第37話 元同僚と飲みに行ったら、俺が消えました【挿絵あり】
月曜日の朝。
「……そろそろ、行っとかないとなあ」
俺はリビングのテーブルに広げた書類を眺めながら、ため息をついた。
目の前にあるのは、以前勤めていた会社から送られてきた離職票などの書類である。
突然の解雇だったこともあり、最後の給料とは別に解雇予告手当も振り込まれている。それに、独身で大して金のかかる趣味もなかったおかげで、貯金もそこそこあった。
当面の生活には困らない。とはいえ、いつまでも貯金を切り崩して暮らすわけにもいかないだろう。
「……貰えるものは、貰っておきたいしな」
失業手当である。
正確には雇用保険の基本手当というらしいが、受け取るためには職業安定所、いわゆる職安で手続きをしなければならない。
会社が倒産してから、何かと忙しくて後回しにしていたのだが、そろそろ動かないといけない。
俺はスマホで最寄りの職安の受付時間を確認した。
「……平日のみ、か」
まあ、そうだろうな。
問題は、今の俺が平日は高校へ通っていることだった。
朝から酒を飲んで麻由の姿になり、白玲学園で授業を受ける。放課後に帰宅する頃には、職安の窓口もほとんど終わっている。
かといって、休日は職安がお休みだ。
「…………」
……あれ?
これ、軽く詰んでないか?
いや、学校を休めばいいだけの話なのだが、せっかく通い始めた高校を、こんな理由で休むのも気が引ける。
それに、職安へ行くなら正由の姿でなければならない。離職票も身分証明書も、当然ながら花川正由の名前になっているのだ。
「……仕方ない。今日だけ休むか」
俺はそう決めると、スマホで白玲学園の連絡用アプリを開いた。
この学校では、出欠の連絡や健康状態の報告をスマホから行えるようになっている。わざわざ朝から電話する必要がないのは便利だった。
欠席理由の欄で体調不良を選び、必要事項を入力する。
「……よし、送信っと」
画面に受付完了の表示が出た。
少しだけ罪悪感はあったが、今日のところは勘弁してもらおう。
俺は必要な書類を鞄に詰め、久しぶりに正由の姿のまま家を出た。
☆☆
「……結構、人いるんだな」
職安に到着した俺は、待合スペースを見渡して呟いた。
平日の午前中だというのに、窓口には多くの人が訪れている。若い人もいれば、俺より年上らしい人もいた。
会社員だった頃は、まさか自分がここで手続きをすることになるとは思っていなかった。
「……人生、分からんもんだなあ」
受付で用件を伝え、番号札を受け取る。
しばらく待ったあと、案内された窓口で離職票や本人確認書類を提出し、求職の申し込みを行った。
会社が倒産したことも伝えると、職員は書類を確認しながら、今後の手続きについて説明してくれた。
どうやら、失業手当は申請さえすればすぐに貰えるというものではないらしい。
受給資格の確認や説明会などがあり、その後も決められた日に職安へ来る必要があるという。
「……定期的に来ないといけないんですか?」
「はい。原則として四週間ごとに失業認定日がありますので、その日に来所していただくことになります」
「なるほど……」
……一回で終わりじゃないのかよ。
しかも、認定を受けるためには求職活動の実績も必要になるらしい。
もちろん、仕事を探している人のための制度なのだから、当然といえば当然だ。
ただ、今の俺には少々厄介な事情がある。
平日は高校生として学校へ通っているのだ。
認定日のたびに授業を休むとなると、なかなか不便である。
それに、失業手当を受け取るためには、働く意思があり、仕事に就ける状態でなければならない。
……学校との両立、どうするかなあ。
そんなことを考えながら手続きを終え、次回の案内を鞄にしまう。
時計を見ると、すでに昼を過ぎていた。
「……ふう。思ったより時間かかったな」
せっかく学校を休んだのだから、午後は家でのんびり過ごそう。
そう考えながら出口へ向かっていると、不意に聞き覚えのある声がした。
「……あれ?正由?」
「ん?」
振り返ると、そこには見慣れた男が立っていた。
「おお、竹内じゃねえか!」
「やっぱり正由か!久しぶりだな!」
竹内弘人。
倒産した会社で一緒に働いていた元同僚である。
つい先日、俺の家に突然やってきて、とんでもない騒動を引き起こした相手でもあった。
……いや、あれは俺が悪かったんだけどさ。
「お前も職安に来てたのか?」
「ああ。失業手当の手続きでな。お前は?」
「俺も同じだよ。今日は認定日でさ」
「へえ、もうそんなところまで進んでるのか」
「そりゃそうだろ。お前、今まで何してたんだよ」
「……まあ、いろいろあってな」
まさか高校へ通っているとは言えない。
竹内は苦笑いを浮かべたあと、少し気まずそうに頬をかいた。
「そういえば、この前は悪かったな」
「……この前?」
「ほら、お前の家に行ったときだよ。妹さんに、ちょっと失礼なことしちゃってさ」
「…………」
……来た。
あの日、竹内は麻由の姿になっていた俺と鉢合わせした。
最初は下着姿でビールを持っているところを見られ、その後も苦しい言い訳を重ねる羽目になったのである。
最後には、ふらついた俺を竹内が支えた際、さらに気まずい事故まで起きてしまった。
……思い出したくねえ。
「い、いや。別に気にしてないと思うぞ」
「そうか?だったらいいんだけど……」
竹内はほっとしたように笑った。
しかし、次の瞬間、妙に真剣な顔になる。
「なあ、正由」
「ん?」
「お前の妹さんって、彼氏とかいるの?」
「…………は?」
思わず間の抜けた声が出た。
「いや、ほら。あんなに可愛い子だし、どうなのかなって」
……おい。
ちょっと待て。
何を言い出すんだ、こいつは。
「お前、まさか……」
「いやいや!別に変な意味じゃないぞ!ただ、ちょっと気になっただけで!」
竹内は慌てて手を振ったが、その顔には妙に照れくさそうな笑みが浮かんでいる。
……いや、絶対気になってるだろ。
「ほら、あの子、すごく礼儀正しかったしさ。話してみたら感じもよかったし」
「……そうか?」
「うん。それに、見た目もすごく可愛いじゃん」
……おいやめろ。
俺はお前の元同僚だぞ。
居酒屋で一緒に酒を飲んで、くだらない話をしていた、あの花川正由なんだぞ。
そんな相手から自分の容姿を褒められるなんて、どう反応すればいいんだ。
「……お前、妹に興味あるのか?」
「ま、まあ……機会があれば、また話してみたいかなって」
竹内は照れくさそうに笑った。
……絶対にやめろ。
「やめとけ。あいつ、結構面倒くさいぞ」
「えっ、そうなの?」
「ああ。見た目に騙されるなよ」
「ははっ!兄貴がそれ言うか?」
竹内は楽しそうに笑っている。
こっちは笑い事じゃないんだが。
「まあ、妹さんのことはともかくさ。今日、このあと暇か?」
「ん?まあ、特に予定はないけど」
「じゃあ、久しぶりに飲みに行かね?」
確かに、会社が倒産してからは一緒に飲む機会もなくなっていた。
ただ、今の俺にはひとつ問題がある。
酒を飲めば、麻由の姿になってしまうのだ。
「……悪い。今日は酒は飲まない」
「えっ、珍しいな。お前が飲まないなんて」
「まあ、ちょっとな。飯を食うだけなら付き合うぞ」
「おっ、いいね!じゃあ決まりだな!」
久しぶりに元同僚と食事をするくらいなら、別に問題ないだろう。
酒さえ飲まなければ、俺は正由の姿のままでいられる。
そう考えた俺は、竹内と一緒に職安をあとにした。
☆☆
「いやあ、懐かしいなあ!」
竹内はジョッキを片手に、楽しそうに笑っていた。
俺たちが入ったのは、職安から少し歩いたところにある居酒屋だった。
案内されたのは、引き戸で仕切られた個室である。周囲の客を気にせず話せるので、こういう席はありがたい。
「ほら、正由。お前も何か飲めよ」
「だから、今日は飲まないって」
「分かってるよ。ソフトドリンクでいいだろ?」
「ああ、じゃあウーロン茶で」
竹内はビールを注文し、俺はウーロン茶を頼む。
料理も適当に何品か注文すると、ほどなくして飲み物が運ばれてきた。
「じゃあ、久しぶりの再会に!」
「おう、お疲れ!」
ジョッキとグラスを軽く合わせる。
竹内は美味そうにビールを飲み、俺もウーロン茶を口にした。
酒が飲めないのは少し残念だが、久しぶりに正由として昔の知り合いと話せるのは嬉しかった。
話題は自然と、以前の会社のことになった。
「あの課長、最後までバタバタしてたよな」
「ああ。倒産が決まってからも、妙に張り切ってたしな」
「そうそう!今さら頑張ってどうするんだって思ったよ」
懐かしい名前が次々と出てきて、思わず笑ってしまう。
会社がなくなったこと自体は残念だったが、こうして振り返ると、悪い思い出ばかりではなかった。
「それにしても、お前はこれからどうするんだ?」
「ん?」
「仕事だよ。何か考えてるのか?」
「……まあ、ぼちぼちな」
「なんだよ、それ」
竹内は苦笑した。
実際、今後のことはまだ決めかねていた。
白玲学園での生活は思った以上に楽しいし、せっかくできた友達とも、もう少し一緒に過ごしていたい。
しかし、いつまでも無職のままでいるわけにもいかない。
……そのうち、ちゃんと考えないとな。
「まあ、お互い焦らず頑張ろうぜ」
「ああ、そうだな」
そんな話をしながら料理をつまんでいると、俺のウーロン茶が空になった。
「すみませーん!ウーロン茶、おかわりお願いします!」
店員に追加注文を伝えると、竹内も二杯目のビールを頼んだ。
しばらくして新しい飲み物が運ばれ、再び昔話に花を咲かせる。
不思議なことに、酒を飲んでいなくても十分楽しかった。
「……っと、悪い。ちょっとトイレ行ってくるわ」
竹内が席を立った。
「おう、行ってこい」
「すぐ戻るから、先に食ってていいぞ」
そう言い残し、竹内は個室を出ていった。
俺は一人になったテーブルで、残っていた料理をつまんだ。
「……ふう」
何だか、久しぶりに普通の休日を過ごしているような気分だった。
いや、今日は月曜日だから休日ではないのだが。
それでも、学校のことを忘れて、昔の同僚とくだらない話をする時間は悪くない。
俺は新しく届いたウーロン茶のグラスを手に取り、何気なく口をつけた。
「……ん?」
妙な違和感があった。
口の中に、わずかにアルコールのような風味が残っている。
……あれ?
俺はグラスを見つめた。
色は普通のウーロン茶と変わらない。
だが、どう考えても先ほど飲んでいたものとは味が違う。
「……まさか」
嫌な予感がした。
そして、その予感はすぐに現実となった。
身体の奥に、あの独特の感覚が広がり始めたのである。
「……おいおい」
思わず自分の手を見下ろす。
指先が、少しずつ細くなっていく。
目線も低くなり、肩のあたりに髪が触れる感覚があった。
……嘘だろ。
俺は慌ててグラスの匂いを確かめた。
これ、ただのウーロン茶じゃない。
……ウーロンハイだ!
どうやら、注文か配膳のどこかで間違いがあったらしい。
よりによって、酒を避けるためにウーロン茶を頼んだのに。
慌てて口を押さえたが、もう遅かった。
髪が伸び、手足が細くなり、着ていた服まで少しずつ大きく感じられるようになっていく。
ほどなくして、俺はすっかり麻由の姿になってしまっていた。
「…………」
幸い、ここは個室だ。
周囲の客に見られることなく、姿が変わったのは不幸中の幸いだった。
……いや、待て。
問題は竹内だ。
あいつが戻ってくれば、そこにいるはずの正由が消え、代わりに麻由が座っていることになる。
……まずい。
とにかく、今のうちに逃げるしかない。
俺は慌てて鞄を手に取り、席を立とうとした。
しかし、その瞬間だった。
ガラッ。
「いやあ、すっきりした!待たせたな、正由!」
竹内が個室の引き戸を開けた。
そして、俺の姿を見てぴたりと動きを止める。
「…………あれ!?」
「…………」
俺も、その場で固まった。
……ああ、もう!
どうして俺の毎日は、こうもハプニングばかりなんだよ!




