第4話 無職になった俺と、迷子のお嬢様
日曜日の夜。
酒が抜け、花川正由の姿へ戻った俺は、ソファに座ってスマホを眺めていた。画面には昼間に登録した『転入試験』の予定が残っている。
「……冷静に考えたら無理だろ」
麻由の姿なら高校生には見える。だが、見えるだけだ。
花川麻由という名前は、俺が酒を飲んで女になったときの姿へ勝手につけたもの。当然、戸籍もなければ、中学校を卒業した記録もない。高校へ入りたいと思ったところで、書類を出す段階で終わる。
それに俺には会社がある。高校も会社も平日の昼間なのだから、どう考えても両立できない。
「高校行くために会社辞めるってのもなあ……」
三十五歳まで普通に働いてきた男が、もう一度高校生活を楽しみたいから退職する。しかも女子高校生として。
さすがに馬鹿げている。
俺は転入試験の予定を消そうとして、結局そのままスマホを置いた。残しておくだけなら害はないし、どうせ受けられない。
明日は月曜日。また普通に仕事だ。
そう思って、その日は眠った。
翌朝。
いつも通りスーツを着て出勤した俺を待っていたのは、いつも通りとは程遠い光景だった。
朝から社内が騒がしく、仕事を始めようとしても待つように言われる。やがて社員全員が集められ、暗い顔をした社長から説明が始まった。
「当社は、本日付で事業を停止することになりました」
「…………は?」
その後も資金繰りや今後の手続きについて説明が続いたが、ほとんど頭に入ってこなかった。
要するに、会社が潰れた。
昨日の夜、俺は確かに考えた。
高校へ行ったら会社はどうするんだ、と。
だからといって。
「会社のほうがなくなることある?」
思わず呟くと、隣の同僚が力なく頷いた。
いや、そういう意味ではない。
高校へ行くために仕事を辞めるなんてあり得ないと結論を出した翌朝、会社が勝手に消滅した。
問題の解決方法が乱暴すぎる。
今後についての説明を受け、私物をまとめて会社を出たときも、まだ昼前だった。
月曜日のこんな時間にスーツ姿で帰宅するなんて、昨日までは想像もしなかった。
家へ着いて鞄を置くと、一気に力が抜けた。
「……飲むか」
会社が潰れた日くらい、昼前から飲んでも許されるだろう。
冷蔵庫からビールを取り出し、テレビを眺めながら一本、二本と空ける。しばらくしてトイレへ行き、手を洗いながら鏡を見たところで、いつの間にか麻由になっていることに気づいた。
「あ、変わってた」
今さら驚くことでもない。
それより飲み足りなかった。
冷蔵庫を開ける。
「……ないじゃん」
会社に続いて酒までなくなった。
仕方なく財布を持ち、近所のコンビニへ買い足しに向かう。
昼前の住宅街を歩いていると、少し先で制服姿の女の子がスマホを片手に周囲を見回していた。
今の俺より少し小柄で、柔らかなハニーブラウンの髪は胸元まで伸び、毛先がゆるやかに波打っている。ハーフアップにまとめられた髪が、上品な雰囲気によく似合っていた。
琥珀色の大きな瞳に、整ったかわいらしい顔立ち。……なんだ、この絵に描いたようなお嬢様は。
制服にも皺一つなく、立ち姿にもどことなく品がある。
ただし、完全に迷っていた。
スマホを見て歩き出したと思ったら、すぐに戻ってくる。それを何度も繰り返している。
「何してんだ、あの子」
俺が眺めていると、少女のスマホが鳴った。
「……はい、お父様」
聞くつもりはなかったが、声が届く。
「大丈夫ですわ。わたくし一人で学校まで参りますから。……いいえ、車は必要ありません。今日は自分の力で行くと決めたのです」
電話を切った直後、また着信音が鳴る。
「はい……先生。申し訳ございません。もうすぐ到着いたしますので……ええ、大丈夫ですわ」
電話を切る。
十秒後、また鳴った。
少女は画面を見て、今度はそっと着信を止めた。
「大丈夫じゃないだろ」
思わず声が出た。
少女がこちらを見る。
「……何か?」
「さっきから同じところ行ったり来たりしてるけど、迷子?」
「迷子ではございません」
即答だった。
「じゃあ、どこ行きたいの?」
「白玲学園高等学校ですわ」
「迷子じゃん」
白玲学園なら知っている。ここから歩いて十分もかからない私立高校だ。
「そこなら近いよ」
「本当ですの?」
少女の顔がぱっと明るくなる。
「この道をまっすぐ行って、二つ目の信号を右に――」
「二つ目……」
すでに怪しい。
「分かった?」
「もちろんですわ」
「じゃあ、どっち?」
少女は自信満々に逆方向を指差した。
「そちらですわ」
「送るよ」
「ですが――」
「絶対また迷うから」
少女は少し不満そうだったが、最終的には素直についてきた。
「わたくし、白川麗奈と申します」
「花川麻由。よろしく」
「麻由さんですのね」
並んで歩きながら事情を聞くと、麗奈は普段、家から学校まで車で送り迎えされているらしい。
ところが今日は突然、自分の力だけで学校まで歩いてみたくなった。
「それで家の人を断ったの?」
「はい。お父様には心配ないと申し上げました」
「心配しかないと思うけど」
「失礼ですわね。わたくし、もう高校生ですのよ?」
「高校生が家から学校までの道で迷ってるんだけど」
「今日は少々、道の選択を誤っただけですわ」
「何回?」
「……少々です」
目を逸らした。
学校へ来ない麗奈を心配して、家からも学校からも何度も連絡が来ているらしい。それでも途中で迎えに来てもらえば負けたような気がするらしく、頑として断っていた。
しばらく歩いていると、今度は麗奈がこちらを見た。
「そういえば、麻由さんはどちらの学校に通っていらっしゃいますの?」
「俺……じゃなくて、私?」
「はい。同じくらいの年齢に見えますので」
やっぱりそう思うよな。
どう答えるべきか迷った。
まさか「三十五歳だから高校なんてとっくに卒業した」と言えるわけがない。
「学校は……行ってないよ」
「行っていないのですか?」
「うーん。行ってないっていうより、行けないって言ったほうが近いかな」
「行けない……?」
麗奈が不思議そうに首を傾げる。
「ちょっと事情があってね」
これ以上聞かれると困る。
俺が曖昧に笑ってごまかすと、麗奈は何かを察したらしく、それ以上詳しく聞いてこなかった。
「そうでしたの……」
「別にそんな顔しなくていいよ」
「ですが、麻由さんは学校へ行きたくはありませんの?」
「行きたいかって言われるとなあ……まあ、行けるなら行ってみたいかな」
「本当ですの?」
「なんで麗奈ちゃんが嬉しそうなんだよ」
「べ、別に嬉しそうになどしておりませんわ」
そう言いながら、なぜか少し笑っている。
「ただ、行きたいのに行けないというのは、少しもったいないと思っただけです」
「どうにもならない事情ってのもあるんだよ」
「そういうものですの?」
「そういうものなの」
麗奈は「なるほど」と呟くと、何か考えるように黙り込んだ。
「……何?」
「いいえ。なんでもありませんわ」
「そう?」
「はい」
妙に気になったが、すぐに麗奈が別の話を始めたので、俺も深く考えなかった。
コンビニの前を通ると、麗奈が興味深そうに店内を覗いた。
「こちらのお店は、夜も開いておりますの?」
「二十四時間」
「一晩中ですの?」
「コンビニ知らないの?」
「存じております。ただ、利用したことがありませんの」
「マジか」
学校まで十分足らずの道なのに、麗奈にとっては社会科見学のようだった。
やがて白玲学園の校門が見えてくる。
「あれだよ」
「まあ!」
麗奈が嬉しそうに声を上げた。
「本当に着きましたわ!」
「そりゃ着くよ」
校門の前には、明らかに誰かを待っている教師らしき人が何人か立っていた。こちらに気づいた瞬間、そのうち一人がものすごい勢いで駆けてくる。
「白川さん!」
「ご心配をおかけしました」
麗奈は何事もなかったように頭を下げる。
どうやら俺が思っていた以上の騒ぎになっていたらしい。
麗奈は先生のところへ向かいかけたが、途中で振り返った。
「麻由さん!」
「ん?」
「ありがとうございました。またお会いしたいですわ」
「近所だし、そのうち会えるんじゃない?」
「約束ですわよ」
「はいはい」
ずいぶん気に入られたものだ。
笑顔で校内へ入っていく麗奈を見送り、俺は来た道を戻った。
そしてコンビニの前で、本来の目的を思い出す。
「そうだ。酒」
店に入り、ビールを数本持ってレジへ向かう。
店員が俺を見る。
ビールを見る。
もう一度、俺を見る。
「あの……年齢確認できるものをお願いします」
「ああ、はい」
財布を開いたところで手が止まった。
入っている免許証は花川正由、三十五歳。
写真も三十五歳の男だ。
今の俺は、どう見ても高校生くらいの少女。
「…………」
「年齢確認できるものは?」
「……ないです」
「申し訳ありませんが、販売できません」
「ですよね」
俺はビールをレジへ残し、静かに店を出た。
会社が潰れた。
やけ酒を始めた。
酒がなくなったから買いに来た。
途中で迷子のお嬢様を学校へ送り届けて、ようやくコンビニへたどり着いたのに、肝心の酒は買えなかった。
「……何しに外出たんだ、俺」
昼前の空を見上げながら、ため息をつく。
もちろん酒が抜けて正由に戻れば、普通に買える。
問題は、それまで待たなければならないことだった。
「やけ酒の続きをするために、酔いが醒めるの待つのかよ……」
我ながら意味が分からない会社が潰れた月曜日。
俺は酒を買い足すことすらできないまま、長い黒髪を揺らして家へ帰った。




