第36話 女子高生に戻るまで、絶対に目を開けないでください!【挿絵あり】
「……やばい」
俺はトイレの中で頭を抱えていた。
ついさっきまで麻由の姿で麗奈とゲームを楽しんでいたというのに、今はすっかり元の男の姿に戻ってしまっている。
生理が終われば元に戻る可能性があるとは聞いていた。だが、まさか麗奈が遊びに来ている最中に起こるなんて。
……どうするんだよ、これ。
リビングでは麗奈が待っている。今さらトイレから男が出てきたら、間違いなく大騒ぎになるだろう。
声をかけることもできない。声まで元に戻っているので、トイレから男の声が聞こえた時点で不審に思われてしまう。
しかも、俺は麗奈に一人暮らしだと説明している。
家族と住んでいる設定なら、兄が帰ってきたとでも言い訳できたかもしれない。しかし、ここには俺以外の人間はいないことになっているのだ。
……まさか、一人暮らしという設定が仇になるとは。
とはいえ、幸いなことに自宅には酒があるはずだ。冷蔵庫まで行ってビールを飲めば、麻由の姿に戻れる。
問題は、リビングを通らなければ冷蔵庫にたどり着けないことだった。
麗奈の目の前を、見知らぬ男が通り過ぎる。
……どう考えても無理だろ。
そこで、ふとポケットに入っていたスマホに気づいた。
「……そうだ」
これなら、直接声をかけずに麗奈と連絡が取れる。
俺は急いでメッセージ画面を開いた。
思いついた作戦は、麗奈に一度玄関の外へ出てもらうというものだった。その隙に冷蔵庫まで行けばいい。
そして、お嬢様である麗奈を外へ出す理由なら、ひとつ心当たりがあった。
『麗奈ちゃん、ごめんね。ちょっとお願いがあるんだけど』
送信すると、すぐに既読がついた。
『はい!何でしょうか、麻由さん?』
『実は、ちょっとGが出ちゃって……。退治したいから、少しだけ玄関の外で待っててもらっても大丈夫かな?』
……これならいけるはずだ。
あんな立派なお屋敷で育ったお嬢様なら、ゴキブリなんて苦手に決まっている。
ところが、返ってきたのは予想外の文章だった。
『まあ!Gとは、もしかしてゴキブリのことですの?』
おっ、いい反応だ。
『わたくし、一度もお目にかかったことがありませんの!ぜひ見てみたいですわ!』
「…………」
……見たいのかよ!
俺は思わずスマホを握りしめた。
普通、そこは怖がるところじゃないのか。
いや、あんなに綺麗な豪邸なら、見る機会がないのも分かるけどさ。
『でも、結構大きいよ?怖くない?』
『まあ!大きいのですか!ますます興味深いですわね!』
……駄目だ、このお嬢様。
思っていた以上に鋼の精神を持っている。
そのとき、リビングから小さな笑い声が聞こえた。
「ふふっ……」
続いてスマホが震える。
『同じお家の中におりますのに、こうしてメッセージでお話しするのも楽しいですわね!』
……楽しんでる場合じゃないんだよなあ。
どうやら麗奈は、すぐ近くにいるのにメッセージを送り合うという状況が面白いらしい。
こっちは人生最大級の危機なんだけど。
俺はしばらく考え、別の作戦を思いついた。
要するに、麗奈にこちらを見られなければいいのだ。
『麗奈ちゃん、じゃあちょっとお願い。私がいいよって言うまで、目をつぶっててもらえる?』
『目を、ですの?』
『うん。ちょっと準備したいことがあって』
『まあ!何かしら?』
『それはあとでのお楽しみ。絶対に開けちゃ駄目だよ?』
しばらくして、返事が届いた。
『分かりましたわ!麻由さんがおっしゃるなら、目を閉じてお待ちしております!』
……よし!
これなら何とかなるかもしれない。
俺は念のため、もう一度だけ確認した。
『本当に絶対開けないでね?』
『もちろんですわ!約束は守りますもの!』
麗奈の素直さを信じるしかない。
俺はそっとトイレの扉を開け、足音を忍ばせながら廊下へ出た。
リビングをのぞくと、麗奈はソファに座り、目をぎゅっと閉じていた。
頬をほんのり赤く染め、胸の前で両手を小さく握りしめている。その表情は期待に満ちており、今にも楽しそうな声が聞こえてきそうだった。
……本当に閉じてる。
俺は慎重に足を踏み出した。
今の俺は三十五歳の男である。そんな男が、何も知らない麗奈のすぐそばを通っているのだ。
もし少しでも目を開けられたら、すべてが終わる。
「ふふっ……何でしょう。とってもわくわくいたしますわ」
……こっちは心臓が止まりそうなんだけど。
どうにかソファの横を通り抜け、キッチンへたどり着いた。
助かった。
あとは冷蔵庫のビールを飲むだけだ。
俺は勢いよく冷蔵庫を開けた。
「…………」
そして、固まった。
オレンジジュース、お茶、牛乳。それから今日のために用意したお菓子と、小さなケーキの箱。
だが、肝心のビールが見当たらない。
……あれ?
上の段から下の段まで確認する。扉のポケットにも目を向けたが、どこにもない。
そこで、ようやく思い出した。
そうだった。
生理が始まってから、俺はずっと酒を飲んでいなかった。
以前のビールはとっくに飲み切っていたのに、買い足す必要がなかったので、そのまま忘れていたのである。
……嘘だろ。
ここまで来て、ビールがないなんて。
思わず頭を抱えそうになったが、そんなことをしている場合ではない。
「麻由さーん?」
リビングから麗奈の声がした。
「そろそろ大丈夫ですの?」
……まずい!
早く何とかしなければ。
俺は必死に冷蔵庫の中を見回した。
酒でなくてもいい。アルコールが入っているものさえあれば……。
そのとき、奥に置かれた小さな箱が目に入った。
アルコール入りのチョコレートだった。
以前、白川家で食べたものと同じ種類である。
……これだ!
俺は急いで箱を取り出した。
中にはまだ何個か残っている。ひとつでも効果があることは、以前の実験で確認済みだ。
俺は三個まとめて口に放り込んだ。
甘い味が口いっぱいに広がる。
急いで噛み砕いて飲み込むと、ほどなくして身体の奥に懐かしい感覚が走った。
目線が低くなり、手足が細くなっていく。肩に髪が触れ、長い黒髪が背中へ流れ落ちた。
俺は慌てて自分の手を確認した。
……戻った!
今度は間違いなく麻由の姿だ。
危なかった。
本当に、ぎりぎりだった。
「麻由さん?まだ目を閉じていたほうがよろしいですの?」
「あっ、うん!もうちょっとだけ!」
ちゃんと麻由の声が出たことに、心底安心する。
しかし、ここでひとつ問題が残っていた。
麗奈には、何か準備したいことがあると言ってしまっている。
このまま戻っても、何をしていたのか尋ねられるだろう。
そこで、冷蔵庫の中にあったケーキが目に入った。
今日、麗奈が遊びに来るので、一緒に食べようと思って買っておいたものだ。
……これでいこう。
俺はケーキを皿に移し、リビングへ戻った。
「麗奈ちゃん!もう目を開けてもいいよ!」
「まあ!よろしいのですか!?」
「うん。お待たせ!」
麗奈がゆっくりと目を開ける。
俺は皿を差し出し、精いっぱい笑顔を作った。
「あ、あはは……。さ、サプライズ!」
「……まあ?」
「麗奈ちゃんが来てくれるから、ケーキを用意してたんだ。一緒に食べようと思って」
すると、麗奈は目を丸くした。
「…………」
「……麗奈ちゃん?」
返事がない。
麗奈はケーキを見つめたまま、じっと動かなかった。
……あれ?
もしかして、何か気づかれたのだろうか。
トイレに行ったまま戻ってこないうえ、突然目を閉じてほしいと言い出したのだ。
冷静に考えれば、不自然なことだらけである。
「……麻由さん……」
麗奈の瞳が、みるみる潤んでいった。
……えっ。
涙?
俺は背筋が冷たくなった。
まさか、途中で目を開けていたのか。
あの男の姿を見られてしまったのだろうか。
……ば、ばれた?
終わった。
とうとう俺の秘密が知られてしまったのかもしれない。
「れ、麗奈ちゃん……?」
恐る恐る声をかけると、麗奈は目元を押さえながら口を開いた。
「わたくし……とっても嬉しいですわ……!」
「…………へ?」
「まさか、今日のためにケーキまでご用意してくださっていたなんて……!」
「……えっ?」
「わたくしの誕生日を、覚えていてくださったのですね!」
「…………」
……誕生日?
俺は一瞬、思考が停止した。
そして、ようやく理解する。
……今日、麗奈の誕生日だったのか!?
知らなかった。
いや、以前に聞いていたのかもしれないが、少なくとも今日は意識していなかった。
ケーキは麗奈をもてなすために用意したものだ。喜んでもらいたいと思って買ったのは本当だが、誕生日まで重なっていたとは。
……すごい偶然だな。
麗奈は涙を浮かべながら、幸せそうに笑っている。
ここで誕生日を知らなかったと告げるのも、何だか申し訳ない。
俺は少し迷ったあと、笑顔を向けた。
「……喜んでもらえて、よかったよ」
「もちろんですわ!」
麗奈は勢いよく立ち上がった。
そして、そのまま俺に抱きついてきた。
「麻由さーん!」
「わわっ!?」
慌ててケーキの皿をテーブルへ置く。
「ありがとうございます!わたくし、本当に嬉しいですわ!」
「ふふっ。そんなに喜んでもらえるなんて、私も嬉しいよ」
麗奈は何度もお礼を言いながら、なかなか離れようとしなかった。
その様子を見ていると、こちらまで嬉しくなってくる。
……今度、ちゃんと誕生日プレゼントも用意してあげよう。
俺は心の中でそう決めた。
やがて二人でソファへ座り、ケーキを食べ始めた。
「まあ!とっても美味しいですわ!」
「よかった。気に入ってもらえて」
麗奈は嬉しそうに頬を緩めている。
ほんの少し前まで絶体絶命だったとは思えない、穏やかな時間だった。
……本当に助かったな。
これからは、もう少し自分の身体のことを考えて行動しよう。
そう反省していると、麗奈がふとこちらを見つめた。
「……そういえば、麻由さん」
「ん?」
「何だか、先ほどまでと雰囲気が違いますわね」
「…………っ!」
思わずフォークが止まった。
……またかよ!
「そ、そうかな?」
「ええ。先ほどまでは、とてもおしとやかで、落ち着いた雰囲気でしたでしょう?」
「あ、あはは……そうだった?」
「はい。でも今は、以前の麻由さんに戻られたような気がいたしますわ!」
……ああ。
そういうことか。
生理が始まってから、俺はずっと酒を飲まずに過ごしていた。その間は気持ちも穏やかで、言葉遣いや仕草まで以前とは違っていたのである。
ところが、さっきアルコール入りのチョコレートを三個も食べた。
今の俺には、久しぶりに酒が入っているのだ。
どうやら、その違いが麗奈にも分かるらしい。
「……変、かな?」
俺が尋ねると、麗奈は慌てて首を横に振った。
「いいえ!とんでもありませんわ!」
そして、少し照れくさそうに微笑む。
「最近の麻由さんも、とても魅力的でしたわ。おしとやかで、可愛らしくて……。わたくし、あちらの麻由さんも大好きですの」
「……うん」
「でも、やっぱり……」
麗奈は嬉しそうに続けた。
「いつもの麻由さんの感じですと、何だか落ち着きますわ!」
「…………」
その言葉に、思わず笑みがこぼれた。
「……そっか。ありがとう、麗奈ちゃん」
「ふふっ!こちらこそですわ!」
麗奈は幸せそうに笑い、再びケーキへフォークを伸ばした。
俺もそれを見ながら、小さく息を吐く。
どうやら、今日の騒動は無事に乗り切れたらしい。
麗奈は何も疑っていない。むしろ、誕生日を祝ってもらえたと思って、すっかり上機嫌である。
……よかった。
本当に、よかった。
「麻由さん!ケーキを食べ終わりましたら、ゲームの続きをいたしませんこと?」
「うん!もちろん!」
「ふふっ!今度こそ、麻由さんに勝ってみせますわ!」
麗奈は嬉しそうにコントローラーを手に取った。
俺も笑顔で隣へ座りながら、心の中で大きく息を吐く。
……あっぶねえええええっ!
もう少しで、全部ばれるところだったぞ!
それにしても。
まさか自分の家で、こんなに冷や汗をかくことになるとは思わなかった。
次からは絶対に、冷蔵庫の中身を確認しておこう。
……いや、その前に。
そもそも、こんな綱渡りみたいな生活を何とかするべきなんじゃないだろうか。




