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第9話 お嬢様との距離が近すぎる

 土曜日。あっという間に一週間だ。


 初めて酒を飲んで女になったときは、鏡に映った自分の姿を見て大騒ぎしたものだ。それが今では、酒を何本飲めばどれくらい麻由の姿でいられるのかまで調べている。


 その間に会社は潰れ、迷子になっていた麗奈と知り合い、その父親が白玲学園の理事長だと分かり、気づけば俺まで高校へ通うことになっていた。


「濃すぎるだろ、この一週間……」


 三十五年間生きてきた中でも、ここまで急激に生活が変わったことはない。


 部屋には白玲学園から届いた教科書が置かれ、制服や体操服、ローファーまで揃っている。あとは登校日を迎えるだけだ。


「本当に高校行くんだよな、俺」


 いまだに現実味が薄い。


 教科書を一冊手に取り、適当にページをめくっていると、テーブルに置いていたスマホが鳴った。


「ん?」


 画面には『白川麗奈』と表示されている。


「あっ」


 出ようとして、すぐに手を止めた。


 今の俺は正由だ。


 このまま電話に出れば、麗奈が知っている麻由とは似ても似つかない男の声が聞こえることになる。


「……出られないんだった」


 前に気づいた問題が、早速やってきた。


 仕方なく着信が切れるのを待つ。


 電話が止まると、俺はそのまま冷蔵庫へ向かい、缶ビールを一本取り出した。


「電話かけ直すだけなんだけどな……」


 缶を開けて飲み始める。


 麗奈へ電話する。


 ただそれだけのために、朝からビールを一本空けなければならない。


 普通なら意味不明だが、今の俺にはこれが一番手っ取り早い。


 飲み終えてしばらくすると身体の感覚が変わり、視線が低くなっていく。肩に長い黒髪がかかるようになったところで鏡を確認すると、そこには麻由の姿があった。


「よし」


 スマホを手に取り、麗奈へかけ直す。


 呼び出し音が一度鳴ったところで、すぐに繋がった。


『もしもし、麻由さん!』


「もしもし。ごめん、さっき出られなくて」


『いえ、大丈夫ですわ。何かされていましたの?』


「ちょっとね。それで、どうしたの?」


『麻由さん、本日は何かご予定があります?』


「今日は特にないよ」


『でしたら、わたくしと遊びませんこと?』


「遊ぶ?」


『ええ。せっかくお友達になれたのですもの。ゆっくりお話ししてみたいですわ』


 そういえば麗奈とは友達になったものの、普通に遊んだことはまだない。


 俺自身、今日は特に予定もなかった。


「いいよ。どこか行く?」


『わたくしの家へいらっしゃいません?そのあと何をするか一緒に決めましょう』


「麗奈ちゃんの家か……」


 専属の運転手がいて、父親は白玲学園の理事長。


 どんな家なのかは、正直ちょっと気になる。


「でも、場所知らないよ?」


『ご心配ありませんわ。こちらからお迎えに参ります』


「迎えに?」


『はい。学校の手続きで麻由さんのご住所は分かっておりますから』


「ああ、そうだった」


『運転手も場所は存じておりますし、わたくしも一緒に参りますわ』


「麗奈ちゃんも来るんだ」


『もちろんです。わたくしがお誘いしたのですもの』


 友達と遊ぶだけなのに、高級車で本人まで迎えに来る。


 やはりお嬢様の感覚は少し違う。


「じゃあ、お願いしようかな」


『ええ!三十分ほどで伺いますわ』


「分かった。準備して待ってる」


 電話を切り、自分の格好を見る。


 家で過ごすつもりだったので、当然ながら部屋着のままだ。


「着替えるか」


 クローゼットを開ける。


 麻由用の服ならすでにある。


 女になって間もない頃、ショッピングモールへ行ったときに何着か買っておいたものだ。最初こそ女性物の店へ入るのに少しだけ躊躇したものの、試着を始めてからは普通に楽しんでいた。


 むしろ予定より買いすぎたくらいだ。


「こういうときのために買ったようなもんだしな」


 何着か見比べて、その中からトップスとスカートを選ぶ。


 着替えを済ませ、鏡の前に立った。


「…………」


 長い黒髪を整えながら、全身を見る。


 やっぱり似合っている。


 あのとき試着室でも思ったが、男物の服を着ているときとは印象がまるで違う。


「我ながら、かわいいな」


 鏡の前で少しだけ口元が緩む。


 一週間前まで三十五歳の男として普通に生活していた人間が、自分で選んだスカートを穿いて、自分をかわいいと思っている。


 改めて考えると相当な変化だ。


 もっとも、似合っているのだから仕方がない。


 そんなことを考えていると、ふと別の問題を思い出した。


「……待てよ」


 ついさっき、ビールを一本飲んだ。


 麗奈に電話をかけ直すためだったとはいえ、飲んだことに変わりはない。


「酒臭くないよな……?」


 自分の息を確認しようとしてみるが、よく分からない。


 麗奈から見れば、俺は今年十六歳になった女の子だ。


 遊びに誘った友達を迎えに行ったら、その友達から朝っぱらからビールの匂いがする。


「……それはまずい」


 洗面所へ行き、念入りに歯を磨く。


 口をゆすぎ、水も飲んだ。


 昨日の計測では一本で六時間以上麻由の姿が続いた。今日遊ぶだけなら時間的には問題ないだろう。


 問題は酒の匂いだけだ。


「まあ、大丈夫だろ」


 自分では判断できないので、そう思うしかない。


 準備を終えて少し待っていると、家の前から車の音が聞こえてきた。


 窓から外を覗く。


 見覚えのある黒塗りの高級車が停まっていた。


「相変わらず目立つな……」


 普通の住宅街に停まっているせいで、余計に存在感がある。


 後部座席から麗奈が降りてきて、ほどなくインターホンが鳴った。


 バッグを持って玄関へ向かい、ドアを開ける。


「麻由さん!」


「お待たせ」


「いえ、わたくしたちが少し早く着いてしまいましたの」


 麗奈はそう言ってから俺の服装を見て、表情を明るくした。


「まあ、とてもお似合いですわ」


「ありがとう」


 買ったときにも気に入っていた服なので、そう言われると嬉しい。


 ただ、麗奈が近づいた瞬間、それどころではなくなった。


 酒臭くないだろうか。


「麻由さん?」


「ん?」


「どうかなさいました?」


「いや、なんでもないよ」


 麗奈は特に気づいた様子もない。


 それなら大丈夫なのだろう。


「では、参りましょう」


「うん」


 運転手が後部座席のドアを開けてくれたので、麗奈に続いて乗り込む。


 ドアが閉まると、麗奈が楽しそうにこちらを向いた。


「麻由さん、今日は何をいたしましょう? わたくし、いろいろ考えておりますの」


「そうなんだ」


「まずはお家をご案内いたしますわ。それからお昼をいただいて――」


 話しながら、麗奈が少しこちらへ身体を向ける。


 その瞬間、俺はさりげなく窓側へ寄った。


 外ならまだしも、車内は密閉空間だ。


 もし酒の匂いが残っていたら、さすがに気づかれるかもしれない。


「午後からは一緒にお買い物へ行くのも楽しそうですわね」


「いいね」


 返事をしながら、さらに少しだけ窓側へ寄る。


 麗奈は気づかず話を続けていたが、しばらくすると俺の肩が窓に当たった。


 もうこれ以上は離れられない。


「……麻由さん?」


「なに?」


「どうしてそんなに端へ寄っていらっしゃいますの?」


「なんとなく」


「先ほどはもう少しこちらに座っていませんでした?」


「気のせいじゃない?」


「そうですの?」


 麗奈が不思議そうに首を傾げる。


 その直後、少しだけこちらへ顔を近づけた。


「…………」


 やめて。


 今は近づかないで。


「麻由さん」


「な、なに?」


「何かいい香りがいたしますわね」


 一瞬、心臓が跳ねた。


「……いい香り?」


「ええ。シャンプーでしょうか?」


「ああ……たぶん」


「素敵ですわね」


 どうやら酒ではなかったらしい。


 俺は内心でほっとしながら、ようやく窓から少しだけ身体を離した。


 大丈夫そうだ。


 そこまで神経質になる必要はなかったのかもしれない。


 そう思った直後、麗奈が俺の隣へ少し詰めた。


「でしたら、もう少しこちらへいらしてくださいませ。そんなに離れていてはお話ししづらいですわ」


「えっ」


「ほら」


 空いていた座席を軽く叩かれる。


 断る理由も思いつかず、仕方なく少しだけ麗奈のほうへ戻った。


「このくらい?」


「もう少しですわ」


「これで十分じゃない?」


「まだ離れておりますもの」


「いや、普通これくらい――」


 麗奈がさらに詰めてくる。


 俺は反射的にまた窓側へ逃げた。


「……麻由さん?」


「…………」


 麗奈が首を傾げる。


 俺は窓の外を見る。


 酒臭さはバレていない。


 それはよかった。


 ただ、一つだけ分かったことがある。


 酒を飲まないと麻由になれない俺と、やたら距離の近いお嬢様。


 この二つ、死ぬほど相性が悪い。


「……早く着かないかな」


「まあ!そんなにわたくしの家が楽しみなのです?」


「うん。今はものすごく」


 嘘ではない。


 一刻も早く、この密閉空間から出たかった。

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