第49話 友達の誘いを断れず、川下りに挑戦することになりました【挿絵あり】
翌朝。
昨夜はあれほど心配していたというのに、俺はいつの間にか眠ってしまったらしい。
館長と別れて部屋へ戻ったあと、布団の中で何度も考えた。朝まで麻由の姿でいられるだろうか。もし途中で酒の効果が切れたら、隣で眠っている麗奈たちはどうなるのか。
そんな不安で頭がいっぱいだったはずなのに、気がつけば朝である。
カーテン越しに差し込む朝日を感じながら、俺はぼんやりと意識を取り戻した。
……朝か。
そう思った瞬間、昨夜の心配が一気によみがえった。
やばい。俺、男に戻ってないよな?
慌てて身体を確かめようとしたところで、ふと視線を感じた。
ゆっくり目を開けると、すぐ隣の布団から遥がこちらをじっと見つめていた。頬杖をつき、なぜか嬉しそうに微笑んでいる。
「…………」
「…………」
……何だ?
どうしてそんな顔で俺を見ているんだ?
俺は不思議に思いながら、反対側へ寝返りを打った。
すると今度は、麗奈と目が合った。
こちらも満面の笑みを浮かべ、何やら楽しそうに俺の顔を眺めている。
「……な、何?二人とも……」
二人は顔を見合わせ、くすくすと笑った。
……まさか。
俺は嫌な予感に襲われた。
もしや、男に戻っているのでは?
だとしたら、二人は何で笑っているんだ?いや、笑っている場合じゃないだろ!知らない三十五歳の男が隣で寝ていたら、普通は悲鳴を上げるはずだ!
「……っ!」
俺は勢いよく布団から跳ね起きた。
枕元のスマホをつかみ、画面を暗くしたまま自分の顔を映す。
そこには、寝癖のついた長い黒髪の少女がいた。
頬に触れてみる。髪を引っ張ってみる。念のため、もう一度画面を覗き込む。
……麻由だ。
間違いなく、いつもの麻由の姿だった。
「よ、よかったぁ……」
俺は大きく息を吐き、そのまま布団の上にへたり込んだ。
何とか朝まで持ちこたえたらしい。昨夜はあれだけ心配していたのに、結局ぐっすり眠ってしまったというのだから、我ながら呆れるしかない。
「おはよ、麻由ちゃん!」
「おはようございます、麻由さん!」
ようやく二人から朝の挨拶が飛んできた。
「……お、おはよう。って、二人とも何でずっと見てたの?」
「えへへ!麻由ちゃんの寝顔が可愛かったから!」
「わたくしも、つい見入ってしまいましたわ」
……寝顔?
何だ、そういうことか。
いやいや、ちょっと待て。
それはそれとして、何で二人して俺の寝顔を観察してるんだ!?
しかも、もし本当に男に戻っていたら、目を覚ました二人と視線が合った瞬間に一撃で終わっていたところである。
想像しただけで背筋が寒くなった。
「もー!もう少し麻由ちゃんの寝顔、眺めてたかったのに!」
「本当ですわ。とても可愛らしかったんですもの」
「……二人とも、朝から何してるの……」
「そうだ!麻由ちゃん、これ見て!」
遥が嬉しそうにスマホを差し出した。
画面に映っていたのは、布団の中で眠っている麻由の写真だった。枕の上に長い黒髪が広がり、朝日を浴びた顔には穏やかな表情が浮かんでいる。
「……えっ!?ちょっと、これ!」
「可愛いでしょ!さっき撮ったんだ!」
「勝手に撮っちゃ駄目でしょ!」
「だって、すっごく可愛かったんだもん!」
……いや、だからって寝顔を撮るなよ!
俺は抗議しながらも、もう一度画面を覗き込んだ。
……何だこれ。
天使かよ。
いや、俺なんだけど。
自分の寝顔を見てこんな感想が出てくるなんて、三十五年生きてきて初めてだ。普段から鏡を見るたびに可愛いとは思っていたが、寝ている姿までこんなに可愛いとは思わなかった。
……って、感心してる場合じゃない!
「と、とにかく消して!」
「ええー!もったいないよぉ!」
「駄目!寝てる間に勝手に撮ったんだから!」
「むう……分かったよぉ……」
遥は渋々スマホを操作し、写真を削除してくれた。
これでひと安心かと思った、そのとき。
「……まあ、クラウドにバックアップあるから大丈夫か」
「全然消すつもりないじゃん!」
「えへへ!聞こえちゃった?」
「聞こえるように言ったでしょ!」
遥は悪びれた様子もなく笑っている。
……こいつ、絶対に写真を手放す気がないな!
「ふふっ。お二人とも、朝から仲がよろしいですわね!」
「麗奈ちゃんも笑ってないで!」
「まあ!わたくしも麻由さんの寝顔を撮っておけばよかったですわ」
「麗奈ちゃんまで!?」
朝から二人に振り回され、俺は思わず頭を抱えた。
すると、隣の布団から小さな声が聞こえてきた。
「……あ、あの……おはようございます……」
柴田が眠そうに身体を起こし、眼鏡をかけ直していた。
「あっ、おはよう、柴田さん!起こしちゃった?」
「い、いえ……ちょうど起きるところでしたから……」
柴田は控えめに微笑んだが、その向こうでは佐々木が布団を頭まで引き上げている。
「……朝からうるさいな」
「あっ、ごめん!佐々木さん!」
「……もう少し静かにしてくれる?」
眠そうな声が布団の中から聞こえてきた。
……すみません。
どうやら俺たちの騒ぎで起こしてしまったらしい。
佐々木はしばらく布団に潜っていたが、やがてゆっくりと身体を起こし、眠そうに目をこすった。
「……ねむ」
……相変わらず朝は弱そうだなあ。
もっとも、原因は俺たちなのだから文句は言えない。
とにかく、全員が起きたところで身支度を始めることになった。
俺も布団を片づけながら、改めて自分の身体を確認する。
……よし。まだ大丈夫だ。
昨夜の心配は何だったのかと思うほど、今のところ麻由の姿に変化はない。
ただ、ここで安心するわけにはいかなかった。
今日はまだ宿泊学習の二日目なのである。帰宅するまで、この姿を保たなければならないのだ。
☆☆
みんなが着替えや荷物の整理を始めたところで、俺はリュックの奥から一本の缶を取り出した。
エナジードリンクの缶に入れてある、昨夜の飲み残しのビールである。
正直、もう飲みたくなかった。
昨日の夕方に飲んだときも相当まずかったし、消灯後に追加で飲んだときには気分まで悪くなった。しかも、昨夜は館長との話に夢中になっていたせいで、結局ほとんど休めていない。
それでも、酒の効果がいつ切れるか分からない以上、何もしないわけにはいかなかった。
俺は周囲の様子をうかがいながら、そっと缶に口をつけた。
「……うっ」
……まずい。
昨日よりさらにまずくなっている気がする。
炭酸は完全に抜け、ぬるい液体が喉を通るたびに、胃のあたりが妙に重くなった。
……朝から何やってんだ、俺。
普通の高校生なら、起きたら顔を洗って朝食を食べるだけでいい。それなのに俺は、女子高生の姿を保つために、こんなものを飲まなければならないのである。
何とも情けない話だ。
どうにか飲み終えたところで、昨夜の館長の言葉を思い出した。
『お酒の匂いって、案外周りの人には分かるものだからね』
……そうだった。
特にこの部屋には、佐々木カレンという恐ろしい嗅覚の持ち主がいる。
昨日だって、ほんの一瞬すれ違った女性スタッフの酒の匂いに気づいていた。俺のことまで嗅ぎ分けられたら、たまったものではない。
俺は慌ててリュックからブレスケアを取り出した。
これで完全にごまかせるかは分からないが、何もしないよりはましだろう。
「……麻由ちゃん?」
「ひゃっ!?」
突然、背後から遥に声をかけられた。
「朝からエナドリ飲んでるの?」
「あ、あはは……ちょっと眠気覚ましに……」
「昨日も飲んでたよね。そんなに眠いの?」
「う、うん。昨日、あんまり眠れなくて……」
「そっかー。まあ、昨日はいろいろあったもんね!」
……本当にいろいろありました。
遥はそれ以上気にする様子もなく、麗奈との会話に戻っていった。
俺はこっそり息を吐き、缶を片づける。
とりあえず、これでしばらくは大丈夫だろう。
あとは無事に帰るだけ……。
……ではない。
そうだった。今日はまだ二日目の行事が残っているのである。
☆☆
朝食は一階の食堂で、ほかの班の生徒たちと一緒に食べることになった。
焼き魚に卵焼き、味噌汁、漬物。朝から食欲をそそる料理が並び、どれも美味しそうだった。
「まあ!美味しそうですわね!」
「お腹すいたー!」
麗奈と遥が嬉しそうに声を上げた。
俺も席に着き、温かい味噌汁を一口飲む。
……ああ、美味しい。
さっきまで口の中に残っていた嫌な味が、ようやく薄れていく気がした。
「今日のアクティビティ、楽しみだね!」
遥がご飯を食べながら声を弾ませた。
「そうですわね!わたくし、どれにしようか迷っておりますの!」
麗奈も楽しそうに頷いている。
そういえば、二日目は選択制の体験活動があるんだったな。
学校でも事前に説明されていたし、しおりにも載っていた。昨日はいろいろありすぎて、今朝は帰宅のことばかり考えていたが、宿泊学習なのだから二日目にもしっかり行事がある。
しかも、今日は班ごとではなく、個人で好きな活動を選べるらしい。
……まあ、俺は無難なやつにしておこう。
今の体調で激しく動き回るのは、できれば避けたいところだ。
☆☆
朝食を終える頃、永井先生が食堂の前に立った。
「はーい、皆さん!おはようございます!」
「おはようございまーす!」
「それでは、二日目のアクティビティについて説明しますね!学校でもお話ししましたが、今日は各自で好きな活動を選んでもらいます!」
先生の指示で、各テーブルにプリントが配られた。
内容はしおりに載っていたものと同じである。
一番、自然体感ツアー。
ガイドの人と一緒に森の遊歩道を歩き、周辺の植物や自然について学ぶ活動だ。
二番、ラフティング。
専用のボートに乗って川を下る、いわゆる川下りである。
三番、ものづくり体験。
施設内で木工や小物作りを楽しむ活動らしい。
四番、アウトドアスポーツ。
屋外の広場で、さまざまなスポーツを体験するという。
希望する活動を朝食後までに決め、先生へ報告することになっていた。
……さて、どれにするかな。
俺はプリントを眺めながら考えた。
まず、四番はない。
昨日はクイズラリーで結構歩いたし、今の俺には朝からスポーツを楽しむ元気なんて残っていない。そもそも、初登校の日に持久走でひどい目に遭ったことを、俺はまだ忘れていないのである。
一番の自然体感ツアーは悪くなさそうだ。のんびり森を歩くくらいなら、何とかなるだろう。
ただ、昨日から酒を飲み続けている身としては、長時間歩き回るのは避けたいところだった。
となると、三番のものづくり体験が一番無難だろう。座って何かを作るだけなら、途中で気分が悪くなる心配も少なそうだ。
そして、二番のラフティング。
……これは絶対に避けたい。
川を下るボートなんて、どう考えても揺れるに決まっている。昨日から酒を飲み続けている俺がそんなものに乗ったら、間違いなく口からキラキラしたものが出てしまうだろう。
……よし。三番だな。
そう決めてプリントに丸をつけようとしたところで、柴田が小さく手を上げた。
「……あ、あの……私、一番にしようと思います……」
「あっ、自然体感ツアー?」
「……は、はい。植物の説明も聞けるそうなので……」
「萌さんにぴったりですわね!」
麗奈が嬉しそうに微笑んだ。
「きっと、珍しい植物もたくさん見られますわ!」
「……そ、そうだと嬉しいです……」
柴田は少し照れくさそうに頷いた。
一方、佐々木はプリントを一目見ただけで、迷わず三番に丸をつけていた。
「佐々木さんは、ものづくり?」
「……うん。動くの面倒だし」
……おお、同志よ。
俺もまったく同じ理由で三番を選ぼうとしていたところである。
佐々木と一緒なら、静かに作業できそうだし、余計な騒ぎも起きないだろう。
「私も三番にしようかな」
そう言いかけたところで、遥が突然声を上げた。
「あっ!ねえねえ、麻由ちゃん!」
「ん?どうしたの?」
「ラフティングって面白そうじゃない!?」
「……えっ?」
俺は思わずプリントへ視線を落とした。
二番。
よりによって、二番である。
「私、前から一度やってみたかったんだよね!ボートに乗って川を下るんでしょ?絶対楽しそう!」
「まあ!それは素敵ですわね!」
麗奈まで目を輝かせた。
「わたくしも、そういった体験は初めてですわ!ぜひ挑戦してみたいです!」
「でしょでしょ!白川さんも二番にする?」
「はい!わたくしも二番にいたしますわ!」
二人は嬉しそうに顔を見合わせた。
……おお、決まるの早いな。
俺が三番に丸をつけようとすると、遥がこちらを向いた。
「ねえ、麻由ちゃんも二番にしない?」
「……えっ、私?」
「うん!せっかくだし、一緒にやろうよ!」
「そうですわね!麻由さんもご一緒でしたら、もっと楽しくなりそうですわ!」
二人の目がきらきらと輝いている。
……うっ。
何だ、その期待に満ちた視線は。
別に、断ればいいだけの話である。今日は個人で好きな活動を選べるのだから、俺が三番にしたところで何の問題もない。
しかし、二人は本当に楽しそうだった。
昨日のクイズラリーでも、麗奈と遥はずいぶん仲良くなった。最初は麗奈に少し遠慮していた遥も、今ではすっかり打ち解けている。
そんな二人と一緒に過ごすのは、俺にとっても楽しい時間だった。
「……で、でも、ラフティングって結構揺れるんじゃない?」
「そうかも!でも、それが面白そうじゃん!」
「ふふっ。少しどきどきいたしますわね!」
……いや、俺の場合は別の意味でどきどきするんだけど。
それでも、せっかく二人が誘ってくれたのだ。あんなに楽しそうな顔を見ていると、断るのも何だか申し訳ない気がしてきた。
……まあ、せっかくの宿泊学習だしな。
こんな体験、普通に生活していたらなかなかできないだろう。
幸い、二日酔いで動けないほど体調が悪いわけではない。今のところ吐き気もないし、案外何とかなるかもしれない。
……うん。きっと大丈夫だろう。
俺はそう自分に言い聞かせながら、プリントを見つめた。
「……じゃあ、私もラフティングにしようかな」
「本当!?やったー!」
遥がぱっと笑顔になった。
「一緒に楽しもうね、麻由ちゃん!」
「まあ!嬉しいですわ!素敵な思い出になりそうですわね!」
「うん!」
俺が頷くと、二人はますます嬉しそうに笑った。
……ああ、もう。
そんな顔をされたら、選んでよかったと思っちゃうじゃないか。
こうして、柴田は自然体感ツアー、佐々木はものづくり体験、そして俺と遥と麗奈はラフティングに決まった。
希望を書いたプリントを先生へ提出し、席へ戻る。
「ねえねえ!川って、どのくらい流れが速いんだろうね!」
「きっと迫力がありますわね!」
「ボートがぐわーって揺れたりするのかな!」
「まあ!それは楽しみですわ!」
二人は早くも川下りの話で盛り上がっている。
俺も笑顔で相槌を打っていたが、遥の言葉を聞くたびに、少しずつ胃のあたりが重くなってきた。
さっきは何とかなると思ったけど、よく考えたらラフティングって、川の流れに乗って激しく揺れるんだよな?
しかも、ただ揺れるだけではない。水しぶきを浴びたり、ボートが大きく跳ねたりすることだってあるはずだ。
昨日から酒を飲み続け、今朝も追加したばかりの俺が、そんなものに乗ったらどうなるか。
……うん。間違いなく口からキラキラしたものが出る未来しか見えない。
俺は楽しそうに笑い合う遥と麗奈を眺めながら、そっと胃のあたりを押さえた。
……やっぱり三番にしておけばよかったかもしれない。
宿泊学習二日目。
どうやら俺の受難は、まだまだ終わりそうになかった。




