第3話 俺の青春、まだ間に合いますか?
日曜日の朝。
目を覚ました俺は、布団の中で昨日の出来事を思い返し、しばらく天井を見つめていた。
三十五歳の俺が酒を飲むと、十代後半にしか見えない少女の姿になる。
その姿につけた名前が、花川麻由だ。
昨日は麻由の姿で初めて近所を散歩して、二人組の男子に見惚れられたことで浮かれ、いい年をしてスキップまでした。そのあと大学生らしき三人組に声をかけられ、「かわいい」と褒められてさらに調子に乗った挙げ句、そのうちの一人に盛大に吐いた。
「……何やってんだ、俺」
酒が抜けた今なら、昨日の自分がどれほどひどかったのかよく分かる。
女になったからといって人格まで別人になるわけではない。麻由になっても中身は俺のままだ。ただ、麻由になるには酒を飲まなければならず、酒を飲めば当然酔う。判断力が鈍り、普段より気が大きくなったところへ、突然手に入った美少女の外見である。
昨日の惨状は、その結果だった。
普段の俺は、あんな人間ではない。
三十五歳、ごく普通の会社員だ。
平日は決まった時間に起きてスーツを着て、会社へ行けば普通に仕事をする。同僚ともそれなりに付き合い、上司に言われたことには多少不満があっても従う。仕事中に突然スキップしたり、窓に映った自分へ見惚れたりするようなことは当然ない。
明日は月曜日だ。
週末の馬鹿騒ぎは今日で終わりにしなければならない。
「今日は禁酒だな」
俺は布団から起き上がった。
一日酒を抜いて、少しずついつもの生活へ戻ろう。部屋を片づけて洗濯を済ませ、明日のシャツも用意する。夕方には仕事用の鞄の中身を確認して、早めに寝ればいい。
そう決めると気持ちまで引き締まった。
まず洗濯機を回し、散らかっていた部屋を片づける。昨日着ていた服を見つけたときには、道端での惨事を思い出して顔をしかめたが、それも洗濯機へ放り込んだ。
掃除機までかけ終えると、少し遅めの朝食にする。
テレビでは日曜朝の番組が流れていた。
俺はそれを何となく眺めながら食事を済ませ、食器を片づける。今日はこのまま家でゆっくり過ごせばいい。酒を飲まない休日なんて久しぶりだが、たまには悪くないだろう。
そんなことを考えながら冷蔵庫に入ってる飲み物を取り出し、ソファへ腰をかけた。
一口飲む。
「…………」
テレビをぼんやり眺めていると、何かが頬をくすぐった。邪魔だと思って手で払ったものの、すぐにまたさらりと頬へ触れてくる。
「ん?」
何気なく指でつまんでみると、それは自分の髪だった。
そこでようやく違和感を覚える。俺の髪が、こんなところまで届くはずがない。視線を落とすと、見慣れた黒髪が肩を越えて長く伸び、胸元まで流れていた。
「…………あれ?」
慌てて自分の身体を見る。
細くなった腕。小さくなった手。そして俺はゆっくりテーブルを見た。
開封済みの缶ビールが置かれていた。
「……あ」
手に取った缶ビールは、半分ほど減っている。
「俺、ビール飲んでたわ」
いつ開けた。
まるで覚えていない。
冷蔵庫から取り出し、いつもの習慣で開け、そのままテレビを見ながら飲んでいたらしい。
今朝あれだけ真剣に禁酒を決意したというのに、葛藤する暇すらなく飲んでいた。
洗面所へ行って鏡を見る。
そこには昨日と同じ麻由がいた。
「禁酒って難しいな……」
自分で言ってから、さすがに情けなくなった。
もっとも、もう飲んでしまったものは仕方がない。
鏡に映る麻由を眺めていると、別の問題を思い出した。
「そういえば服ないんだよな」
昨日も男物の服で外へ出たが、今の身体には大きすぎる。この体質がいつまで続くか分からない以上、麻由用の服くらい持っておいたほうがいい。
どうせ女になってしまったのだ。
だったら今日のうちに買っておこう。
昨日の失敗を踏まえて口臭ケアは念入りに済ませ、香水は一回だけにした。もちろん今日は一缶しか飲んでいないし、スキップもしない。
ショッピングモールへ着くと、俺は女性ものの服を扱う店を見て回った。
最初は少し入りづらかったが、店員から普通の女性客として接されるとすぐに慣れた。気になった服を何着か選び、試着室へ入る。
白いトップスとスカートに着替えて鏡を見ると、思わず感心した。
「おお……ちゃんと女の子だ」
男物の服を着ていた昨日とはまるで違う。
別の服も試してみると、それも似合った。もう一着試せば、そっちも欲しくなる。
二、三着だけのつもりが、店を出る頃には両手に紙袋を提げていた。
「まあ、必要なものだしな」
レシートの金額については深く考えないことにした。
そのままモール内を歩いていると、少し先に三人組の女の子がいた。
全員私服姿で、今の俺と同じくらいの年齢に見える。スマホを見せ合いながら楽しそうに話しており、近くを通ったときに聞こえてきた会話から、高校生らしいと分かった。
俺は何となく彼女たちを目で追った。
三人で笑いながら歩いていく姿が、妙に眩しく見える。
「高校生か……」
自分の高校時代を思い出した。
不登校だったわけではない。毎日普通に学校へ行っていたし、話す相手だっていた。
ただ、それだけだった。
授業を受けて、昼飯を食べて、放課後になれば帰る。文化祭も体育祭も参加したはずなのに、三十五歳になった今では何をしたのかほとんど覚えていない。
嫌な高校生活だったわけではない。
何のおもしろみもないまま、気づいたら三年間が終わっていたのだ。
「もっと楽しんどけばよかったな」
今さら言っても仕方がない。
高校時代なんて、もう十年以上も昔の話だ。
そう思いながら近くのガラスへ目を向けたところで、俺は足を止めた。
そこには紙袋を提げた麻由が映っている。
長い黒髪に、さっき買った服。三十五歳どころか、二十歳にすら見えない。
さっきの女子高校生たちの隣に立ったとしても、たぶん同年代だと思われる。
「…………」
妙な考えが浮かんだ。
この姿なら。
「高校生でも普通に通るよな」
口にすると、さらにその先まで考えてしまった。
もし、もう一度高校へ行けたら。
今度はただ授業を受けて帰るだけではなく、友達を作って放課後に遊びに行ったり、文化祭に本気になったりできるかもしれない。
しかも今度は、女の子として。
「……楽しそうだな、それ」
三十五歳の会社員が何を考えているのか。
素面なら、そこで終わったかもしれない。
しかし今は一缶分とはいえ酒が入っている。絶対に無理だと切り捨てるより、「できるかどうか調べるくらいなら」という好奇心のほうが少しだけ強かった。
俺は近くのベンチへ腰を下ろし、買い物袋を隣に置いてスマホを取り出した。
高校への転入について検索してみると、必要な書類や試験についての情報が次々に出てくる。学校によって条件が違うらしく、思っていたよりずっと複雑だった。
それでも、調べているうちに家からそれほど遠くない高校の名前を見つけた。
公式サイトを開き、転入学についてのページを読む。
「試験もあるのか……まあ、覚えとくだけなら」
俺は試験の日をカレンダーへ登録した。
画面に『転入試験』という予定が追加される。
そこでようやく、自分が何をしているのか少し冷静になった。
三十五歳の会社員、花川正由が、日曜の朝に禁酒を決意した。
ところが無意識にビールを飲んで麻由になり、昼には女物の服を買い、今は高校の転入試験を自分の予定に入れている。
「……俺の日曜日、どうなってんだよ」
呆れながらスマホをしまった。
まだ受けると決めたわけではない。
予定を入れただけだ。
それなのに帰り道、明日の仕事よりも気になって仕方がなかったのは、さっき登録した試験のことだった。
三十五歳になってから初めて、俺は高校の勉強をやり直したほうがいいかもしれないと思い始めていた。




