第35話 お嬢様が遊びに来ているのに、男に戻りました
土曜日の朝。
「……うん。これなら大丈夫かな」
リビングを見渡し、ようやく満足してソファに腰を下ろした。
今日は麗奈が遊びに来る日だった。
数日前、学校で休日の予定について話していたところ、麗奈から家に遊びに行ってみたいと言われたのである。
以前、白川家に招いてもらったときには、豪華な食事をご馳走になったり、シアタールームで映画を見たりと、楽しい時間を過ごした。
今度はこちらが招く番というわけだ。
もっとも、白川家のような立派なお屋敷ではない。ごく普通の一人暮らしの部屋である。
それでも、せっかく麗奈が来てくれるのだから、少しでも綺麗にしておきたかった。
昨日は学校から帰ってきたあと、床に掃除機をかけ、棚の埃を拭き、キッチンまで念入りに片づけた。冷蔵庫にはジュースやお茶を用意し、ケーキも買ってある。
「ふふっ。ちょっと頑張りすぎちゃったかな」
思わず笑みがこぼれる。
会社勤めをしていた頃は、休日といえば一人でのんびり過ごすことが多かった。それが今では、学校でできた友達を迎えるために、朝から部屋の確認をしている。
なんだか不思議な気分だった。
ただ、今回の訪問については、それほど心配していなかった。
学校でちゃんと約束をしているし、迎える準備も済ませてある。突然誰かが訪ねてきたときのように、慌てる必要もない。
それに、ここしばらくはお酒を飲んでいなかった。
生理が始まってからというもの、アルコールを摂取しなくても麻由の姿で過ごせるようになっていたのである。
おかげで、毎朝ビールを飲む必要もなくなった。
「……そういえば、何日飲んでないんだろう」
成人してから、これほど長くお酒を口にしなかったことがあっただろうか。
少なくとも、すぐには思い出せなかった。
以前なら休日には何となくビールを開けていた。それが今では、冷蔵庫に並んでいるのはジュースやお茶ばかりだ。
最初は少し物足りなく感じたものの、最近ではお酒を飲まない生活にも慣れてきている。
生理が始まってからは気持ちも穏やかになり、話し方や仕草まで以前とは少し違っていた。学校では遥や麗奈から驚かれたこともあったが、今ではこの感覚も自然に思える。
「……まあ、今日は大丈夫だよね」
今朝の時点では、まだ生理は完全に終わっていなかった。
それなら、今日一日くらいは問題ないだろう。
そんなことを考えていると、スマホが震えた。
『麻由さん、もうすぐ到着いたしますわ!』
「あっ、もうそんな時間なんだ」
麗奈からのメッセージに返信し、玄関の鏡で服装を確認する。
今日は淡い水色のブラウスに、膝丈のスカートを合わせていた。長い黒髪を軽く整え、鏡の中の自分に小さく頷く。
ちょうどそのとき、インターホンが鳴った。
「はーい!」
玄関の扉を開けると、ハニーブラウンの髪をハーフアップにまとめた麗奈が立っていた。
「ごきげんよう、麻由さん!」
「いらっしゃい、麗奈ちゃん」
麗奈は明るい色のワンピース姿で、両手に上品な紙袋を抱えていた。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます!」
「ふふっ。そんなにかしこまらなくてもいいのに。どうぞ、上がって」
「はい!お邪魔いたしますわ!」
麗奈は嬉しそうに靴を脱ぎ、きちんと揃えてから室内へ入った。
そしてリビングへ案内された途端、目を丸くした。
「まあ!とても綺麗なお部屋ですわ!」
「えっ、そうかな?」
「ええ!隅々までお掃除が行き届いておりますもの!」
「ありがとう。昨日ちょっと頑張って掃除したんだ」
「まあ!わたくしのために?」
「うん。せっかく来てくれるから」
そう答えると、麗奈はぱっと表情を輝かせた。
「とっても嬉しいですわ!」
その素直な反応に、自然と笑みがこぼれた。
白川家の大きなお屋敷を知っているだけに、普通の一人暮らしの部屋では物足りなく感じるのではないかと少し心配していた。
けれど、どうやらそんなことはなさそうだった。
「こちらに座って。飲み物持ってくるね」
「ありがとうございます!あっ、それと、こちらをどうぞ!」
麗奈が差し出した紙袋には、綺麗に包装された焼き菓子が入っていた。
「お母様が用意してくださったものですの。ぜひ一緒に召し上がりましょう!」
「わあ、ありがとう。お母さんにもよろしく伝えてね」
「はい!」
オレンジジュースを用意し、二人でソファに並んで腰を下ろす。
しばらくは学校の話で盛り上がった。
永井先生が数学の授業で計算を間違え、生徒に指摘されて慌てていたことなど、同じクラスだからこそ分かる話題で笑い合った。
それから、話は別のクラスの七原愛のことになった。見た目とは異なり、実は面倒見がいいという話をすると、麗奈も嬉しそうに頷いていた。
都市伝説研究部の話題になると、麗奈は特に興味深そうに耳を傾けていた。
「麻由さん、部活動にもすっかり馴染まれたようですわね」
「うん。みんな優しいし、結構楽しいよ。そういえば、麗奈ちゃんは何か部活に入ってるの?」
「わたくしは茶道部ですわ」
「えっ、そうだったんだ」
初耳だった。
「でも、学校での活動はあまり多くありませんの。茶道は幼い頃から自宅でも習っておりますので、そちらが中心になっていますわ」
「へえ、そうなんだ。麗奈ちゃんらしいね」
「ふふっ。今度、麻由さんにもお茶をお点てしたいですわ!」
「本当?楽しみにしてるね」
白川家の立派なお屋敷を思い出す。あの家なら、茶室があっても不思議ではない。
麗奈がお茶を点てている姿も、なんとなく想像できた。
「そういえば、麻由さん」
「ん?」
「以前、一人暮らしをなさっていると伺いましたけれど、お料理やお掃除も全部ご自分で?」
「うん。簡単なものばかりだけどね」
「まあ……すごいですわ!」
「そんなにすごいことじゃないよ」
麗奈は感心したように室内を見回している。
学校へ通うことになった経緯について、麗奈には家庭の事情でしばらく学校へ行けなかったとしか説明していなかった。
理事長である宗一郎さんの助けがあって、今こうして白玲学園に通えている。
麗奈もそのことは知っているが、詳しい家庭の事情まで尋ねてきたことはない。
一人暮らしについても以前ちらりと話しただけで、特に不思議がる様子はなかった。
ありがたいことに、麗奈は必要以上に踏み込んでこないのである。
「わたくし、お料理はまだまだ練習中ですの。麻由さんのように一人で何でもできるなんて、尊敬してしまいますわ」
「ふふっ。じゃあ、今度一緒に作ってみる?」
「まあ!ぜひお願いいたします!」
麗奈は嬉しそうに身を乗り出した。
その勢いがおかしくて、二人で笑い合う。
それからしばらくお菓子を食べながら話していると、麗奈がテレビの横に置かれたものへ目を向けた。
「……あら?麻由さん、あちらは何ですの?」
「ああ、ゲーム機だよ」
「ゲーム機……!」
麗奈の目がぱっと輝いた。
「麻由さん、ゲームをなさるのですか?」
「うん。最近はあんまりやってなかったけど、たまにね。麗奈ちゃんは?」
「わたくし、あまり経験がありませんの。でも、興味はありますわ!」
「じゃあ、やってみる?」
「まあ!よろしいのですか!?」
「もちろん。二人で遊べるゲームもあるし」
「ぜひ!やってみたいですわ!」
予想以上の食いつきだった。
テレビの電源を入れ、ゲーム機を起動する。
選んだのは、かわいらしいキャラクターを操作するレースゲームだった。操作も比較的簡単で、初めてでも楽しめるはずだ。
ところが、麗奈の車はスタート直後から壁に向かって進んでいく。
「あっ、麗奈ちゃん。そっちじゃないよ」
「まあ!こちらですのね!」
今度は反対側の壁へ一直線だった。
「あらあら!?難しいですわね……!」
本人はいたって真剣なのだが、その様子がなんとも微笑ましい。
何度か練習を重ねるうちに、麗奈も少しずつ操作に慣れてきた。やがて初めて上位でゴールすると、嬉しそうに両手を上げた。
「麻由さん!できましたわ!」
「うん!すごいね、麗奈ちゃん」
「ふふっ!とっても楽しいですわ!」
その笑顔につられて、こちらまで嬉しくなってくる。
こうして友達とゲームを楽しむのも、随分と久しぶりだった。
ところが、次のレースを始めようとしたときだった。
「……あれ?」
ふと、下腹部にいつもと違う感覚があった。
強い痛みではない。ただ、何となく気になった。
「麻由さん?」
「あ、ごめんね。ちょっとお手洗いに行ってきてもいい?」
「もちろんですわ!」
「すぐ戻るから、少し待っててね」
「はい!」
麗奈はにこにこと頷き、コントローラーを膝の上に置いた。
ソファから立ち上がり、廊下の奥にあるトイレへ向かう。
扉を閉めてから、ふうっと小さく息を吐いた。
「……そろそろ終わるのかな」
生理が始まってから、もう何日か経っている。
最初の頃に比べれば腹痛もほとんどなくなり、体調もずいぶんよくなっていた。
そして今、確かめてみると、どうやら出血も止まっているようだった。
「……あれ?」
今朝までは、まだ少し症状が残っていたはずなのに。
もしかして、もう終わったのだろうか。
そう考えた瞬間だった。
「……えっ?」
突然、身体の奥に奇妙な感覚が広がった。
胸のあたりがすっと軽くなり、肩にかかっていた長い黒髪が、するすると短くなっていく。
細かった指が大きくなり、目線も少しずつ高くなっていった。
「……うそ」
思わず漏れた声が、途中から低くなった。
聞き慣れた男の声だった。
「…………」
しばらく、その場から動けなかった。
恐る恐る自分の手を見下ろす。
そこにあったのは、つい先ほどまでの細い指ではない。
見慣れた男の手だった。
「……マジかよ」
花川正由、三十五歳。
どうやら、生理が終わったことで元の姿へ戻ってしまったらしい。
水瀬先生から説明されていたことだし、いつかはこうなると分かっていた。
だが、まさか今日、それも麗奈が遊びに来ている最中に終わるとは思わなかった。
「……まずい」
リビングには麗奈がいる。
さっきまで一緒にゲームをしていた麗奈が、麻由の帰りを待っているのだ。
それなのに、今ここにいるのは花川正由だった。
しかも、今日はお酒を一滴も飲んでいない。
ここしばらく飲まずに過ごせていたことが、こんなところで問題になるとは思わなかった。
「……どうするんだ、これ」
狭いトイレの中で、ただ呆然と立ち尽くす。
事前に約束して、部屋も綺麗にして、準備は万全だったはずなのに。
よりによって、一番困るタイミングで元に戻るなんて。
リビングには、何も知らない麗奈がいる。
当然、トイレから麻由が戻ってくるものだと思っているはずだ。
だが、今ここにいるのは、どう見ても全く面識のない男である。
ただ、一つだけ幸運だったことがある。
元に戻ったのが、トイレに入ってからだったということだ。
もし、あと数分早かったら。
麗奈と並んでゲームをしている最中に、突然正由の姿へ戻っていたら。
その時点で、何もかも終わっていただろう。
「……危なかったぁ」
思わず安堵の息を漏らす。
ほんの少しタイミングがずれていたら、完全にアウトだった。
とはいえ、安心している場合ではない。トイレから出れば、そこには麗奈がいる。
そして今の俺は、どう見ても三十五歳の男だ。
「……いや、結局どうすんだよ、これ」
最悪の瞬間こそ避けられたものの、ピンチであることには何一つ変わりなかった。




