが、結婚話が出ているらしい。
「知っているという程度の間柄だが、次に王都に行ったら、少し話を聞いてみても良いかと思っているんだ。ああ、王都と言えば、叔母上から小さな荷物と手紙が届いていたな。持ってこさせよう」
直ぐに使用人は、ヴェラ・アズールからの荷物を持ってくる。
「早朝に届いたんだが、お前の体調不良でバタバタしてただろう・・・」
ジャスティンは、小さな包みと手紙を、セシルに渡す。宛先は、彼女になっていた。
セシルは手紙に目を通すと、彼に渡す。
『御機嫌よう、セシル。ジャスティンとは、仲良くやっていますか?
今回送った荷物は、『盾の乙女養成所』から預かって来た物です。『盾の乙女』が引退する時は、入所した時に預かった物を、返却する規則になっているのですが、貴女の場合、急な引退という事で準備が出来なかったそうです。先日、視察に訪れた時に、所長がそう言っていたので、私が預かってそちらに送ることにしたのです。かなり古い物ですが、一応お渡しして置きますね。
では、また王都に来た時は、顔を見せて下さい。ジャスティンにも、よろしく』
どうやらヴェラは、甥と同じようにセシルの事を気に行っているようだ。
ジャスティンは、どこか暖かい気持ちになり、そっと笑みを浮かべた。
彼が手紙を読んでいる間、セシルは包みを開いていた。
「・・・これは、私が入所した時に着ていた服と、持っていた物です」
ボロボロになった幼児服は、色褪せて虫食いの跡がある。保管してあったとは言え、十数年も時が経てばそうなるのも当たり前だろう。
ジャスティンも、それを見て微かに眉を顰めた。
「かなり痛んでいるな・・・思い出の品なら、とっておくかい?」
「いえ・・・流石に、これは処分した方が良いと思います」
セシルは、あっさりと答えた。そして次は、転がり出て来た小さな塊を摘まみ上げた。
「ああ、でもこれは・・・覚えています」
セシルが掌の上に乗せたそれは、拳の中に握りこめそうな大きさの、鉛色をした馬だった。
「これ、いつも持っていて、取り上げられた時は大泣きしたんです。でも規則だからと言われて、諦めるしか無かった・・・いつの間にか、忘れていましたけど」
彼に見せるように、セシルは掌の上に乗せた小さな馬を差し出す。
ジャスティンは、少し重みのある小さな馬を、しげしげと見つめた。
「金属だが、鉛では無いかもしれないな。ここに小さな輪がある。チェーンか金具を着ければ、身に着けることが出来そうだ・・・セシル、王都へ行こう。これを磨きに出して、細いチェーンを着けてみよう。デザインはなかなか良さそうだしな」
え?と目を丸くするセシルだが、ジャスティンは自分の思い付きが気に入ったようだ。
「ドゥラ伯爵令嬢のこともあるしな。風邪が治ったら、行くことにしよう。だから、侍医の言いつけを守って、大人しくしているようにな」
こうなると、セシルとしては大人しく寝ているしかない。
「・・・解りました」
『古の盾の乙女』として同行するために、今は安静を守るしかないだろう。
退屈な時間になりそうだ、とこっそり溜息を漏らしたセシルに、ジャスティンは宥めるように、その頬にキスをした。
少し熱い頬に落とされた彼の唇は、酷く気持ちが良かった。




