第50話 ラフティング、始まる前からもう限界です!【挿絵あり】
ラフティングを選んでしまったことを後悔しながら、俺たちは先生の案内で更衣室へ向かっていた。
「楽しみだねー!麻由ちゃん!」
「う、うん!そうだね!」
「わたくし、川下りは初めてですので、少し緊張しておりますわ!」
遥と麗奈は朝からずっと楽しそうだが、俺はそれどころではない。
何しろ、昨日から酒を飲み続けているのである。今朝も追加したばかりだし、胃の調子だって万全とは言い難い。
そんな状態で川下りなんて、本当に大丈夫なのだろうか。
「それでは皆さん、こちらでウェットスーツに着替えてください!」
更衣室には、黒を基調とした上下に分かれたウェットスーツが用意されていた。
「わあ!これがウェットスーツなんだ!」
「思っていたより、しっかりした生地ですのね!」
遥と麗奈が興味深そうに眺める中、俺も自分のサイズのものを受け取った。
……うん?何だか、ずいぶん細くないか?
これ、本当に身体が入るのか?
そんな不安を抱きながら着替え始めたのだが、予想以上に苦戦することになった。
「……うっ、よいしょ……!」
何だこれ!?全然着られないじゃないか!
いや、正確には伸びるのだが、身体にぴったり密着するように作られているせいで、妙に力が必要なのである。
どうにか上下とも着終わった頃には、すっかり疲れてしまっていた。
「はあ……やっと着られた……」
腕を曲げたり伸ばしたりしてみるが、どうにも落ち着かない。全身をぎゅっと締め付けられているような感覚がある。
「麻由ちゃーん!着られた?」
「あっ、うん!何とか!」
振り返ると、遥もウェットスーツ姿になっていた。
「いやー、これ着るの大変だね!」
「本当だよ!何か窮屈だし……」
「あの、麻由さん……」
隣にいた麗奈が、少し恥ずかしそうに声をかけてきた。
「この服装、少々恥ずかしくありませんこと?」
「……ああ」
改めて自分の姿を見下ろすと、その理由がよく分かった。
ウェットスーツは身体にぴったり密着しているため、普段の制服や体操服とは違い、身体の輪郭がはっきり分かるのである。
別に肌が露出しているわけではない。それなのに、妙に恥ずかしい。
「……確かに、身体のラインがくっきり分かっちゃうね」
「そ、そうですわよね!」
「私もちょっと恥ずかしいかも!」
遥まで照れくさそうに笑った。
周囲の女子生徒たちも似たような反応で、お互いの格好を確認しては恥ずかしそうにしている。
俺も鏡を見てみたが、そこには普段とずいぶん雰囲気の違う、スポーティーな黒髪の少女が映っていた。
「まあ!麻由さん、とてもお似合いですわ!」
「えっ!?そ、そうかな?」
「はい!スポーツがお得意な方のように見えます!」
……見た目だけならな。
実際には、昨日の大浴場でのぼせたうえに、今朝から胃の心配ばかりしている人間である。
そんなことを考えながら、俺たちは更衣室を出た。
☆☆
広場には、すでに着替えを終えた男子生徒たちが集まっていた。
俺たちが姿を見せると、何人かがこちらを振り返った。
「……おおっ」
「……何か、いつもと雰囲気違うな」
……ん?
何だ、その反応。
男子たちは一瞬こちらに見入ったあと、慌てて視線を逸らした。しかし、少しするとまたちらちらと見てくる。
「……ちょっと、見られてない?」
遥が小声で呟いた。
「……うん。何か、すごく見られてる気がする」
「ま、まあ……!」
麗奈は頬を赤くし、落ち着かなさそうにしている。ほかの女子たちも同様で、何となく身を寄せ合っていた。
……いやいや、そんなに珍しいか?
確かに普段とは違う格好だけどさ。
……そんな需要あんのか?
ウェットスーツだぞ?川で着るための装備だぞ?
俺が男子たちの反応に呆れていると、広場に明るい女性の声が響いた。
「はーい!皆さん、お待たせしました!」
建物から現れたのは、黒を基調としたウェットスーツを着た、長い髪の綺麗な女性だった。
「……おおっ!」
「……めっちゃ綺麗な人じゃん」
男子たちから、先ほどより大きな声が漏れる。
……おいおい、今度はそっちかよ!
しかし、俺はそれどころではなかった。
……館長!?
そこにいたのは、昨夜の広場で俺の秘密を見抜いた、あの女性スタッフだったのである。
「皆さん、おはようございます!本日のラフティングを担当します。よろしくお願いしますね!」
館長はにこやかに挨拶した。
「私はインストラクターの資格を持っていますので、安全についてはしっかり説明させてもらいます。皆さんも、説明をよく聞いてくださいね」
……へえ。あの館長、インストラクターの資格まで持ってるのか。
「ねえねえ、麻由ちゃん!すっごく綺麗な人だね!」
「ふふっ。本当にお美しい方ですわ!」
遥と麗奈が嬉しそうに話しかけてきた。
「それに、とても優しそうですわね。あのようなお姉様がご担当なら、安心して参加できそうですわ!」
「そうそう!怖い人じゃなくてよかったね!」
「……あ、あはは……」
俺は曖昧に笑った。
……いや、優しい人なのは間違いない。
昨夜だって、泣き出した俺にハンカチを貸してくれたし、秘密を守るとも約束してくれた。
ただ、一つだけ気になることがある。
……あの館長も、酒が入ってるんだよな。
昨夜、俺の目の前でビールを飲んで女性の姿になったのだから、今もその効果が続いているのだろう。
……大丈夫なのか?
資格があるのは分かったけど、酒が入った状態で川下りの指導をするのは、さすがに心配なんだけど!?
そんなことを考えていると、不意に館長と目が合った。
「…………!」
館長は一瞬だけ目を丸くしたあと、ふっと優しく微笑んだ。
俺もぎこちなく会釈すると、館長は小さく頷き、何事もなかったように生徒たちへ向き直った。
……うん。やっぱり、この人は神経が太い。
☆☆
「それでは皆さん、ライフジャケットとヘルメットを装着してください!」
館長の案内で装備を受け取り、スタッフにサイズや装着状態を確認してもらった。
「おおっ!何か本格的になってきた!」
「いよいよ川下りという感じがいたしますわね!」
遥と麗奈は相変わらず楽しそうである。
一方、俺はライフジャケットを着た瞬間、別の感想が浮かんでいた。
……さらに窮屈になったんですけど。
ウェットスーツだけでも締め付けられている感じがするのに、その上からライフジャケットまで着るのである。
もちろん、安全のために必要なのは分かっている。
分かっているんだけど、何だか全身を装備で固められている気分だった。
その後、ヘルメットも装着し、俺たちは施設の駐車場に停まっていたバスへ案内された。
「これから川の出発地点まで移動します!」
……えっ?まだ移動するの?
てっきり施設のすぐ近くに川があるのかと思っていた。
俺たちはバスに乗り込み、山道を進み始めた。
ところが、十分ほど経った頃には、早くも自分の考えが甘かったことを思い知らされていた。
「わあー!景色すごいね!」
「本当ですわ!山がとても近くに見えます!」
窓の外には綺麗な山々が広がっている。
……うん。景色は確かに綺麗だ。
問題は、その道である。
右へ曲がったかと思えば左へ曲がり、少し進むとまた急なカーブが現れる。
そのたびにバスが揺れ、俺の胃の中まで一緒に揺さぶられているような気がした。
「……うっ」
……ちょっと待て。
まだ川に着いてないんですけど。
「麻由ちゃん?大丈夫?」
「あ、あはは……ちょっと、バスに酔ったかも……」
「えっ!?まだ着いてないよ!?」
……知ってるよ!それが一番困ってるんだよ!
俺は何とか笑顔を作ったものの、次のカーブであっさり崩れてしまった。
……もうやばいんですけど!
ラフティングって、川に着いてから始まるんだよな!?
俺、まだボートどころか川すら見てないんだけど!?
そんなとき、ふと前方に座っている館長の姿が目に入った。
……ん?
何だか、様子がおかしくないか?
館長は座席の背もたれに片手を添え、妙に静かに座っていた。先ほどまでの穏やかな笑顔も消え、少し顔色が悪いように見える。
俺がじっと見ていると、館長がゆっくり振り返った。
「…………」
「…………」
目が合った瞬間、館長は何とも言えない表情で微笑んだ。
……いや、その笑顔、無理してません?
俺が思わず胃のあたりを押さえると、館長もほとんど同じタイミングで、お腹に手を添えた。
……おい。
もしかして、あんたもか!?
館長は困ったように眉を下げ、小さく肩をすくめた。
……やっぱりかよ!
同じ体質の人に出会えたのは嬉しかったし、秘密を理解してくれる相手がいるのも心強かった。
でも、こんなところまで同類である必要はないだろ!
「麻由ちゃーん!もうすぐ着くって!」
「ふふっ。いよいよですわね!」
遥と麗奈の弾んだ声を聞きながら、俺はもう一度館長と目を合わせた。
館長もこちらを見て、力なく微笑んでいる。
……頼むから。
インストラクターと参加者が二人揃って、川に着く前にダウンするなんてことだけはやめてくれよ!?
そんな俺たちの願いを知ってか知らずか、バスはさらに曲がりくねった山道へと進んでいった。
……ラフティングって、こんなに過酷な競技だったっけ!?
まだ始まってもないけど……。




