↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/23

第1話 酒を飲んだら美少女になった件

 三十五歳になった今でも、仕事を終えた金曜の夜だけは少し特別だった。


 俺の名前は、花川正由(はなかわまさよし)


 三十五歳、独身。一人暮らし。


 特別といっても、誰かと待ち合わせをしているわけでも、洒落た店へ繰り出すわけでもない。帰宅途中のコンビニで酒とつまみを買い、家に着いたら適当に風呂を済ませ、テレビを眺めながら一人で飲む。ただそれだけだ。


 それでも俺は、この時間が好きだった。


「今週もよく働いたなあ」


 誰も褒めてくれないので自分で自分を労いながら、開けたばかりの缶を傾ける。喉を通っていく冷たさと一緒に肩の力が抜けていく感覚が心地いい。


 テーブルには二本目も用意してある。明日は休みだから早起きする必要もない。テレビでは芸人たちが騒いでいて、それをぼんやり眺めながらつまみを口へ運ぶ。いつもの金曜日だった。


 だから最初に身体の異変を感じたときも、単に酒の回りが早いだけだと思った。


「なんか今日、暑いな……」


 一本目を半分ほど飲んだところで、身体の内側から妙な熱が広がってきた。酔ったときの火照りに似てはいるものの、少し違う。腕や脚の先までむずむずして、身体全体が落ち着かない。


 エアコンの温度を確認してみたが、いつもと変わらない。


「疲れてんのかな」


 そう呟いてもう一口飲んだところで、視界の端に黒いものが落ちてきた。


 髪だった。


 一本抜けたという話ではない。いつの間にか伸びていた髪が肩から滑り落ち、胸元まで垂れている。


「……は?」


 俺はしばらく、その黒髪をつまんだまま動けなかった。


 昨日までどころか、ついさっきまで俺の髪は短かったはずだ。それなのに今は肩を越え、しかも目の前で少しずつ長くなっているように見える。


「待て待て、なんだこれ」


 慌てて立ち上がった瞬間、身体のバランスを崩してテーブルへ手をついた。


 酔ってふらついた、というだけではない。立ち上がったときの重心が普段と違う。服の中の感覚まで妙で、身体そのものが自分の知っている形からずれてしまったような違和感がある。


「何が起きて――」


 そこまで言って、自分の声に驚いた。


 高い。


 思わず喉に手を当てる。


「あー……あー?」


 試しに声を出すたび、聞いたことのない高い声が返ってくる。それでも間違いなく自分の喉から出ているのだから、余計に気味が悪い。


 さすがに酔いでは説明できなかった。


 俺は洗面所へ向かった。途中で何度か足がもつれそうになったのも、酔っているからなのか身体がおかしくなっているからなのか、もう分からない。


 洗面台へ両手をつき、恐る恐る顔を上げた。


 鏡の中には、知らない女がいた。


 艶やかな黒髪が背中まで伸び、整った顔立ちに少し切れ長の瞳。

どこか大人びた雰囲気があるものの、どう見ても高校生くらいの美少女だった。


 俺は反射的に後ろを振り返った。当然、誰もいない。


 もう一度鏡を見る。


 女もこちらを見ている。


 右手を上げてみれば向こうも右手を上げ、頬をつねれば同じ場所をつねった。


「……俺なのか?」


 鏡の少女が同じ言葉を口にした。


 頭では理解を拒否しているのに、確かめれば確かめるほど否定できなくなる。長い髪を引っ張れば頭皮に感覚があるし、頬に触れれば指先にも頬にもちゃんと感触がある。


 どういう理屈かは知らないが、鏡の中にいる少女は間違いなく俺だった。


「いやいやいや……どうなってんだよ」


 混乱しながら顔を触っているうちに、恐怖とは別の感情が少しずつ湧いてきた。


 この女、かなり美人じゃないか。


 自分のことなので口にするのはものすごく抵抗があるが、客観的に見ればそうとしか言いようがない。黒髪は妙に艶があって、顔立ちも整っている。しかも若い。


 真正面から眺めたあと、少し横を向いてみる。鏡の少女も当然同じ動きをする。


「……いや、ほんとに誰だよ」


 呟きながら髪を耳へかけてみると、それだけで雰囲気が変わった。


 そこで少し面白くなってしまった。


 たぶん、酒が回っていたせいもある。


 最初こそ大混乱していたものの、酔いが深くなるにつれて「どうしよう」という気持ちより、「これ、どうなってるんだろう」という好奇心のほうが勝ってきた。


 俺は洗面所からスマホを持ってきて、鏡の前でもう一度自分を見る。


 カメラを起動すると、画面いっぱいに黒髪の少女の顔が映った。


「おお……」


 妙に新鮮だった。


 普段の俺は自撮りなんてしない。ところが今は、自分なのに自分ではない顔が映っているのが面白くて仕方ない。


 試しに一枚撮ってみる。


 確認してみると、少し緊張した顔の美少女が写っていた。


「普通にかわいいな」


 言った直後、さすがに自分で恥ずかしくなった。


「いや、俺なんだけどさ……」


 誰に言い訳するでもなく呟く。


 もう一枚撮る。今度は少し笑ってみる。さらに髪を片側へ寄せてみたり、昔買った伊達眼鏡を引っ張り出してかけてみたりする。


 気がつけば写真は十枚を超えていた。


 完全に遊んでいる。


 しかし不思議なことに、普段の自分なら絶対にやらないようなことでも、この姿だと妙に抵抗が薄かった。女になったからというより、酔って気が大きくなっているのだろう。


 鏡の前で長い髪をまとめながら、俺はふと思った。


「この姿、名前ないと不便だな」


 冷静に考えれば、誰にも会う予定はないのだから名前など必要ない。


 しかしそのときの俺は酔っていた。


「俺が花川正由だから……」


 鏡の中の少女を眺めながら、自分の名前を頭の中で転がしてみる。


 正由。


 まさよし。


「……麻由」


 ふと、そんな名前が浮かんだ。


 名字は変える必要もないだろう。どうせ俺自身なのだから。


「花川麻由(はなかわまゆ)……」


 口にしてみると、思いつきのわりには意外なくらいしっくりきた。


 正由と麻由。


 同じ『由』が入っているせいか、まったく別人の名前なのに、どこか自分のもう一つの名前という感じがする。


 俺は少し姿勢を正し、鏡に向かって笑ってみる。


「花川麻由です。よろしくお願いします」


 言った途端、自分でおかしくなって吹き出した。


「何やってんだ、花川正由……」


 笑いながらリビングへ戻る。


 その頃には、最初に感じていた恐怖はずいぶん薄れていた。明日になったら病院へ行くべきかもしれないし、原因だって調べなければならない。それでも今夜くらいは、もう少しこの奇妙な出来事を楽しんでもいいような気がしていた。


 テーブルに残っていた酒を手に取り、ソファへ座る。


 それから先の記憶は、かなり曖昧だった。


 テレビを見て笑った覚えはある。スマホで何枚か写真を追加したような気もする。そのままソファで横になり、いつの間にか眠ってしまったらしい。


 翌朝、目を覚ました俺は、しばらく天井を眺めていた。


「……頭いてぇ」


 口から出た声は低かった。


 そのことに気づいた瞬間、一気に眠気が飛んだ。


 髪へ手をやる。


 短い。


 慌てて洗面所へ駆け込むと、鏡の中には見慣れた花川正由の顔があった。


「戻ってる……」


 昨夜の出来事が全部夢だったように思えてくる。


 しかしスマホを確認すると、夢ではなかったことがすぐに分かった。


 写真フォルダには、見知らぬ美少女の自撮りが十七枚も残っていた。


 笑顔、横顔、眼鏡姿、なぜかピースまでしている。


「昨日の俺、楽しみすぎだろ……」


 頭を抱えながら写真を送っていく。


 その途中で、ふと昨夜の出来事を思い返した。


 変化が始まったのはいつだったか。


 帰宅したときは間違いなく男だった。風呂に入ったときも普通だった。夕飯を用意して、テレビをつけて、それから――酒を飲んだ。


「まさかな」


 俺はテーブルを見る。


 飲みかけの缶が残っていた。


 いくらなんでもそんな馬鹿な話があるわけがない。酒を飲んで女になるなんて、どんな体質だ。


 それでも確認せずにはいられなかった。


 冷蔵庫を開けると、昨日買ったものが一本残っている。


「これは検証だからな」


 誰も聞いていないのに、そう口にした。


 時計を見る。午前九時を少し過ぎたところだ。


 さすがに朝から何をやっているんだという理性は残っていたものの、それ以上に昨夜の現象を確かめたい気持ちが強かった。


 少しだけ口をつけて、待つ。


 最初の数分は何も起きなかった。


「やっぱり違うか……?」


 そう思った頃、身体の内側がじんわり熱くなった。


 俺は固まった。


 この感覚には覚えがある。


 急いで洗面所へ向かい、鏡の前に立つ。ほどなくして髪が伸び始め、声が変わり、身体の感覚まで昨日と同じものへ変わっていった。


 そして鏡の中には、昨日とまったく同じ黒髪の少女が現れた。


「……マジかよ」


 花川正由――いや、今の姿なら花川麻由と呼ぶべきなのだろうか。


 鏡の中の麻由は呆然としていた。


 原因は、どうやら本当に酒らしい。


 普通なら、ここで恐ろしくなって二度と飲まないと誓うのかもしれない。


 ところが俺はしばらく麻由の顔を見つめたあと、手に持っていた缶へ視線を落とした。


 そして、もう一度鏡を見る。


「…………まあ」


 酒をやめるくらいなら。


「女になるほうが、まだマシか」


 そう呟いてから、俺は普通に続きを飲んだ。


 鏡の中の麻由は、呆れたような、それでいて少し楽しそうな顔で笑っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。