第54話 どちらも、かけがえのない自分【挿絵あり】
……どうしてこうなった。
俺は喫茶店のテーブルを挟んで、目の前に座る二人を見つめていた。
一人は、宿泊学習で知り合った水瀬勇蔵館長。そしてもう一人は、免許センターで見かけた、小学生くらいの容姿をした黒髪の少女である。
あのあと、電話越しに目が合った館長は、すぐに俺が誰なのか理解したらしい。せっかくだから少し話をしようと誘われ、近くの喫茶店へ移動することになったのだ。
テーブルには、俺と少女が注文したアイスコーヒー、そして館長のホットコーヒーが置かれている。
……どう見ても、おじいちゃんと孫、それから知り合いのおっさんという組み合わせである。
「…………」
「…………」
しばらく、何とも言えない沈黙が続いた。
そんな空気を破ったのは、館長だった。
「さて……キミが麻由ちゃん……いや、今は花川正由君と言った方がいいね」
「……はい」
俺が頷くと、少女が何とも言えない表情を浮かべた。驚いているような、納得しているような、それでいて少し呆れているような顔である。
「それで、正由君。今日はどうしてボクに電話を?」
「あ、いや……免許センターでその子を見かけまして。それで、館長が迎えに来たものですから、ちょっと気になって……」
「なるほどね」
館長は納得したように頷いた。
「……あの、お二人はどういう関係なんですか?」
俺が尋ねると、館長は少女と顔を見合わせた。
「今は、ボクの孫だよ」
「……今は?」
何だ、その妙な言い方。
普通、孫は孫だろ。
「そうだよ。ボクが女性の姿になったときは、この子はボクの娘なんだ」
「…………」
……ああ、そういえば宿泊学習の夜に聞いていたな。
館長は女性の姿で結婚し、子供まで産んだことがあると。
「……なるほど。いや、ややこしいですね!?」
「ふふっ。よく言われるよ」
男性の姿では祖父、女性の姿では母親。しかも、見た目はどう考えても娘の方が幼い。
……何だ、この家族構成。
そういえば、もう一つ気になることがある。
「でも、館長も娘さんも水瀬って名字なんですね。結婚したら、名字が変わったりしないんですか?」
「ああ、ボクの夫は婿養子なんだ。だから、女性のボクも水瀬のままだよ」
「……なるほど」
名字まで変わっていたら、ますますややこしいところだった。
……いや、もう十分ややこしいけどな!
そんなことを考えていたとき、ふと一つの名前が頭に浮かんだ。
「……えっと、もしかして水瀬先生ですよね?」
少女はしばらく俺を見つめていたが、やがて観念したように肩を落とした。
「……もう、隠すことはできなさそうね」
「……やっぱり!」
「ええ。水瀬千尋よ。まさか、こんな形で正体を知られるとは思わなかったわ」
……本当に水瀬先生だったのか。
以前俺を診察してくれた知的で落ち着いた美人女医が、今は小学生くらいの少女としてアイスコーヒーを飲んでいる。
同じ人間だと分かっていても、なかなか頭が追いつかない。
「おじいちゃんから話は聞いていたけれど……やっぱり花川さんは男性だったのね」
「……す、すみません」
「どうして謝るの?私だって、自分のことを隠していたんだもの」
千尋先生は穏やかに微笑んだ。
「それに、前にも言ったでしょう?お互いが話せると思ったときでいいって」
「……そうでしたね」
「ふふっ。ようやく、お互いに話せるようになったということね」
以前、水瀬先生の家で話したとき、俺は先生の秘密を知りたがっていた。しかし、自分の秘密を明かす勇気はなく、結局何も聞けなかったのである。
それが今、こんな形でお互いの正体を知ることになるとは。
……人生、何があるか分からないもんだな。
☆☆
「それにしても……先生も、俺たちと同じ体質なんですか?」
「似ているけれど、少し違うわね。花川さんもおじいちゃんも、元々は男性でしょう?」
「……はい」
「でも、私は元々女性なの。生まれたときからね」
千尋先生は自分の身体を見下ろし、小さくため息をついた。
「私は二十歳なんだけど、このとおり、ずいぶん幼く見えるでしょう?」
「……まあ、そうですね」
免許センターで見かけたときも、最初は小学生だと思ってしまったくらいだ。
「昔から実年齢より幼く見られることが多くてね。二十歳になった今でも、子供扱いされてばかりなのよ」
千尋先生は少し不満そうに頬を膨らませた。
「買い物に行けば保護者を探されるし、一人で出かければ迷子だと思われるし……。今日の免許更新だって、係員の人たちに何度も確認されたわ」
「……ああ」
さっきの受付での騒ぎは、そういうことだったのか。
「だから、私はこの姿があまり好きじゃないの。大人の女性の姿なら、みんな私をちゃんと大人として扱ってくれるでしょう?」
「……なるほど」
「そして、その姿になるために必要なのが、アルコールというわけ」
「……やっぱり!」
つまり、千尋先生の場合は酒を飲むと子供のような姿から大人の女性になるのか。
俺は男から女子高生で、館長は男から若い女性。そして千尋先生は、幼い少女のような姿から大人の女性。
……同じような体質でも、ずいぶん違うんだな。
「でも、先生って館長の娘さんなんですよね?ということは……その体質って、遺伝するんですか?」
俺が尋ねると、館長は少し考え込んだ。
「どうだろうね。ボクも詳しいことは分からないんだ。ただ、千尋が成長するにつれて、ボクと似た体質を持っていることが分かったのは事実だよ」
「……そうなんですね」
少なくとも、親子で同じような体質を持っている例があるということか。
そんなことを考えていた俺だったが、そこで重大な疑問が浮かんだ。
「……あれ?水瀬先生って、確かお医者さんですよね?」
「ええ、そうよ」
「でも……二十歳なんですよね?」
「そうね」
「……二十歳で医師免許って、持てるんですか?」
千尋先生は何でもないことのように答えた。
「この私は持っていないわよ。大人の私は持っているけれど」
「…………はい?」
……ちょっと待て。
何を言ってるんだ、この人。
「いやいや!同じ人間ですよね!?」
「身体は同じよ」
「じゃあ、どういうことですか!?」
千尋先生は館長と顔を見合わせ、少し困ったように笑った。
「……おじいちゃん。やっぱり、そこから説明した方がよさそうね」
「そうだね」
館長はコーヒーカップを置くと、俺へ向き直った。
「正由君。実はね、ボクたちはそれぞれ、二つの戸籍を持っているんだ」
「……戸籍?」
「そう。男性のボクと、女性のボク。それぞれ別人として登録されているんだよ」
「……ええっ!?」
思わず声が大きくなり、俺は慌てて周囲を見回した。
「ちょ、ちょっと待ってください!そんなことできるんですか!?」
「普通はできないよ」
館長はあっさり答えた。
……ですよね!?
「もちろん、正規の制度で認められているわけじゃない。ボクたちの場合は、いろいろと特殊な事情があってね」
「……特殊な事情?」
「そこは、あとで詳しく説明するよ」
……いやいやいや。
さらっと、とんでもないことを言ってませんか!?
俺なんて、麻由の身分証がないせいで、これまでどれだけ苦労してきたと思ってるんだ。
「じゃあ、水瀬先生も……?」
「ええ。今の私は二十歳の水瀬千尋。そして、大人の私は三十歳の別人として登録されているわ。医師免許を持っているのも、そちらの私よ」
「……三十歳!?」
同じ人間なのに、片方は二十歳で、もう片方は三十歳。しかも、片方だけ医師免許を持っている。
……戸籍って、そんな着せ替え感覚で使い分けていいものだったっけ!?
「……ちなみに、館長も?」
「うん。男性のボクと女性のボク、それぞれに名前も戸籍もあるよ」
館長は穏やかに頷いた。
「ただね、正由君。ボクたちは単に身分を使い分けているつもりじゃないんだ」
「……えっ?」
「ボクは男性としての人生も、女性としての人生も、どちらも大切にしている。千尋も同じだよ」
千尋先生も静かに頷いた。
「私はこの幼い姿があまり好きではないけれど……だからといって、今の私をなかったことにしたいわけじゃないの。大人の私も、今の私も、どちらも私なのよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は何も言えなくなった。
……どちらも、自分。
俺はこれまで、花川正由と花川麻由を、どこかで別々に考えていた。
正由が本当の俺で、麻由は酒を飲んでいる間だけの仮の姿。そんなふうに思っていたのである。
しかし、最近はどうだろう。
麻由として学校へ通い、麗奈や遥たちと笑い合い、都市伝説研究部にも入った。宿泊学習では、忘れられない思い出までできた。
それらは全部、俺が実際に経験したことだ。
麻由として過ごした時間だって、間違いなく俺の人生なのである。
「……そっか」
俺は小さく呟いた。
「……俺も、二人として生きていけるんですかね」
館長は優しく微笑んだ。
「もちろん。キミがそう望むならね」
「……でも、俺には麻由の戸籍も身分証もありませんし……」
「それは、これから考えていけばいいことだよ。大切なのは、キミ自身がどうしたいかじゃないかな」
千尋先生も、こちらを見つめていた。
「花川さん。あなた、今の学校生活は楽しい?」
「……はい。すごく、楽しいです」
それだけは、迷わず答えられた。
「ふふっ。それなら、これからも大切にしていきたいわね」
俺はゆっくり頷いた。
……そうだ。
俺は正由としての人生を捨てたいわけじゃない。でも、麻由として過ごしてきた時間も、もう手放したくない。
麗奈や遥たちと過ごす毎日も、これから先の思い出も、全部大切にしたい。
「……俺、決めました」
俺は顔を上げた。
「花川正由としても、花川麻由としても、これから生きていきたいです」
館長は嬉しそうに微笑んだ。
「うん。それでいいと思うよ」
千尋先生も、穏やかに頷いてくれた。
「ふふっ。私たちと同じね」
「……はい!」
もちろん、これですべての問題が解決したわけではない。
麻由には戸籍もないし、酒を飲まなければ姿を保てないという問題だって残っている。
それでも、今までとは少しだけ気持ちが違っていた。
俺はもう、麻由としての人生を、ただの仮の生活だとは思わない。
花川正由も、花川麻由も、どちらも俺なのだから。
……まあ、それはそれとして。
「……あの、館長」
「何かな?」
「さっきの戸籍の話なんですけど……どうやって二つも作ったんですか?」
館長はにっこり微笑んだ。
「うん。そのことも、ちゃんと説明するよ」
「……本当ですか?」
「もちろん。それに、正由君にとっても無関係な話じゃないと思うんだ」
「……俺にも、ですか?」
「そうだよ。キミも麻由ちゃんとしての人生を大切にしたいんだろう?」
「……はい」
何しろ、麻由の戸籍がないという問題は、これまでずっと俺の頭を悩ませてきたのだ。
もし、その解決につながる話が聞けるのなら、ぜひとも詳しく知りたい。
……まさか、免許更新に来た帰りに、こんな話を聞くことになるとはな。
俺の二度目の人生に、ようやく大きな転機が訪れようとしているのかもしれない。




