第5話 無職の美少女、黒塗りの高級車に乗る
あれから三日が経った。
突然の解雇だったこともあり、会社からは最後の給料とは別に解雇予告手当が振り込まれていた。それに、これまで独身で大して金のかかる趣味もなかったおかげで、貯金もそこそこある。
当面の生活には困らない。
そうなると、次に考えるのはこれからのことだった。
一時は、この姿なら高校に通えるんじゃないかと思った。三十五歳にもなって高校生活というのもどうかとは思うが、酒さえ飲めば見た目は完全に十代の少女になる。
仕事もなくなった今なら時間だってある。
だが、少し調べただけで現実を思い知らされた。
「戸籍に住民票……前の学校の書類も必要なのか」
スマホの画面を眺めながら、俺はため息をついた。
酒を飲めば身体は少女になる。だが、戸籍まで一緒に若返ってくれるわけではない。俺はどこまでいっても三十五歳の男で、今の少女の姿を証明できる身分証なんて存在しなかった。
前に通っていた学校の書類を用意しろと言われても、出せるのは十数年前のものくらいだ。
「……無理だな、これ」
さすがにどうしようもない。
せっかくなら高校生活をもう一度、なんて少し期待していたものの、戸籍だの必要書類だのという現実的な問題を前にして、俺はほとんど諦めていた。
とはいえ、落ち込んでばかりいても仕方がない。
仕事がなくなったおかげで時間には余裕があるし、金銭的にもすぐ次の仕事を探さなければならない状況ではない。せっかくなら、今までできなかったことでもして過ごせばいい。
そう考えているうちに、最近まともに身体を動かしていないことを思い出した。
「ランニングでもするか」
我ながら健康的な発想だった。
会社勤めをしていた頃は、仕事から帰れば酒を飲んで寝る。休日になれば昼間から酒を飲む。運動らしい運動なんて、駅まで歩くくらいしかしていなかった。
せっかく時間ができたのだ。少しくらい身体を動かしたほうがいいだろう。
俺はジャージに着替え、軽く身体を伸ばした。
鏡に映っているのは、いつもの三十五歳の男だ。
「よし、行くか」
玄関のドアを開け、外へ出る。
暖かい風が頬を撫でた。
「んー、いい天気……」
声が高い。
そして、視界の端で長い髪が揺れた。
「…………」
俺は静かにドアを閉めた。
玄関脇の鏡を見る。
そこにはジャージ姿の少女がいた。
「なんでだよ!」
原因を考える。
考えるまでもなかった。
そういえば着替える前、少し喉が渇いたので冷蔵庫を開けた。水もお茶もあったはずなのに、俺が何の迷いもなく手に取ったのは、昨日の残りの缶チューハイだった。
そして、そのまま飲んだ。
「……これから走るんだぞ、俺」
健康のためにランニングをしようという人間が、その直前に酒を飲んでどうする。
だが、飲んだ瞬間には何の疑問も感じなかった。喉が渇いたから冷蔵庫を開け、そこに酒があったから飲む。その一連の動作があまりにも自然すぎた。
どうやら俺にとってアルコールを摂取するという行為は、呼吸をするのと同じくらい当たり前になっているらしい。
「……情けねえ」
さすがに少しだけ自分が嫌になった。
もっとも、すでにアルコールが入っているせいか、その反省も長くは続かなかった。
飲んでしまったものは仕方がない。
後悔なら後でできる。
「まあ……せっかく着替えたしな」
さすがに走るのはやめておくとしても、散歩くらいならいいだろう。
俺は少女の姿のまま、改めて外へ出た。
平日の昼間ということもあり、住宅街にはそれほど人がいない。ジャージ姿で適当に歩きながら、これから昼飯をどうするかなんて考えていると、後ろから一台の車が近づいてきた。
俺の横を通り過ぎたその車は、少し先で速度を落とし、そのまま路肩に停まった。
黒塗りの高級車だった。
「……なんだ?」
見るからに俺とは縁のなさそうな車だ。
運転席のドアが開き、きっちりとスーツを着こなした男が降りてきた。当然ながら見覚えはない。
その男が、俺のほうへ真っすぐ歩いてくる。
「失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「えっ」
黒い高級車。
見知らぬ男。
いきなり名前を聞かれる。
どう考えても怪しい。
――誘拐?
反射的に一歩後ずさると、男は俺が警戒していることに気づいたらしく、すぐに足を止めて頭を下げた。
「突然申し訳ございません。私は白川家で運転手を務めております」
「白川……?」
「はい。白川麗奈お嬢様の送迎を担当しております」
「ああ、麗奈ちゃんの!」
そこでようやく話がつながった。
「先日は、お嬢様を学校まで送り届けていただき、ありがとうございました」
「いや、学校まで一緒に行っただけなんで……」
どうやら誘拐犯ではなかったらしい。
少し安心したところで、今度は別の疑問が浮かんだ。
「でも、どうして私のことが分かったんですか?」
「お嬢様から特徴を伺っておりました。学校には通っていないようなので、昼間ならこの周辺を歩いているかもしれない、と」
「それだけで探してたんですか?」
「はい」
「よく見つかりましたね……」
「運が良かったようです」
確かに運がいい。
俺がランニング前に酒を飲むという意味不明なことをしていなければ、今頃この辺りを歩いていたとしても三十五歳の男だった。麗奈から聞いた特徴とは似ても似つかなかっただろう。
「それで、私を探してたってことは……何かあったんですか?」
「実は旦那様が、先日の件について直接お礼を申し上げたいとのことでして。一度お会いいただけないでしょうか」
「旦那様?」
「お嬢様のお父様です」
麗奈の父親が、娘を学校まで送り届けた礼をしたいということらしい。
「別にいいですけど……」
「ありがとうございます。では、どうぞ」
運転手が後部座席のドアを開ける。
「……今から?」
「はい」
俺は開かれたドアの前で立ち止まった。
いや、待て。
麗奈の名前が出たからなんとなく信用してしまったが、普通に考えたら知らない男の車に乗るなんて危険じゃないか?
白川家の運転手だと名乗っているだけで、本当にそうなのか確かめたわけでもない。そもそも、ついさっき自分で誘拐かと疑ったばかりだ。
「…………」
改めて黒塗りの高級車を見る。
怪しい。
ものすごく怪しい。
普段の俺なら、さすがにここで断っていただろう。
ただ、今は酒が入っている。
「まあ、麗奈ちゃんの名前知ってるし……大丈夫か」
どうやら警戒心までアルコールで緩んでいるらしい。
我ながら危機管理能力が心配になったが、酔っているせいか、その心配すらどうでもよくなってくる。
俺は促されるまま後部座席へ乗り込んだ。
「うわ、何これ。めちゃくちゃ座り心地いいな」
身体を包み込むような柔らかいシートに感心しているうちに、さっきまでの警戒心はどこかへ消えていた。
運転手が静かにドアを閉め、しばらくすると車が走り出す。
窓の外を流れていく景色を眺めながら、俺はふと思う。
健康のためにランニングへ出たはずなのに、酒を飲んで女になり、散歩に変更した挙げ句、今は知らない男の高級車に乗っている。
「……今日、何してんだろうな。俺」
まあ、酒が抜けたら反省しよう。
俺はそう決めて、座り心地のいいシートに深く身体を預けた。




