第38話 元同僚と飲んでいたら、妹の設定を忘れました【挿絵あり】
「…………あれ!?」
個室の入口に立った竹内が、驚いたように目を見開いた。
それも当然だろう。ついさっきまで一緒に食事をしていた花川正由が姿を消し、代わりにその妹である花川麻由が座っているのだから。
「あ、あはは……こんにちは」
「えっ、妹さん!?どうしてここに?というか、正由は?」
竹内は俺と空になった席を交互に見ながら、困惑した表情を浮かべている。
さて、どう説明したものか。
「え、えっと……兄は急に用事ができたみたいで、先に帰っちゃいました」
「帰った?俺がトイレに行ってる間に?」
「はい。電話がかかってきて、どうしても外せない用事ができたとかで……」
「ええっ、そうなの?なんだよ、あいつ。一言くらい言ってくれればよかったのに」
「す、すみません。兄、昔からそういうところがありまして……」
「ははっ、まあ正由らしいっちゃ正由らしいけどな」
……俺って、そんなに適当な人間だったっけ?
もっとも、今回に限っては何も言い返せない。何しろ、急用も電話も全部でたらめなのだから。
「それで、妹さんはどうしてここに?」
「あ、あの……兄から連絡があったんです。近くにいるなら、昼ご飯を食べに来ないかって。ちょうど近くにいたので来てみたんですけど、入れ違いになっちゃったみたいで……」
「ああ、なるほど。そういうことだったのか」
竹内はあっさり納得してくれた。
冷静に考えれば不自然な部分もあるのだが、すでに酒が回っているせいか、細かいことは気にならないらしい。
「せっかく来たのに残念だったね。正由も妹さんを呼んでたなら、先に言ってくれればよかったのにな」
「そ、そうですね……」
俺は曖昧に笑いながら、テーブルに残された料理へ目を向けた。
久しぶりに元同僚と再会して楽しく食事をしていたのに、相手が突然いなくなってしまったのだ。竹内も少し寂しそうにしているし、このまま帰るのはさすがに申し訳ない。
「あの……もしよかったら、私がご一緒してもいいですか?せっかくお料理もありますし」
「えっ、いいの?」
「はい。私もまだお昼を食べていないので」
「そっか!じゃあ、ぜひ一緒に食べよう!」
竹内は嬉しそうに笑い、元の席へ腰を下ろした。俺も鞄を置き直し、その向かいに座る。
ついさっきまで正由として竹内と飯を食っていたのに、今度は麻由として同じ相手と食事をすることになるとは、なんとも妙な気分だった。
「あ、そういえば、ちゃんと名乗ってなかったね。俺、竹内弘人っていいます。正由とは前の会社で一緒に働いてたんだ」
「あ、はい。兄からお話は聞いています」
「そうなんだ。あいつ、俺のこと何か言ってた?」
「えっと……仕事熱心で、頼りになる方だって」
「ははっ!あいつがそんなこと言うかなあ」
……言わねえだろうな。
だが、ここは適当に褒めておくのが無難だろう。
竹内は料理の皿を俺のほうへ寄せてくれると、メニューを手に取った。
「えーっと……何か飲む?」
「あ、はい……」
差し出されたメニューには、ウーロン茶やオレンジジュースといったソフトドリンクのほかに、ビールやハイボールなどの酒類が並んでいた。
本来なら、ここはお茶でも頼むべきなのだろう。
そもそも、間違って運ばれてきたウーロンハイを一口飲んだせいで、俺は今こんな状況に陥っているのである。これ以上飲んで、また余計な面倒を増やすのは避けたい。
そう思う一方で、竹内がさっきから美味そうにビールを飲んでいたことも、頭から離れなかった。
……正直、飲みたい。
朝から酒を控えるつもりだったのに、結局こんなことになってしまった。どうせ麻由の姿になってしまったのなら、もう少しくらい飲んでも……。
そんな言い訳が頭をよぎり、気づけば俺は口を開いていた。
「……じゃあ、生ビールをお願いします」
「おっ、いいねえ!」
竹内が嬉しそうに笑った。
「妹さんもビール派なんだ?」
「あ、はい。結構好きなんです」
「へえ、正由もビール好きなんだよ。やっぱり兄妹だねえ」
「あはは……そうですね」
そりゃそうだ。同じ人間なんだからな。
「じゃあ、俺ももう一杯頼もうかな!」
竹内が店員を呼び、ほどなくして生ビールが二杯運ばれてきた。
「それじゃ、正由の妹さんとの初飲みに!」
「か、乾杯!」
ジョッキを軽く合わせ、俺はビールを口に運んだ。
「……ぷはあっ!」
「ははっ!いい飲みっぷりだねえ!」
「あっ、す、すみません!」
「いやいや!美味しそうに飲むなあと思って!」
竹内は楽しそうに笑っているが、俺は少し慌ててしまった。
つい、いつもの調子が出てしまったのだ。
麻由は二十歳を超えているという設定だから、酒を飲むこと自体は不自然ではない。しかし、正由とまったく同じような振る舞いをしていたら、さすがに怪しまれるかもしれない。
少し気をつけたほうがよさそうだ。
そう思っていたはずなのだが、竹内との会話が盛り上がるにつれ、そんな警戒心は少しずつ薄れていった。
☆☆
「いやあ、それでさあ!あの課長がまた同じこと言い出して!」
「あはははっ!ありましたね、そんなこと!」
「そうそう!正由なんか、あのときすげえ顔してたんだよ!」
「分かります!あれは腹立ちましたからね!」
「……ん?」
竹内が不思議そうな顔をしたところで、俺はようやく自分の失言に気づいた。
「あっ、いえ!兄から聞いたことがあって!」
「ああ、そういうことか!正由、そんなことまで話してたんだな!」
竹内は笑って納得してくれたが、俺は内心冷や汗をかいていた。
今の言い方では、まるで俺自身がその場にいたみたいじゃないか。
もっとも、それも仕方のないことだった。昔の会社の話をしているうちに、懐かしい出来事が次々と思い出され、つい正由の頃の感覚に戻ってしまうのである。
竹内もだいぶ酔ってきたらしく、普段より饒舌になっていた。
「いやあ、あの会社もいろいろあったよなあ。最後のほうなんて、毎日大変だったし」
「ほんとですよ。あの頃は残業ばっかりでしたからね」
「そうそう!特に月末なんか、正由と二人で遅くまで残ってたっけ」
「ああ、あれな!竹内が書類を間違えて、全部やり直しになったやつ!」
「はははっ!……って、妹さん、なんでそれ知ってるの?」
「えっ?あ、兄から聞いたんです!」
「なんだよ正由!そんな失敗まで妹さんに話してたのかよ!」
竹内が腹を抱えて笑い、俺もつられて笑ってしまった。
……危ない危ない。
さっきから何度同じ失敗をしているんだ、俺は。
しかし、酒が回った頭では、いちいち言葉を選ぶのも面倒になってくる。
気づけばテーブルには空になったジョッキが並び、最初は遠慮がちだった会話も、すっかり昔の同僚同士の飲み会のようになっていた。
「いやあ、妹さんとこんなに話が合うとは思わなかったよ!」
「あはは!私もです!」
「なんかさあ、正由と飲んでるみたいな気分になるんだよね!」
「…………っ!」
思わずむせそうになった。
……おい、それ結構核心に近いぞ。
「そ、そうですか?」
「うん!話し方とか、笑うところとか似てるんだよなあ!」
「あはは……兄妹ですからね!」
「そっかあ!やっぱり兄妹って似るもんなんだなあ!」
竹内は何の疑いもなく笑っている。
酔っ払っているおかげで助かったと言うべきか、それとも酔っ払っている俺が問題なのか。
おそらく後者だろう。
それからも、俺たちは昔の会社の失敗談や上司への愚痴で盛り上がった。竹内が懐かしい話を持ち出せば、俺もつい当時の出来事を思い出して口を挟む。
そのたびに妹としての設定を思い出すのだが、しばらくするとまた忘れてしまう。
「いやあ、竹内ってさあ、昔からそういうところあるよな!」
「はははっ!お前に言われたく……って、あれ?」
「……ん?」
「いや、なんでもない!妹さん、本当に正由そっくりだな!」
「そうか!あはははっ!」
……今、何かおかしかったような。
まあ、竹内も笑ってるし、いいか。
そんな調子でくだらない話を続けているうちに、俺はすっかり麻由として振る舞うことを忘れていた。
最近は学校のことばかり考えていたから、こうして昔の知り合いと話すのも久しぶりだ。
正由の姿ではないことだけが少し妙だったが、それでも懐かしく、楽しい時間だった。
☆☆
「……ふああ」
気づけば、ずいぶん時間が経っていた。
テーブルには空いたジョッキや皿が並び、竹内は頬を赤くして椅子にもたれかかっている。
「いやあ……楽しかったなあ……」
「そ、そうですねえ……」
俺もすっかり酔っていた。頭がふわふわして、さっきまで何を話していたのか、ところどころ記憶が曖昧になっている。
思い返せば、途中からほとんど正由のつもりで話していた気がする。
竹内を呼び捨てにしたり、昔の会社の出来事を自分の体験として話したり……。
……うわあ。
冷静になったら、絶対に恥ずかしいやつだ。
「妹さん、ほんと面白いねえ。なんか正由と話してるみたいだったよ」
「あはは……そうですか?」
「うん。あいつにも今日のこと話してやらないとなあ」
「ふふっ、きっと喜ぶと思いますよ」
まあ、本人は今ここにいるんだけどな。
むしろ、竹内が今日のことをどんなふうに話すのか、少し楽しみなくらいである。
そんなことを考えながら時計を見ると、いつの間にか夕方になっていた。
「……えっ、もうこんな時間?」
「ん?ああ、ほんとだ。結構長く飲んでたなあ」
最初は昼飯を食べるだけのつもりだったのに、すっかり長居してしまったらしい。
「そろそろ出ようか。妹さん、歩ける?」
「だ、大丈夫です!」
勢いよく立ち上がったものの、足元がふらついて思わずテーブルに手をつく。
「おっと、大丈夫?」
「へ、平気です!ちょっと立ちくらみが……」
竹内は心配そうにしていたが、俺はなんとか鞄を持ち、一緒に個室を出た。
廊下へ出ると、昼間よりも店内が少し賑やかになっていた。
ようやく帰れる。そう思った、そのときだった。
「んふふ~。月曜日の昼過ぎからお酒が飲めるなんて、最高ねえ……!」
「…………っ!?」
聞き覚えのある声に、喉がひゅっと鳴った。
店の入口から入ってきたのは、肩にかかる程度の髪を整えた私服姿の女性だった。
落ち着いた雰囲気に、整った顔立ち。
白玲学園一年二組の担任、永井彩未先生である。
……なんでここにいるんだよ!?
思わず叫びそうになった。
永井先生は二十代後半くらいの美人教師だが、実はかなりの酒好きなのは知っている。以前、深夜のコンビニで大量の酒を買い込んでいる姿も目撃した。
だから、居酒屋に来ること自体は不思議ではない。
不思議ではないのだが……。
よりによって、このタイミング!?
「いやあ、今日は午後から半休を取って正解だったわあ……!」
永井先生は誰に話しかけるでもなく、上機嫌で呟いている。
「平日の昼間から一人でゆっくり飲めるなんて、最高の贅沢よねえ……!」
……先生、楽しそうですね。
いや、その気持ちは分かる。平日の昼間から飲む酒が特別に感じられるのは、俺だって同じだ。
しかし、今はそんなことを考えている場合じゃない。
俺は慌てて顔を伏せた。
幸い、今日は正由の姿で出かけたため、男物のパーカーを着ている。今の麻由には少し大きいが、フードを深くかぶれば顔を隠せそうだった。
「……どうしたの、妹さん?」
竹内が不思議そうに尋ねてくる。
「な、何でもありません!ちょっと寒くて!」
「寒い?店の中、結構暖かいけど……」
「さ、寒がりなんです!」
「そ、そうなんだ」
竹内は首をかしげたものの、それ以上は聞いてこなかった。
俺はその背中に隠れるようにして、できるだけ顔を上げずに歩いた。
……頼む。
こっちを見るな。
絶対に見るな。
ところが、ちょうど永井先生の横を通り過ぎようとしたときだった。
「……んー?」
すぐ近くで、先生の声が聞こえた。
……っ!?
背中に冷たいものが走る。
視線を感じる。間違いない。今、先生がこちらを見ている。
俺はフードをさらに深くかぶり、竹内の陰に隠れるようにして歩き続けた。
心臓がうるさいくらいに鳴っている。
もしここで顔を見られたら、どう説明すればいいのだろう。
今日は体調不良という理由で学校を休んでいるのだ。そんな生徒が夕方の居酒屋で男と一緒に歩いていたら、どう考えても大問題である。
「……どうかされました?」
店員が永井先生に声をかけた。
「ん?ああ、いえ。なんでもないです」
永井先生は少し首をかしげたあと、すぐに笑った。
「一人なんですけど、空いてますか?」
「はい。こちらへどうぞ」
「ありがとうございます。ああ、楽しみだわあ……!」
先生は店員に案内され、奥へ歩いていった。
その後ろ姿が見えなくなったところで、俺はようやく息を吐いた。
……セーフ。
ギリギリセーフだ。
まさか、こんなところで担任教師と鉢合わせしそうになるとは思わなかった。
「妹さん、本当に大丈夫?顔、赤いけど」
「だ、大丈夫です!」
勢いよく立ち上がったものの、足元がふらついて思わず身体が傾いた。
「わわっ!?」
「おっと、危ない!」
竹内が慌てて手を伸ばした。
ところが、俺が予想外の方向によろけたせいで、その手が胸元に当たってしまった。
「…………っ!」
「…………あっ」
二人そろって固まる。
竹内は弾かれたように手を引っ込めた。
「ご、ごめん!今のはわざとじゃなくて!」
「わ、分かってます!大丈夫ですから!」
慌てて答えたものの、顔が熱くなるのを止められなかった。
……おいおいおい!
またかよ!
前に俺の家へ来たときも、似たような事故があったじゃねえか!
竹内は気まずそうに視線を逸らし、何度も謝っている。
「本当にごめん。転びそうだったから、つい……」
「い、いえ!助けようとしてくださったんですよね。気にしないでください」
「そう言ってもらえると助かるけど……」
竹内は困ったように頭をかいた。
「……なんか俺、妹さんの前だと失敗ばっかりだな」
「…………」
……奇遇だな。
俺もお前の前だと失敗ばっかりだよ。
「と、とにかく帰りましょう!」
「ああ。今度はちゃんと足元に気をつけてね」
「はい……」
俺は鞄を持ち直し、慎重に歩き始めた。
……まったく。
元同僚に二度もこんな事故を起こされるなんて、どんな確率だよ。
しかも、あいつは目の前の美少女が、かつて一緒に働いていた三十五歳の男だとは夢にも思っていない。
……知らないって、幸せなことだな。




