第56話 それぞれの心の距離【挿絵あり】
花川麻由の戸籍が正式に登録されてから、さらに数日が経った。
朝の身支度を済ませ、机の上に置かれた小さなケースを開ける。
中に入っているのは、先日市役所で受け取った特別な錠剤だ。
一錠で十二時間、二錠なら二十四時間。これまでのように朝からビールを飲まなくても、麻由の姿で学校へ通えるようになった。
「……本当に便利だな……」
錠剤を一つ飲むと、しばらくして身体の感覚が変わり、鏡の中には長い黒髪の少女が現れた。
いつもと同じ花川麻由。けれど、今日は少し違っていた。
頭がすっきりしていて、気持ちも穏やかだ。
これまでは朝からビールを飲んでいたため、多少なりとも酔いが残っていた。気が大きくなったり、余計なことを口走ったりしたのも、その影響があったのかもしれない。
今はそんな浮ついた気分もなく、自然と落ち着いた気持ちになっている。
「……うん。今日も大丈夫そう」
鏡の前で髪を整え、制服に着替える。
こうして普通に学校へ通えることが、以前よりずっと嬉しく感じられた。
☆☆
「麻由さん、おはようございます!」
「おはよう、麗奈ちゃん」
教室へ入ると、麗奈がいつものように笑顔で迎えてくれた。
隣にいた遥も元気よく手を振っている。
「麻由ちゃん、おっはよー!あれ?今日、何か雰囲気違わない?」
「えっ、そうかな?」
「うん!何ていうか、いつもより落ち着いてる!」
「わたくしもそう思いますわ。今日の麻由さん、とても穏やかな雰囲気ですもの」
「そう言われると、ちょっと照れるね」
思わず頬をかくと、遥が不思議そうに顔を覗き込んできた。
「ほら!いつもなら絶対ツッコミ入れるところなのに!」
「もう、そんなに変かな?」
「変っていうか、新鮮!」
遥が楽しそうに笑い、麗奈もつられて微笑んだ。
そんな二人と話しているうちに、朝のホームルームが始まった。
そして、一時間目の授業が終わった休み時間のこと。
「カレーン!遊びに来たわよ!」
教室の入口から、聞き覚えのある声が響いた。
七原愛だった。
別のクラスにいるはずの七原が、わざわざこちらまでやってきたらしい。
その視線の先には、窓際の席で眠たそうにしている佐々木カレンがいた。
「……うるさい」
「相変わらず愛想ないわね!そういうところもカッコいいけど!」
「……意味分かんない」
七原は気にする様子もなく、佐々木の席へ近づいていく。
すると、近くにいた柴田萌も二人の会話に加わった。
「七原さん、今日もいらしたんですね」
「うん!最近、休み時間になるとついこっち来ちゃうのよね!」
いつの間にか、あの三人は随分仲良くなったようだ。
「七原さん、最近よくこっちのクラスに来るね」
「あ、花川!そうなのよ。最近カレンと話すのが楽しくてさ!」
「……私は別に」
「またまたー!カレンって、そういうところがいいのよね!」
七原は以前から不良に憧れているところがある。制服を少し着崩したり、強気な態度を取ったりするのも、その影響なのだろう。
「カレンってさ、周りに媚びない感じがカッコよくない?ちょっと不良っぽいっていうか!」
「……別に不良になってるつもりないんだけど」
「そこよ!自分では意識してないところが、またいいの!」
「……面倒くさ」
佐々木は心底面倒そうに答えた。
ただ、その様子を見ていると、七原のことを本気で嫌がっているわけではなさそうだった。
「でも、佐々木さんって優しいですよね」
柴田さんが控えめに口を開いた。
「宿泊学習のときも、私が困っていたら、さりげなく助けてくださって……」
「……大したことしてない」
「そんなことありません。私、とても嬉しかったです」
柴田さんは少し照れくさそうに微笑んだ。
どうやら、素っ気ない態度の裏にある佐々木の優しさに気づいているらしい。
そういえば、佐々木は以前、不登校気味だったと聞いている。最近は毎日のように学校へ来ているが、何か心境の変化でもあったのだろうか。
「佐々木さん、最近は毎日学校に来てるよね」
「……まあね」
「何かきっかけがあったの?」
そう尋ねると、佐々木は少し考えるように窓の外を眺めた。
「……せっかく通ってるんだし、休んでばっかりじゃもったいないから」
「そっか」
「……それに、最近は少し楽しいし」
佐々木がそう言いながら、七原と柴田さんをちらりと見た。
「えっ!?カレン、今楽しいって言った!?」
「……言ってない」
「言ったじゃん!ねえ柴田、聞いたよね!?」
「は、はい……聞こえました」
「……うるさい」
佐々木は顔を背けたが、その口元にはほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
いつも眠たそうで無愛想な佐々木が、こんな表情をするなんて。
少し意外だったが、何だか嬉しくなった。
「みんな、仲良くなったんだね」
「でしょ!あ、そうだ!」
七原が手を叩いた。
「もうすぐ期末テストあるじゃん!よかったら私が勉強教えてあげるわ!」
「……だる」
「即答!?」
「……七原、学年二位なんだから、自分の勉強してれば?」
「みんなで勉強したほうが楽しいでしょ!」
「あ、あの……私もご一緒していいですか?」
「もちろん!柴田も一緒にやろ!」
「……勝手に決めないで」
文句を言いながらも、佐々木は断ろうとはしなかった。
七原は嬉しそうに笑い、柴田さんもほっとしたように微笑んでいる。
そんな三人を眺めていると、佐々木がふとこちらへ顔を向けた。
「……そういえば、今日はお酒の臭いしないね」
「……えっ?」
思わず身体が小さく跳ねた。
「お、お酒……?」
「……うん。前は時々してた」
まさか、気づかれていたなんて。
「……宿泊学習のときも。あの女性スタッフの人からも、同じような臭いがしたし」
「そ、そうだったんだ……」
「……何か事情があるのかなって思ったから、聞かなかっただけ」
佐々木はそれ以上追及するつもりがないのか、いつもの眠たそうな表情に戻った。
けれど、その隣で七原が目を輝かせる。
「えっ!?花川って、やっぱ普段からお酒飲んでんの!?」
「い、いや、その……」
「マジで!?何かカッコいいじゃん!」
「カッコよくないよ!」
「えー!ちょっと大人っぽくて憧れるんだけど!」
「……七原、それは普通にダメなやつ」
佐々木が冷静に突っ込む。
「分かってるって!でも、ちょっと憧れるじゃん?」
「……分かんない」
七原は楽しそうに笑っていたが、こちらは気が気ではなかった。
佐々木は以前から気づいていたのに、事情があると思って黙っていてくれたらしい。
その優しさが、今はありがたかった。
「……佐々木さん、ありがとう」
「……別に。何のことか知らないし」
そう言って、佐々木は窓の外へ視線を向けた。
その横顔は相変わらず素っ気ない。
けれど、少しだけ優しく見えた。
☆☆
放課後。
遥と一緒に都市伝説研究部の部室へ向かうと、いつもより少し寂しい雰囲気が漂っていた。
もうすぐ期末テストが始まる。
そして、一学期が終われば三年生の先輩たちは引退する予定だった。
高瀬先輩、小野寺先輩、藤崎先輩。
入部してからそれほど長い時間が経ったわけではないが、三人にはいろいろとお世話になった。
だからこそ、寂しい気持ちはよく分かる。
「うわあああん!先輩たち、引退しないでよー!」
……遥ちゃんは、少し大げさかもしれない。
遥は机に突っ伏し、まるで小さな子供のように駄々をこねていた。
「遥、そんなに泣かなくても、学校にはいるんだから」
高瀬先輩が苦笑する。
「でも部活には来ないんでしょ!?」
「受験勉強があるからね」
「そんなぁ!」
小野寺先輩と藤崎先輩も、そんな遥を見て笑っていた。
「大丈夫だよ。遥ちゃんがいれば、これからも賑やかな部活になるって」
「そうそう。それに、麻由ちゃんもいるんだし」
「……私?」
突然名前を呼ばれ、思わず顔を上げた。
高瀬先輩が優しく微笑む。
「麻由ちゃん、これからも遥のことをよろしくね。一緒に都市伝説研究部を盛り上げてくれると嬉しいな」
「はい。私にできることなら、もちろん」
「ちょっと待って!何で私だけ子供みたいな扱いなの!?」
「だって、さっきから駄々こねてるじゃない」
「うぐっ……!」
小野寺先輩の一言に、遥が言葉を詰まらせる。
思わず笑ってしまうと、遥は勢いよく顔を上げた。
「でも、そうだよね!」
「……え?」
「麻由ちゃんがいるもんね!」
次の瞬間、遥は両手を握ってきた。
「麻由ちゃんと一緒なら、私、これからも頑張れそう!」
「は、遥ちゃん?」
「だって、麻由ちゃんと都市伝説を調べたり、いろんなところへ行ったりするの、すっごく楽しいんだもん!」
遥の顔がすぐ近くにある。
その勢いに少し驚きながらも、自然と笑みがこぼれた。
「私も楽しいよ。これからも一緒に頑張ろうね」
「ほんと!?やったー!」
遥は満面の笑みを浮かべた。
その様子を見て、先輩たちも安心したように微笑んでいる。
「これなら、私たちが引退しても大丈夫そうだね」
「二人とも、仲良く頑張ってね」
「うん!」
遥が元気よく返事をする。
さっきまで泣いていたのが嘘のようだった。
その後は先輩たちと期末テストの話をしたり、これまで調べた都市伝説を振り返ったりして過ごした。
気づけば、窓の外には夕方の柔らかな光が差し込んでいた。
そろそろ帰ろうかという頃、遥が隣へやってくる。
「ねえ、麻由ちゃん」
「ん?」
「私、麻由ちゃんがこの部活に入ってくれて、本当によかったと思ってるよ」
「……どうしたの、急に?」
「えへへ。何となく言いたくなっただけ」
遥は少し照れくさそうに笑った。
普段は明るくて、思ったことをすぐ口にする子なのに、こういうときだけ妙に恥ずかしがる。
「私も、遥ちゃんに誘ってもらえてよかったよ」
「……ほんと?」
「うん。ありがとう」
そう答えると、遥は一瞬驚いたような顔をしたあと、嬉しそうに微笑んだ。
そして、こちらにだけ聞こえるくらいの小さな声で呟いた。
「……好きだよ、麻由ちゃん」
「……え?」
聞き返したときには、遥はもういつもの笑顔に戻っていた。
「さーて!明日から期末テストの勉強も頑張らなきゃね!」
「……うん」
以前、遥は麗奈とは少し違う意味で好きかもしれない、と言っていた。
あのときは冗談のように笑っていたけれど、今の言葉には、どこか真剣な響きがあった。
どう受け止めればいいのか分からず、少しだけ頬が熱くなる。
けれど、遥と一緒に過ごす時間が楽しいのは本当だった。
今は、その気持ちを大切にしたい。
鞄を手に取り、遥と並んで部室をあとにする。
廊下には、いつものように遥の明るい声が響いていた。
この学校へ来てから、本当にたくさんの人と出会った。
不良に憧れる優等生。
無愛想だけれど、誰よりも周りをよく見ている少女。
その少女を慕う、少し内気な眼鏡の女の子。
そして、いつも元気で、少しだけ特別な好意を向けてくれる友達。
みんな、花川麻由として出会った大切な人たちだ。




