第44話 大浴場で調子に乗った三十五歳の末路【挿絵あり】
クイズラリーを終えて宿泊部屋に戻ってきた頃には、窓の外の山々が夕日に染まり始めていた。
「はあー!結構歩いたね!」
部屋に入るなり、遥が畳の上に腰を下ろした。
「お疲れ様ですわ、遥さん。途中で道を間違えてしまって、申し訳ありませんでしたわ」
「もう、白川さん!それはいいってば!おかげで楽しかったし!」
麗奈は安心したように微笑むと、窓際へ歩いていった。
俺たち五人に割り当てられたのは、二階にある広めの和室だった。中央には座卓が置かれ、壁際には五人分の布団がまとめられている。
「……あ、あの木……たぶん、ミズナラです……」
麗奈の隣では、柴田が窓の外の植物を興味深そうに眺めていた。一方、佐々木は部屋の隅に座ると、さっそくスマホを取り出している。
「……疲れた」
……相変わらずマイペースだな。
もっとも、俺も人のことは言えない。朝からずっと気を張っていたせいで、精神的にはかなり疲れていた。
今朝は普段より多めに飲んできたものの、いつまで麻由の姿でいられるかは分からない。ましてや、今夜はこの部屋で四人と一緒に寝るのである。
夜中に元の姿へ戻ってしまったら、間違いなく大騒ぎだ。
「そうだ!みんな、夕食の前にお風呂だって!」
遥が予定表を取り出し、嬉しそうに声を上げた。
「まあ!大浴場ですのね!」
「うん!班ごとに順番に入るんだって!」
……風呂。
ついに来たか。
ただ、今の俺にとって一番の問題は入浴そのものではない。途中で身体が元に戻らないかという心配のほうが、はるかに大きかった。
俺は部屋の隅に置いたリュックへ、ちらりと目を向けた。
……その前に、ちょっとだけ時間が欲しいんだよなあ。
☆☆
「麻由ちゃん、タオル持ってきた?」
「あっ、うん!ちゃんとあるよ!」
「よーし!じゃあ、準備できたら行こう!」
遥が元気よく声を上げ、麗奈と柴田もそれぞれ荷物を確認し始めた。
その隙に、俺はリュックから一本の缶を取り出す。
見た目は普通のエナジードリンクだが、中身はビールである。
みんなの注意がこちらに向いていないことを確認してから、そっと口をつけた。
「…………っ!」
……まっず!
思わず顔をしかめた。
炭酸がすっかり抜けてしまっているうえに、朝からずっとリュックに入れていたせいで、ぬるくなっていたのだ。
ぬるくて、炭酸の抜けたビール。
……最悪の組み合わせじゃねえか!
「……麻由ちゃん?」
「ひゃっ!?」
突然、遥に声をかけられた。
「どうしたの?すごい顔してたけど」
「あ、あはは……ちょっと、思ってた味と違って……」
「えっ、エナドリってそんなにまずいの?」
「……うん。これは、ちょっと……」
「じゃあ、無理して飲まなくてもいいんじゃない?」
……ごもっともです。
しかし、俺にはそうも言っていられない事情がある。
「だ、大丈夫!せっかく持ってきたから!」
遥は不思議そうに首を傾げたものの、それ以上は追及してこなかった。
……失敗したなあ。
こんなことになるなら、別の種類の酒にしておけばよかった。例えば日本酒とか。
あれなら、少なくとも炭酸が抜けて味が台無しになることはない。
……いや、待て。
高校の宿泊学習で酒の種類を検討している時点で、どう考えてもおかしいだろ。
俺は何とか飲み終え、缶を片づけた。
しばらくすると身体がぽかぽかしてきて、頭も少しふわふわしてくる。どうやら、また酒が回ってきたらしい。
味はひどかったが、少なくとも今すぐ元の姿へ戻る心配はなさそうだった。
「麻由さーん!お風呂の準備ができましたわ!」
「あっ、うん!私もすぐ行くね!」
俺は着替えとタオルを手に取った。
☆☆
「わあー!広い!」
脱衣所へ入るなり、遥が歓声を上げた。
大浴場は一階の奥にあり、脱衣所もかなり広い。棚には脱衣かごが並び、奥の曇りガラスの扉からは湯気が漂っていた。
「まあ!立派なお風呂ですわね!」
「白川さんの家のお風呂も、これくらい広いんじゃない?」
「いいえ。さすがに、ここまで大きくはありませんわ」
……さすがに、か。
普通の家なら比較するまでもないと思うんだけどな。
「……早く入りたい」
佐々木が短く呟いた。
俺は周囲を見回した。同じ時間帯に入浴する女子生徒たちも何人か来ており、脱衣所は賑やかだった。
……さて。
ここで、ひとつ意外なことに気づいた。
俺は、この状況にあまり動揺していなかったのである。
以前の俺は三十五歳の男だった。普通なら、女子生徒たちと一緒に大浴場へ入るなんて、とんでもない状況のはずだ。
ところが、実際には妙に落ち着いている。周囲の女の子たちを見て浮かれてしまうようなこともなく、友達と一緒にお風呂に入ることが、当たり前のように感じられていた。
……これ、単に慣れたってだけじゃないよな。
最近は、麻由として過ごしているときの感覚が、以前よりもずっと自然になっている気がする。
女の子としての振る舞いを、いちいち意識しなくてもできるようになっているのだ。
……もしかして、俺の中の女の子成分、どんどん強くなってないか?
何とも複雑な気分である。
「麻由ちゃん!早く行こうよ!」
「あっ、うん!」
俺は遥に返事をして、浴場へ向かった。
☆☆
「はあー……気持ちいい!」
湯船に肩までつかった遥が、幸せそうな声を上げた。
「本当ですわね。とてもよいお湯ですわ」
麗奈もゆったりと湯船につかっている。柴田はその隣で、少し緊張した様子ながらも気持ちよさそうに目を細めていた。
「……あったかい、です……」
俺も湯船に入り、小さく息を吐いた。
朝からバスに揺られ、カレーを作り、クイズラリーで歩き回った。その疲れが、少しずつほぐれていくようだった。
「……熱い」
佐々木がぼそっと呟いた。
「えっ、佐々木さん、熱いの苦手?」
「……長く入るの、嫌い。のぼせるし」
……この子、本当にマイペースだな。
「そういえばさ、麻由ちゃん!」
突然、遥がこちらを向いた。
「ん?どうしたの?」
「麻由ちゃんって、胸大きいよね!」
「……へっ?」
あまりに唐突な言葉に、間の抜けた声が出た。
「な、何?急に」
「いやー、前から思ってたんだけどさ!麻由ちゃんって、結構あるじゃん?」
「ちょっ!?遥ちゃん!?」
……おいおい!いきなり何の話を始めるんだ!?
「まあ……!」
隣にいた麗奈が、少し恥ずかしそうに声を上げた。
「た、確かに……麻由さんは、わたくしよりもずっと大人っぽくて……少し羨ましいですわ」
「麗奈ちゃん?」
「わたくし、まだあまり成長しておりませんもの……」
麗奈がしょんぼりと肩を落とす。
「そんなに気にしなくてもいいと思うけど……」
「で、ですが……やはり、少し憧れてしまいますわ」
「えへへ!白川さん、意外とそういうの気にするんだね!」
「も、もう!遥さんったら!」
遥は楽しそうに笑うと、今度はこちらへ向き直った。
「ねえねえ、麻由ちゃん!ちょっと触っていい?」
「だめ!」
即答だった。
「えー!まだ何もしてないのに!」
「しようとするな!」
「あははっ!冗談だってば!」
……絶対、半分くらい本気だっただろ!
さすが、女の子が好きだと堂々と宣言していただけのことはある。都市伝説研究部の歓迎会でも思ったけど、遥って時々こういう方向に遠慮がなくなるんだよな。
「も、もう!遥さんったら!麻由さんが困っていらっしゃいますわ!」
「ごめんごめん!麻由ちゃん、反応が面白いからつい!」
「……あ、あの……」
それまで黙っていた柴田が、おずおずと口を開いた。
「……あまり、比べなくても……いいと思います……」
「……柴田さんの言うとおりだね」
俺が頷くと、柴田はほっとしたように微笑んだ。
「……うるさい」
そのとき、佐々木がぼそっと呟いた。
「あっ、ごめん!佐々木さん!」
「……別に」
「でもさ、佐々木さんって、この中で一番胸が大きいよね!」
「ちょっ!?遥ちゃん!?」
……おい!今度は佐々木に話を振るのかよ!
「まあ……!た、確かに……カレンさんは、とても大人っぽいですわね……」
「でしょ!麻由ちゃんも結構あるけど、佐々木さんが一番だと思う!」
「だから!何で比べるの!?」
「えー!女の子同士の会話じゃん!」
……そういうものなのか!?
「……くだらない」
佐々木は一言だけ返した。
「えっ、佐々木さんは気にならないの?」
「……別に」
「羨ましいなー!その余裕!」
「……何が?」
……本人、まったく興味ねえ!
「……ねえ。まだ続けるの?」
「あっ、ごめん!」
「……お風呂くらい、静かに入りたい」
……ごもっともです。
俺は苦笑しながら、湯船に肩までつかった。
ところが、そんな俺の様子を見ていた麗奈が、ふと思いついたように声を上げた。
「そうですわ!麻由さん!」
「ん?」
「よろしければ、わたくしが背中を流して差し上げますわ!」
「……えっ?」
「せっかくご一緒にお風呂に入っているのですもの。こういうときは、お友達同士で背中を流し合うものなのでしょう?」
「えっ、そうなの?」
「ええ!以前、そういうお話を聞いたことがありますの!」
……誰から聞いたんだ、それ。
「いいね!じゃあ、私もやる!」
遥が勢いよく手を上げた。
「えっ!?遥ちゃんも!?」
「うん!私も麻由ちゃんの背中流したい!」
「まあ!それでしたら、二人で流して差し上げましょう!」
「おおっ!いいね!」
……ちょっと待て。何で二人がかりになるんだ!?
「い、いや!大丈夫だよ!」
「遠慮なさらないでくださいまし!」
「そうそう!麻由ちゃん、いつも私たちに優しいんだから!」
しかし、二人はすっかり乗り気だった。
……ああ、もう。こうなったら、断るほうが難しいじゃないか。
「……じゃあ、お願いしようかな」
「はい!お任せくださいまし!」
「やったー!」
……全国の三十五歳の男性の皆さん、ごめんなさい。
俺は今、女子高生二人に背中を流してもらおうとしています。
……いや、待て。今の俺だって女の子なんだから、別におかしくはないよな?
……ということで、合法ということにしておこう。何が合法なのか、自分でもよく分からないけど。
「麻由さん、痛くありませんか?」
「うん!大丈夫だよ!」
「こっちはどう?くすぐったくない?」
「あははっ!遥ちゃん、ちょっとくすぐったい!」
「えへへ!ごめんごめん!」
麗奈は丁寧に、遥は楽しそうに背中を流してくれる。二人とも本当に楽しそうで、こちらまで嬉しくなってしまう。
「……楽しそう、ですね……」
柴田が少し離れたところから、控えめに声をかけてきた。
「あっ、柴田さんも一緒にどう?」
遥が柴田に向かって、楽しそうに声をかけた。
「……えっ!?わ、私も……?」
「うん!せっかくだし!」
「……い、いえ……私は、見ているだけで十分です……」
柴田は慌てて首を横に振った。
「えー!遠慮しなくていいのに!」
「……ふ、二人もいれば……十分だと思うので……」
というか、背中を流すのに二人も必要なのかという疑問がある。
「……何してんの」
そんな俺たちを見ていた佐々木が、呆れたように呟いた。
「あっ、佐々木さんもやろ?麻由ちゃんの洗いっこ!」
遥が声をかける。
「……やだ」
「即答!?こういうときじゃないとできないスキンシップもあるんだよー?」
遥が楽しそうに反論する。
「そうですわ!お友達同士の大切な交流ですもの!」
麗奈も嬉しそうに頷いた。
「……背中を流すだけのわりに、転校生の身体にベタベタ触りすぎじゃない?」
「えへへ……バレちゃった?」
……否定しないのかよ!
……相変わらず佐々木はよく見てるな。さっきから会話に参加してないくせに、突っ込みだけは的確なんだよな……。
☆☆
それからしばらくして、俺たちは再び湯船につかった。
「はあー!やっぱりお風呂って最高だね!」
「本当ですわね!皆さんとご一緒できて、とても嬉しいですわ!」
麗奈と柴田も満足そうに微笑んでいる。
俺も湯船に肩までつかりながら、ほっと息を吐いた。
……いやあ、楽しかった。
最初はどうなることかと思ったけど、こうしてみんなでお風呂に入るのも悪くない。
むしろ、かなり楽しい。
ただ、少し気になることがあった。
……何だか、頭がぼーっとするな。
さっきから身体が妙に熱い。最初はお湯のせいだと思っていたが、どうもそれだけではない気がする。
そういえば、部屋で追加した酒も、まだ身体に残っているんだよな……。
「……転校生」
「ん……?」
佐々木がこちらを見ていた。
「……顔、赤い」
「あ、あはは……ちょっと暑いかも……」
「……だから、長く入るなって」
「麻由さん?大丈夫ですの?」
麗奈が心配そうに顔を覗き込んできた。
「う、うん……大丈夫……」
「麻由ちゃん、何かぼーっとしてない?」
遥まで心配そうに声をかけてくる。
俺は笑って答えようとしたが、その瞬間、視界がふわりと揺れた。
「……あれ?」
……まずい。これ、もしかして……。
「……のぼせた?」
佐々木が淡々と尋ねてくる。
「……うん……たぶん……」
俺は力なく頷いた。
「麻由さん!すぐに上がりましょう!」
「麻由ちゃん!しっかりして!」
「……だから言ったのに」
麗奈と遥が慌てて声を上げる中、佐々木だけは妙に冷静だった。
……いや、本当にそのとおりです。
酒が入った状態で、調子に乗って長風呂なんかするんじゃなかった。
俺は二人に支えられながら、何とか湯船から出る。
……全国の三十五歳の男性の皆さん。
先ほどは少々浮かれてしまいましたが、訂正させてください。
女子高生に背中を流してもらった結果、のぼせて介抱されることになりました。




