第8話 女子高生になるために、朝からビールを飲んでます
翌朝。
目を覚まして時計を見ると、午前七時を少し回ったところだった。
会社がなくなった今、こんな時間に起きる必要はない。二度寝したところで誰にも文句は言われないのだが、今日はやっておきたいことがある。
顔を洗ってリビングへ向かい、そのまま冷蔵庫を開ける。
取り出したのは缶ビール。
「……朝七時からビールか」
我ながらひどい。
会社が潰れて無職になった三十五歳の男が、朝っぱらから一人でビールを飲もうとしている。事情を知らない人が見れば、かなり心配になる光景だろう。
「違うからな。今日は実験だから」
誰もいない部屋で言い訳しながら、スマホをテーブルに置いた。
昨日、高校へ通う話を受け入れてから気づいたことがある。
俺は酒を飲めば麻由の姿になり、酔いが醒めれば正由へ戻る。だが、どのくらい麻由の姿でいられるのかを正確に測ったことがない。
高校へ通うなら、これはかなり重要だ。
授業中に三十五歳の男へ戻るなんてことになれば、どう考えてもごまかせない。
「七時十二分」
時刻を確認して缶を開ける。
一本飲み切ってしばらくすると、身体の感覚が変わり、視線が低くなっていく。肩に長い黒髪がかかる頃には、すっかり見慣れてきた麻由の姿になっていた。
鏡で確認する。
「うん。今日もいい感じ」
女になること自体は、ほとんどない。
むしろ最近は、この姿になるのを少し楽しんでいる気さえする。
今日は一日、家から出ない予定だ。正由へ戻る直前に外にいるなんて危険なことはしたくないし、まずは一本でどれくらい持つのかを知っておきたい。
テレビを見たりスマホを触ったりして時間を潰しているうちに、ふと自分の身体が気になった。
「……そういや、下着どうするかな」
胸は大きすぎるわけでも、小さすぎるわけでもない。
ここ数日、麻由の姿になっても女性用の下着なんて持っていなかったので、そのまま服を着ていた。短時間なら大して気にならなかったが、動いていると服が擦れるような違和感はある。
学校で一日過ごすなら、さすがに用意したほうがいいだろう。
「買いに行かないとな……」
女性用の下着を買いに行く三十五歳の男。
一言で言うと、キモ過ぎる。
しかし、難易度が高いが、麻由の姿なら何もおかしくはない。
そのためにも、今日の実験で時間を把握しておきたいところだ。
トイレについても、最初こそ身体の違いに戸惑ったものの、小のほうなら出るところが違うだけで生理現象には変わりない。ここ数日で普通に済ませられるようになっていた。
人間、慣れるものである。
そんなことをしながら家で過ごしているうちに、昼を回った。
十二時。
一時。
まだ麻由のままだ。
そして午後一時四十七分。
「あっ」
身体の感覚が元へ戻った。
急いで鏡を見ると、そこにいたのはいつもの三十五歳の男だった。
「一時四十七分……」
すぐにスマホへ記録する。
午前七時十二分から午後一時四十七分。
六時間三十五分。
「一本で六時間半くらいか」
思っていたより長い。
しかし学校へ通うことを考えれば微妙だった。朝に一本飲んだだけでは、午後の授業中に戻る可能性がある。
「じゃあ、二本だとどうなる?」
せっかく一日空けているのだから、続けて調べてしまおう。
午後二時ちょうど。
今度は缶ビールを二本用意した。
「……実験だからな」
朝にも同じことを言った気がする。
二本を飲み終える頃には、再び麻由の姿になっていた。
一本で六時間三十五分。
二本なら単純に倍になるのか、それとも大して変わらないのか。
スマホへ時間を記録した直後、インターホンが鳴った。
「ん?」
何か頼んだ覚えはない。
玄関で受け取ったのは、かなり大きな段ボールだった。
送り主を見る。
『白玲学園高等学校』
「……何これ」
部屋へ運び、箱を開けてみる。
最初に出てきたのは制服だった。
さらにローファー、教科書、体操服。学校生活で必要になりそうなものが一通り揃っている。
「いやいや……」
昨日の今日だぞ。
制服を手に取る。
落ち着いた色合いのブレザーに、チェック柄のスカート。胸元につけるリボンも入っている。
試しに身体に当ててみると、鏡の中の少女がますます高校生らしく見えた。
「それにしても早すぎだろ……」
理事長権限というものを少し怖く感じ始めた。
呆然としていると、今度はスマホが鳴った。
「もしもし?」
『花川さんかな。白川だ』
「あ、こんにちは」
『荷物は届いたかね?』
「今届きました。というか、早すぎません?」
『必要なものだからね。早いに越したことはないだろう』
「そういうものですかね……」
『それと、入学の手続きも無事に終わったよ。予定どおり、来週の月曜日から登校してもらって構わない』
「……えっ?」
俺は思わず制服を置いた。
「もう手続きが終わったんですか?」
『ああ。昨日のうちにね』
「いや、ちょっと待ってください。私、戸籍もないし、前の学校の書類もありませんよ?身分証明だってできないんですけど、本当に大丈夫なんですか?」
『もちろん、その件も承知しているよ』
「それで、どうやって……?」
『まず、入学に必要な書類だが、君の場合、ほとんど用意できないとのことだったから、必要書類の一覧から全部外した』
「全部!?」
あまりにもあっさりした答えに、思わず声が裏返った。
『それから、転入には前の学校の在籍証明が必要だったんだが、それも君には難しいだろう?』
「そりゃそうですけど……」
『そこで、新しく特別編入制度を作ったんだ。前の学校に通っていなくても、本人に学ぶ意欲があれば受け入れられる』
「そんな制度、勝手に作っていいんですか!?」
『勝手ではないよ。理事会で正式に承認された』
「理事会まで!?」
『全会一致だったよ』
「なんで全員賛成するんですか!」
『私が提案したからかな』
「それ、理事会の意味あります!?」
この人、にこやかな声でとんでもないことを言っている。
私立学校の理事長というのは、ここまで何でもできるものなのだろうか。
いや、そんなはずはない。少なくとも俺の知っている日本では。
『ちなみに、制度の名称は「白玲学園特別編入制度」にした』
「ずいぶん立派な名前ですね……」
『第一号の適用者が君だ。おめでとう』
「おめでとうって言われても!」
『安心してほしい。君のために作った制度だが、今後も使えるようにしてある』
「今後、私みたいな生徒が現れる予定でもあるんですか!?」
『世の中、何が起こるか分からないからね』
それは俺が一番よく知っている。
何しろ、酒を飲んだだけで女になってしまったのだから。
『というわけで、月曜日から一年生として通ってもらうことになる』
「一年生……」
『麗奈と同じクラスにしてある』
「そこまで!?」
思わず聞き返した。
『麗奈がそのほうがいいと言っていたのでね』
「ああ……」
妙に納得してしまった。
麗奈が高校一年生なのは、学校へ送り届けた日に聞いていた。
だから年齢を聞かれたとき、俺も「今年で十六になった」と答えている。
まさか本当に同じ高校へ通うことになるとは思っていなかったが、結果的にはちょうどよかった。
もし年齢を適当に答えて学年がずれていたら、せっかく友達になった麗奈と学校では先輩後輩になっていたかもしれない。
それが同じ学年どころか同じクラス。
どう考えても麗奈の希望がかなり入っている。
『とりあえずは月曜日は、八時に私のところへ来てもらえるかな?』
「分かりました」
『麗奈も楽しみにしているよ』
「でしょうね」
同じクラスにまでしてもらったのだから、相当楽しみにしているのだろう。
電話を切り、改めて部屋を見回す。
制服。
ローファー。
教科書。
体操服。
昨日まで何もなかった部屋が、一日で高校生の部屋らしくなってしまった。
「……マジで通うんだな」
来週の月曜日から、白玲学園高等学校一年生。
麗奈と同じクラス。
花川麻由、十六歳。
本当は花川正由、三十五歳。
相変わらず無茶苦茶だが、不思議と楽しみのほうが大きかった。
その後も追加の酒は飲まず、二本でどれくらい麻由の姿が続くのか確かめる。
夕方になっても戻らない。
夜になっても麻由のままだった。
「一本とは結構違うな」
そして午後十一時十八分。
ようやく身体の感覚が元に戻った。
鏡を見ると、そこには正由がいる。
「二時から十一時十八分……九時間十八分か」
一本では六時間三十五分。
二本では九時間十八分。
単純に倍になるわけではないらしい。
それでも九時間以上あれば十分だ。
朝に飲んでおけば、授業が終わるまで麻由の姿でいられる。
「よし。これなら二本飲めば安心だな」
実験結果に満足して頷く。
これで授業中に正由へ戻る心配はかなり減った。
高校へ通うための大きな問題を一つ解決できた。
「…………」
そこで、ふと気づく。
朝起きる。
制服に着替える。
ビールを二本飲む。
女子高生になる。
そのまま学校へ行く。
「…………」
改めて頭の中で繰り返す。
朝からビールを二本空けて登校する十六歳の女子高生。
「いや、ヤバすぎるだろ!」
思わず一人で叫んだ。
高校生活が始まる前から、生活態度だけなら退学寸前だった。




