第7話 酔いが醒めたら、現実が待っていた
その日の夜。
酒もすっかり抜け、俺の身体は花川麻由から三十五歳の男、花川正由へと戻っていた。
夕飯を済ませたあと、ソファに座ってテレビを眺めていたのだが、さっきから内容がまるで頭に入ってこない。
「……やっちまったな」
昼間の出来事を思い返す。
白玲学園の理事長室で、俺は確かに言った。
この学校に通ってみたい、と。
酔っていたとはいえ、記憶が飛んでいるわけではない。何を話したのかも、どういう流れでそうなったのかも、しっかり覚えている。
「本当にいいのか、俺……」
高校へ通う。
三十五歳の男が、女子高生として。
改めて考えると、とんでもない話だ。
つい数日前から、この姿なら高校へ通えるんじゃないかと考えてはいた。
会社もなくなった。時間ならある。
けれど、少し調べただけで戸籍や必要書類の問題にぶつかった。花川麻由という人間は戸籍上どこにも存在しないのだから、どう考えても無理だと思っていた。
だから、ほとんど諦めていた。
それが今日になって突然、白玲学園の理事長本人から通ってみないかと誘われた。戸籍そのものはどうにもできないが、今住んでいる住所さえ分かれば、学校側で本来必要になる手続きについてはある程度なんとかするとまで言われた。
そして俺は、その場で頷いた。
「考えてたことが、本当に現実になっちまうぞ……」
口にした途端、急に実感が湧いてきた。
別に後悔しているわけではない。
高校へ行ってみたいと思っていたのは本当だし、無理だと分かったときには少なからず残念だった。
酒が入っていたせいで、普段より判断が軽くなっていたのは間違いない。それでも、嫌なことを勢いだけで引き受けたわけではなかった。
むしろ今は、不安よりも現実味のなさのほうが大きい。
「俺が高校生か……」
正確には、麻由としてだが。
高校を卒業してから十数年。今さら教室で授業を受ける自分なんて、簡単には想像できない。
「勉強、大丈夫かな」
数学の公式なんてほとんど忘れているし、英語も怪しい。高校生だった頃に習ったことを、三十五歳になった今どれだけ覚えているのか。
それ以上に心配なのは、周りの生徒との付き合いだった。
見た目だけなら同年代でも、中身は三十五歳だ。
話題についていけるのか。
知らない流行を当たり前のように振られたらどうする。
何気ない一言で、おっさん臭いと思われたりしないだろうか。
「……そこはなんとかするしかないか」
考えたところで答えは出ない。
それよりもっと根本的な問題がある。
俺は自分の身体を見下ろした。
今は完全に男へ戻っている。
「毎朝、酒飲んで学校行くことになるんだよな……」
朝起きて、酒を飲んで、女子高生になって登校。
とんでもない生活だ。
しかも授業中に酒が抜ければ、その場で正由に戻ってしまう。
今まで何時間くらい麻由の姿でいられるのか、正確に測ったこともない。
「これはちゃんと調べないとまずいな」
高校へ通う以上、途中で男に戻るなんてことだけは絶対に避けなければならない。
他にも考えなければならないことは山ほどある。
「……よくあんな簡単に返事したな、俺」
やはり酒が入っているときの判断力は信用しないほうがいい。
そう思いながら、理事長室を出る前のことを思い出した。
『では、まず現在住んでいる住所を教えてもらえるかな』
『住所ですか?』
『ああ。それと名前、こちらから連絡できる電話番号もお願いしたい』
『分かりました』
宗一郎さんから紙とペンを渡され、俺は住所を書いた。
住所は正由と同じ。
続いて、その下に名前を書く。
花川麻由。
戸籍上には存在しない、女になった俺が名乗るためにつけた名前だ。
最後に携帯番号を書き込んでいく。
『これでいいですか?』
『ああ。ありがとう』
ペンを置いた、そのときだった。
『…………』
隣に座っていた麗奈が、俺の書いた紙をじっと見ている。
その手にはスマホが握られていた。
『麗奈ちゃん?』
『少々お待ちくださいませ』
『何してるの?』
『麻由さんのお電話番号を登録しておりますの』
麗奈は紙とスマホを交互に見ながら、俺の番号を入力していく。
『番号なら言ったのに』
『間違えてはいけませんもの』
最後の数字まで入力すると、麗奈は画面を確認して満足そうに頷いた。
『大切なお友達の番号ですから、しっかり登録しておきませんと』
『……友達?』
『ええ。違いますの?』
麗奈がきょとんとした顔でこちらを見る。
そういえば理事長との話の中で、麗奈は俺と友達になりたいと言っていた。
俺としても嫌な理由なんてない。
むしろ三十五歳になってから、こんなふうに面と向かって友達になりたいと言われるとは思ってもいなかった。
『いや。そうだね、友達だ』
『はい!』
麗奈の顔がぱっと明るくなった。
『では、なおさらきちんと登録しておかなければなりませんわ』
『じゃあ麗奈ちゃんの番号も教えてよ。俺……私も登録するから』
『もちろんですわ!』
麗奈から番号を教えてもらい、自分のスマホに打ち込む。
白川麗奈。
登録を終えると、麗奈がこちらの画面を覗き込んできた。
『ちゃんと登録してくださいましたのね』
『友達の番号だからね』
『ふふっ、そうですわね』
なんだか妙に嬉しそうだ。
『これで学校へ通い始める前でも、いつでもお話しできますわ』
『電話する気満々だね』
『お友達なのですから当然ですわ』
麗奈は満足そうに自分のスマホを眺めていた。
「……そうだった」
現在に戻り、テーブルに置いていたスマホを手に取る。
連絡先を開けば、『白川麗奈』の名前がしっかり入っていた。
「友達、か」
改めて見ると、なんとなくむず痒い。
だが、悪い気はしなかった。
麗奈とはまだ出会って三日しか経っていない。それでも一緒にいると話しやすいし、あの妙に世間知らずなところも見ていて面白い。
高校へ通うことになれば、麗奈とは毎日顔を合わせることになるのだろう。
「……ん?」
そこで、別のことに気づいた。
麗奈は俺の携帯番号を知っている。
そして今の俺は――。
「あー……あー」
試しに声を出す。
当然ながら聞こえてきたのは、いつもの三十五歳の男の声だった。
「…………」
スマホを見る。
麗奈が知っているのは麻由だ。
当然、麻由の声しか知らない。
もし今、麗奈から電話がかかってきたら。
麻由の携帯電話に、知らない男が出ることになる。
「……これ、電話出られないじゃん」
メッセージなら問題ない。
だが電話は無理だ。
変に出れば、麻由の正体以前に「誰、この男」となる。
「高校生活の心配する前に、もう問題出てきたよ……」
思っていた以上に、麻由として生活するのは大変らしい。
俺はスマホをテーブルへ戻し、ソファの背もたれに身体を預けた。
戸籍がない。
学校へ通う方法もない。
そう思って諦めていたのは、つい今朝のことだ。
それなのに今は、麗奈と友達になり、本当に白玲学園へ通う話まで進み始めている。
不安はある。
問題も山ほどある。
それでも、やめたいとは思わなかった。
「……楽しみなんだよな」
高校生活をもう一度。
考えていただけだったことが、少しずつ現実になり始めていた。




