第55話 花川麻由という存在【挿絵あり】
それから数日後。
俺は水瀬勇蔵館長と一緒に、市役所を訪れていた。
まず、結論から言おう。
花川麻由の戸籍が、作れることになった。
……いや、ちょっと待ってくれ。
つい先日まで、戸籍のない麻由がどうやって生きていくのか悩んでいたというのに、館長に相談した途端、あっさり手続きができると言われたのである。
しかも、必要なのは特別な面談だけらしい。
「本当にそんな簡単に作れるんですか?」
「もちろん、誰でも作れるわけじゃないよ。ボクたちのような体質を持つ人間にだけ認められている、特別な措置なんだ」
「……なるほど」
そう説明されても、まだ半信半疑だった。
何しろ、俺はすでに花川正由という戸籍を持っている。そこへ花川麻由という別人の戸籍を作るのだから、普通に考えれば無茶苦茶な話である。
「心配しなくても大丈夫。担当の人には事情を伝えてあるからね」
館長にそう言われ、俺たちは市役所の奥にある会議室へ案内された。
☆☆
「お待ちしておりました。花川正由さんですね?」
部屋に入ると、落ち着いた雰囲気をまとった女性が立ち上がった。
落ち着いた色のスーツを着た、いかにも仕事のできそうな雰囲気の人である。
「本日は特別措置に関する面談を担当いたします。よろしくお願いいたします」
「あっ、よろしくお願いします」
勧められた椅子に腰を下ろすと、女性は手元の書類を確認した。
「事情については、すでに伺っております。花川さんはアルコールの影響で、十代の女性の姿になるそうですね」
「……はい。普段は男なんですけど、お酒を飲むと女の子になるんです」
「承知しました。私とは反対ですね」
「……えっ?」
俺が顔を上げると、女性は何でもないことのように微笑んだ。
「私の場合は、アルコールを摂取すると男性の姿になるんです」
「……ええっ!?」
……この人も同類なのか!?
「同じような体質でも、現れ方には個人差があるんです。性別が変わる方もいれば、年齢や容姿が大きく変わる方もいます」
「……そうなんですね」
確かに、俺と館長と千尋先生だけでも、それぞれ事情が違っている。
「あの……こういう体質の人って、ほかにも結構いるんですか?」
「現在の調査では、突然この体質が現れる方は、およそ一万人に一人と推定されています」
「……一万人に一人!?」
……いや、結構いるじゃないか!
日本の人口を考えたら、相当な人数になるぞ!?
「原因はまだ解明されていませんが、親から子へ受け継がれる例も確認されています。また、身体の変化そのものによる健康上の害は、現在のところ確認されていません」
「……なるほど」
「ただし、社会的な混乱を避けるため、体質の存在は一般には公表していません。本人が望まない形で秘密を知られることも、防ぐ必要がありますから」
女性は穏やかな口調で続けた。
「そのため、希望する方には特別措置として、もう一つの姿で別人として生活するための戸籍を認めています」
……それだ!
俺がずっと欲しかったものは!
「じゃあ、本当に麻由の戸籍を作れるんですね!?」
「はい。ただし、その前にいくつか確認させてください」
女性は書類を一枚めくった。
「新しい戸籍を持つということは、単に身分証明書が増えるという意味ではありません。もう一人の人間として、独立した人生を歩むことになります」
「……独立した人生、ですか」
「はい。花川正由さんとしての人生と、花川麻由さんとしての人生。その両方に責任を持つことになりますが、よろしいですか?」
俺は少し考えてから頷いた。
「……はい。どちらも大切にしたいと思っています」
喫茶店で館長と千尋先生に話したときから、その気持ちは変わっていない。
「分かりました。それでは、もう一つ大切なことをお伝えします。この体質によって得られるもう一つの姿は、基本的に年を取りません」
「……えっ?」
「外見上の年齢は、その姿になった時点からほとんど変化しないんです。ただし、不老不死になるわけではありません」
俺は思わず館長を見た。
そういえば、以前もそんな話を聞いた覚えがある。
「……じゃあ、麻由はずっと十六歳くらいの姿なんですか?」
「そうなりますね」
……いや、待てよ。
それって、俺が六十歳になっても、麻由は女子高生くらいの見た目ってことだよな?
……同一人物なのに、親子どころか孫くらいの年齢差が生まれるじゃないか!
「ですから、寿命を迎えるまで、二つの人生を続けていく覚悟があるかどうかを確認しているんです」
「……分かりました」
正直、何十年も先のことなんて想像できない。
それでも、麻由として過ごした時間をなかったことにはしたくなかった。
麗奈や遥たちと出会い、学校へ通い、友達と笑い合った毎日。あれは間違いなく、俺自身の人生なのだから。
☆☆
「それから、アルコールについてもお話ししておきますね」
女性が次の書類を取り出した。
「花川さんは現在、お酒を飲むことで麻由さんの姿を維持しているんですよね?」
「……はい」
「ですが、毎日飲酒を続けるのは身体への負担が大きすぎます。そこで、こちらをご案内しています」
女性は机の上に、小さなケースを置いた。
中には錠剤が入っている。
「これは国の研究機関で開発された、体質を安定して切り替えるための薬です。一錠で十二時間、もう一つの姿を維持できます」
「…………えっ?」
俺はケースを見つめた。
「……十二時間?」
「はい。一日中その姿で過ごしたい場合は二錠です。ただし、一日に使用できるのは最大二錠までと定められています」
「……二錠で二十四時間?」
「そうです。一錠で半日、二錠で一日ですね」
「…………」
……ちょっと待て。
それ、もっと早く知りたかったんですけど!?
「じゃあ、毎朝ビールを飲まなくてもよかったんですか!?」
「もちろんです。この薬にもアルコール由来の成分は含まれていますが、通常の飲酒のような酔いを生じさせず、身体への負担を抑えるよう研究されています」
……何ということだ。
これまで俺が必死に計算していた、ビール一本で六時間三十五分、二本で九時間十八分という数字は、いったい何だったんだ!?
しかも、一錠で十二時間だと?
朝から学校へ通うだけなら、それで十分じゃないか!
俺はゆっくり館長を振り返った。
「……館長。これ、知ってました?」
「うん。もちろん知ってるよ」
「……知ってたんですか!?」
「そうだよ?」
「じゃあ、どうして宿泊学習のとき、ビールを飲んでたんですか!?」
館長は少しだけ不思議そうに首を傾げた。
「だって、ビールっておいしいじゃないか」
「…………」
……おい。
あのラフティングで一緒に気分が悪くなっていたのは、いったい何だったんだ!?
しかも、この人は俺に酔い止めまで渡してくれたのである。
……先にこの薬を教えてくれよ!
「ちなみに、千尋先生もこの薬を使ってるんですか?」
「もちろん使ってるよ。でも、あの子もお酒は好きだからね」
「…………」
……どいつもこいつも、アル中かよ!
いや、待て。俺も人のことは言えない。
そもそも最初にこの体質を知ったのだって、家で一人酒を楽しんでいたときだったし、麻由の姿になることを楽しみながら飲んでいた時期もある。
……うん。あまり偉そうなことは言えないな。
女性はそんな俺たちのやり取りを、少し呆れたような笑顔で眺めていた。
「とにかく、今後はなるべくこちらを利用してくださいね。飲酒には健康上の危険がありますから」
「……はい。気をつけます」
俺は素直に頷いた。
……しかし、一錠で十二時間、二錠で二十四時間か。
これまでの苦労が、たった一錠で解決してしまうとは。
学校で効果が切れないか心配したことも、宿泊学習で予備のビールを用意したことも、全部必要なかったわけだ。
……もっと早く館長に相談しておけばよかった!
☆☆
「さて、花川さん。ここまでのお話を踏まえて、もう一度確認させてください」
女性が書類を揃え、改めてこちらへ向き直った。
「花川麻由さんとして、新しい戸籍を取得することを希望されますか?」
俺は机の上の書類を見つめた。
花川麻由。
酒を飲んだ夜、鏡の前で何となくつけた名前。
最初は、ただの思いつきだった。
それがいつの間にか、学校へ通うための名前になり、友達から呼ばれる名前になり、今では俺にとって欠かせないものになっている。
「……はい。お願いします」
俺は顔を上げた。
「花川麻由としても、これから生きていきたいです」
女性は穏やかに微笑んだ。
「承知しました。それでは、手続きを進めましょう」
差し出された書類には、新しい戸籍に登録する名前を記入する欄があった。
俺はペンを取り、ゆっくりと文字を書き込んだ。
『花川麻由』
何度も使ってきた名前なのに、今日は少しだけ特別に見える。
こうして、必要な確認と手続きは驚くほどあっさり終わり、花川麻由は正式に一人の人間として戸籍を持つことになった。
「よかったね、正由君」
「……はい。本当にありがとうございます」
俺は館長に深く頭を下げた。
それにしても、面談の途中で白玲学園に通っていることを話したとき、担当の女性は少しも驚かなかった。
「ああ、白玲学園ですか。あちらの理事長先生も、事情はご存じだと思いますよ」
……えっ?
ということは、あの理事長。
最初から俺みたいな体質の人間がいることを知っていたのか!?
思い返せば、確かにおかしなことばかりだった。
戸籍も身分証もないと言っているのに、あっさり入学を認めてくれたし、必要書類を全部免除したうえに、特別編入制度まで作ってしまったのである。
……いや、いくら娘に甘い親馬鹿でも、普通そこまでするか?
もしかすると、最初から何か事情を察していたのかもしれない。
……あの人、ただの親馬鹿じゃなかったんだな。
まあ、親馬鹿なのは間違いないと思うけど。
俺は小さく笑いながら、手続きの終わった書類を見つめた。
花川正由、三十五歳。
そして、花川麻由、十六歳。
二つの名前と、二つの人生。
これから先、どんな毎日が待っているのかは分からない。
それでも、今なら胸を張って言える。
どちらも、間違いなく俺自身なのだと。




