第2話 かわいいと言われて調子に乗った結果
酒を飲むと女になる。
そんな冗談みたいな体質が自分に備わっていることは、今朝の実験ではっきりした。
そして現在、俺は鏡の前に立っている。
映っているのは、背中まで伸びた艶やかな黒髪に、整った顔立ちの少女。
花川麻由。
昨日、酔った勢いで自分につけた名前だ。
「……やっぱかわいいな」
昨日は突然の変身に大騒ぎしたものだが、今日は少し落ち着いて自分の姿を眺められる。
もっとも、落ち着いているのは変身に対してだけだ。
鏡に映る麻由の顔を見ていると、どうしても口元が緩んでしまう。
「いや、俺なんだけどさ……」
自分で自分を褒めるのは妙な気分だった。
だが、せっかくの休日である。
明日は日曜日だし、予定もない。
それに、一度原因が分かってしまえば、昨日ほど怖くもなかった。
むしろ気になってくる。
この身体で何ができるのか。
どこまで普段と違うのか。
そんなことを考えながら朝食を用意し、テレビをつける。
そして食事をしながら飲んでいるうちに、一本目が空になった。
「…………」
空になった缶を見る。
冷蔵庫には、まだ酒がある。
「まあ、休みだしな」
二本目を開けた。
それも空になる頃には、すっかり気分がよくなっていた。
そして気づけば、三本目まで手をつけていた。
さすがに酔っている。
頭はふわふわしているし、頬も少し熱い。それでも気分は悪くなく、むしろいつもより機嫌がよかった。
鏡の前へ戻ると、麻由はほんのり頬を赤くしていた。
長い黒髪を片側へ流してみる。
「……やっぱかわいいな」
昨日なら、口にしたあとで多少は恥ずかしくなっただろう。今日は三本分の酒が、その辺りの遠慮をどこかへ持っていってしまったらしい。
鏡の中で笑ってみると、麻由も楽しそうに笑う。
そこで、ふと思った。
「この姿で外歩いたら、どうなるんだろ」
昨日はほとんど家から出ていない。せっかくここまで別人になっているのだから、一度くらい麻由の姿で外を歩いてみたかった。
どこかへ出かける必要はない。近所をぐるっと散歩して帰ってくるだけなら大したことではないだろう。
素面なら、もう少し考えたかもしれない。
しかし今の俺は、思いついてから五分後には着替えを始めていた。
男物の中でも比較的ゆったりした服を選び、帽子を被る。財布とスマホを持って玄関へ向かったところで、自分の息が気になった。
「……あ」
手で口元を覆って確かめる。
「酒くさっ」
当然だった。
朝から三本飲んでいる。
鏡に映るのは十代後半にしか見えない女の子なのに、近づいた途端に酒臭かったらどう考えてもまずい。
「これは隠さないとな」
急いで歯を磨き直し、マウスウォッシュを使い、口臭ケアまで済ませた。それでも心配になり、最後に棚の奥から香水を取り出す。
一度吹きかけてから少し考え、もう一度。
念のため三回目。
「よし。完璧」
酔っぱらいの自己評価ほど信用できないものはないが、俺は満足して家を出た。
外へ出た瞬間、春の風が長い黒髪を揺らした。頬へかかった髪を指で払うだけでも、昨日までとは違う自分になったようで妙に楽しい。
歩き始めると、何度も通った近所の道まで新鮮に感じられた。目線の高さも歩幅も少し違うし、背中で髪が揺れる感覚にもまだ慣れない。
最初は人とすれ違うたびに少し緊張した。
ところが誰も俺を不審そうには見ない。
当然といえば当然だ。周囲から見れば、俺はただの若い女の子なのだから。
「全然バレないじゃん」
そう思うと、急に楽しくなってきた。
人のいないところで軽く跳ねてみる。髪がふわっと浮いた。
「おお」
もう一度。
今度は二歩ほどスキップしてみた。
自分でも何をやっているんだと思うが、酔った頭にはその程度の羞恥心など大した障害ではなかった。
しばらく歩いていると、前から二人組の男子がやってきた。
二人とも今の俺と同じくらいの年齢に見える。何かを話しながら笑っていたのだが、一人がこちらへ気づいた瞬間、その会話が途中で止まった。
隣の男子も相手の視線を追って俺を見る。
そいつまで黙った。
「……?」
俺が近づくほど、二人の視線が妙に泳ぐ。一人と目が合うと慌てて逸らすのに、少しするとまた見てくる。
その横を通り過ぎてから、気になって振り返った。
二人も揃って振り返っていた。
目が合った瞬間、二人は同時に前を向く。
「お前、見すぎだって」
「お前も見てただろ」
小声が聞こえてきた。
俺は近くの建物のガラスへ目を向ける。帽子の下から長い黒髪を覗かせた麻由が映っていた。
「……見惚れてた?」
そう考えた途端、頬が緩んだ。
男の姿なら自意識過剰だと打ち消しただろう。しかし今は酒が入っている。
「まあ、麻由かわいいもんな」
完全に調子に乗った。
さっきより足取りが軽くなり、ガラスへ自分が映るたびに髪を整える。しまいにはまたスキップまで始めた。
俺、もしかして相当いけてるんじゃないか。
そんなことまで考え始めた頃だった。
「ねえ、そこの子」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、三人組の男が立っていた。さっきの二人より少し年上で、二十歳前後――大学生くらいに見える。
「俺?」
自分を指差すと、一人が笑った。
「そうそう。めっちゃかわいいね」
「…………」
かわいい。
はっきり言われた。
三本分の酒が入った頭に、その言葉は非常によく効いた。
「え、そう?」
自分でも分かるくらい顔が緩む。
「この辺の子?」
「一人で散歩?」
「髪めっちゃ綺麗じゃん」
三人から次々に話しかけられた。
これは、どう考えてもナンパだ。
三十五年間生きてきて、当然ながら初めての経験だった。
普通なら少し警戒したかもしれない。ところが今の俺は、麻由が本当にかわいいと証明されたような気分になっていた。
「いやあ、そんなに?」
笑いながら髪を触る。
完全に浮かれていた。
朝から三本飲んだことも、その状態で歩き回っていたことも、さっき調子に乗ってスキップしていたことも、全部頭から抜けていた。
「よかったらさ、このあと俺らと――」
三人のうち一人が何か言いかけた、その瞬間だった。
胃の奥が、ぐるん、とひっくり返った。
「……ん?」
さっきまでの気分のよさが一瞬で消えた。
頭が回っている。
足元もふわふわする。
しかも自分でつけた香水の匂いが、今になってやたらと鼻についた。
「どうした?」
「顔赤くない?」
三人が心配そうに俺の顔を覗き込む。
その距離の近さが、とどめになった。
「ちょ……待って……」
口元を押さえる。
まずい。
「大丈夫?」
「ごめ……ちょっと離れ――」
間に合わなかった。
「うぼぇっ!おろろろろろ」
「うわああああああ!?」
盛大にやった。
しかも、よりによって一番近くにいた男へ。
「…………」
「…………」
「…………」
時間が止まった。
数秒前まで俺を「めっちゃかわいい」と褒めていた男が、全身を硬直させている。
俺も口元を押さえたまま硬直した。
残りの二人は一歩ずつ後ろへ下がる。
「お、お前……」
一人が震える指で仲間を指した。
「この子に何したんだよ!?」
「俺がされたんだよ!!」
俺はその場にしゃがみ込んだ。
「ご、ごめ……ほんとごめ……」
「いいから座ってて!」
「水いる!?」
「ていうかこの子、酒臭くね!?」
三人が同時に黙った。
視線が俺へ集まる。
「…………」
俺はそっと顔を逸らした。
一人が恐る恐る聞いてきた。
「君……いくつ?」
答えられるわけがなかった。
三十五歳です、と言ったところで信じてもらえるはずがない。
結局、俺の人生初のナンパは、誘いの言葉が最後まで言い終わることすらなく、その場で強制終了した。
しばらくして何とか立ち上がり、三人に何度も頭を下げてから逃げるように家へ帰った。
そして数時間後。
酒が抜け、男の姿へ戻った俺はベッドの上で目を覚ました。
ぼんやり天井を見る。
今日の記憶が順番に戻ってくる。
二人組に見惚れられた。
浮かれてスキップした。
三人組にかわいいと言われた。
調子に乗った。
そして。
「…………」
俺は無言で布団を頭まで被った。
その頃、近所のどこかではきっと、一人の大学生が友人たちにこう語っている。
――今日、めちゃくちゃかわいい子をナンパしたんだ。
そこまではよかった。
問題はその直後だ。
俺は布団の中で顔を覆った。
花川麻由。
初めてのナンパは、開始から数分。
連絡先を交換するより先に、相手へ昨日の晩飯をお返しして終了した。




