第33話 素面の女子高生、どうやら破壊力が高いらしい
翌朝、目を覚まして最初に感じたのは、下腹部の鈍い重さだった。
昨日ほど痛みは強くないものの、腰のあたりまで何となくだるい。しばらく布団の中で丸くなっていたが、目覚まし時計が鳴り始めたところで、ようやく身体を起こした。
「……まだ続くんだよね、これ」
昨夜、気になって生理について調べてみたところ、一般的に三日から七日程度続くらしい。もちろん個人差はあるそうだが、一晩寝れば終わるようなものではないようだ。
毎月こんな思いをしている女性たちには、頭が下がるばかりである。
洗面所へ向かい、鏡の前に立つ。
そこには、昨日と変わらない黒髪の少女が映っていた。
水瀬先生の話では、生理が終わるまでは今の身体のままでいる可能性が高いという。実際、昨日は朝に飲んだ酒の効果が切れたはずの夕方になっても、元の姿には戻らなかった。
そして今朝も、そのままだ。
「……本当に、お酒なしでも大丈夫なんだ」
これまで学校へ行くためには、毎朝のように酒を飲む必要があった。それが今日は必要ないというのだから、何とも不思議な気分である。
朝食を済ませ、制服に着替える。鞄には生理用品を入れ、いつも持ち歩いているアルコール入りのチョコレートも確認した。
こちらはあくまで緊急用である。水瀬先生も身体の状態が必ず同じとは限らないと言っていたので、念のため持っておくことにした。
身支度を終え、鏡の前でリボンを整える。
少し曲がっていたので直そうとしたところ、長い髪が頬にかかった。指先でそっと耳にかけ、ついでに前髪も整える。
その何気ない動作に、ふと違和感を覚えた。
「……あれ?」
以前なら、髪が邪魔になれば適当にかき上げていたはずだ。それなのに、今は妙に丁寧な仕草が自然と出てくる。
しかも、鏡の前で首を少し傾けていることに気づき、何となく恥ずかしくなってしまった。
「……何やってるんだろ」
小さく笑って鞄を手に取る。
昨日から、どうにも調子が違う。
身体だけでなく、気持ちまで少し静かになったような気がしていた。
白玲学園の校門をくぐる頃には、朝の眠気もだいぶ薄れていた。
ただ、下腹部にはまだ重たい感覚が残っている。いつものように元気よく歩く気にはなれず、自然と足取りもゆっくりになった。
教室へ入ると、すでに多くの生徒が登校していた。
「おっ、花川!おはよう!」
自分の席へ向かおうとしたところで、男子のクラスメイトに声をかけられる。
「あ……おはよう」
顔を上げ、控えめに微笑んで返事をする。
すると、男子がぴたりと動きを止めた。
「…………」
「……どうかした?」
「い、いや!何でもない!」
なぜか顔を赤くした男子は、慌てて自分の席へ戻っていった。
その様子を不思議に思っていると、近くにいた別の男子が彼の肩をつついた。
「おい、今の見たか?」
「見た。何あれ……」
「いつもの花川もかわいいけど、今日のは何か違うよな」
「分かる。あんな感じで挨拶されたら、ちょっとやばいって」
……聞こえてるんだけど。
ただ、何がそんなに違うのかは分からなかった。いつもどおり挨拶したつもりなのに、今日は妙に反応が大きい。
首を傾げながら席に着くと、隣からすぐに声が飛んできた。
「麻由ちゃん!おはよ!」
「あ、遥ちゃん。おはよう」
「昨日は大丈夫だった?早退したあと、心配してたんだよ!」
遥は椅子をこちらへ向け、顔を覗き込んできた。
昨日は生理痛がひどくなり、午前中のうちに帰宅した。遥も事情を知っているので、心配をかけてしまったらしい。
「……うん。昨日よりは、だいぶよくなったよ」
「本当?まだお腹痛い?」
「少しだけ。でも、昨日ほどじゃないから」
「そっか……。でも、生理のときは無理しちゃ駄目だよ。つらくなったら保健室に行きなね」
「……うん。ありがとう、遥ちゃん」
心配してくれることが嬉しくて、自然と頬が緩んだ。
すると、遥は一瞬動きを止めた。
「…………えっ」
「……遥ちゃん?」
「い、いや!何でもない!」
遥は慌てて顔を背けた。
よく見ると、耳まで赤くなっている。
「……麻由ちゃん、今日なんかずるい」
「……ずるい?」
「ううん!こっちの話!」
そう言って机に向き直る遥だったが、何やら落ち着かない様子だった。
そんなことを考えていると、教室の入り口から聞き慣れた声が響いた。
「麻由さん!おはようございますわ!」
「麗奈ちゃん。おはよう」
「まあ!今日は登校なさったのですね!」
麗奈は嬉しそうに近づいてきたが、すぐに心配そうな顔になった。
「昨日は生理痛がひどかったのでしょう?お身体はもう大丈夫ですの?」
「うん。昨日よりは楽になったよ」
「そうでしたのね。ですが、まだ少しおつらそうですわ」
麗奈はそっと身をかがめ、顔を覗き込んできた。
「生理のときは無理をなさらないでくださいませ。授業中でも、具合が悪くなったら先生にお伝えするのですわよ?」
「……うん。ありがとう」
昨日もずいぶん世話になってしまった。
生理用品を分けてもらったうえ、教室まで付き添ってくれたのだ。あのとき麗奈がいなかったら、きっともっと慌てていただろう。
「昨日も、いろいろ助けてくれてありがとう。麗奈ちゃんがいてくれて、よかった」
改めて礼を言うと、麗奈は目を丸くした。
「ま、まあ……!」
そして、なぜか頬を赤らめる。
「そ、そのようにおっしゃっていただけるなんて……わたくし、とても嬉しいですわ」
「……本当のことだよ?」
「まあ!」
麗奈は口元に手を当て、ますます赤くなってしまった。
その様子を見ていた遥が、隣で小さく呟いた。
「……麗奈ちゃんまで」
「……?」
何のことか尋ねようとしたところで、予鈴が鳴った。
麗奈は自分の席へ戻り、遥も慌てて教科書を取り出す。
こうして、いつもと少し違う朝が始まった。
ところが、妙なことはそれだけでは終わらなかった。
授業中、先生に当てられて答えると、近くの男子がなぜかこちらをちらちら見てくる。消しゴムを落として拾ってもらったときも、礼を言っただけで相手が妙に慌てていた。
休み時間には、女子生徒たちからも声をかけられた。
「ねえ、花川さん。今日なんか雰囲気違わない?」
「えっ……そうかな?」
「うん!いつもは明るくて大人っぽい感じだけど、今日はすごくおしとやか!」
「分かる!何ていうか、ちょっと守ってあげたくなる感じ?」
「いつもの花川さんもいいけど、今日も今日でかわいいよね」
……おしとやか。
まさか自分がそんな言葉で褒められる日が来るとは思わなかった。
しかし、言われてみれば思い当たることもあった。
誰かに話しかけられると、自然と首を傾けてしまう。笑うときには無意識に口元へ手を添え、椅子に座るときも膝を揃えている。
以前は女子高生らしく見えるよう、意識して仕草に気をつけていた。
ところが今日は、そうした動作が勝手に出てくるのだ。
それだけではない。誰かに褒められると妙に恥ずかしくなり、視線を合わせ続けることさえ難しい。
……これも、お酒を飲んでいないせいなのかな。
そんなことを考えているうちに、午前中の授業が終わった。
昼休みになると、教室は一気に賑やかになった。
麗奈は持参したお弁当を広げ、遥は昼食を買いに購買へ向かった。
自分はというと、まだあまり食欲がなかったので、少しだけ廊下を歩くことにした。座りっぱなしだったせいか腰が重く、軽く身体を動かしたかったのだ。
窓から差し込む日差しが暖かく、歩いているうちに少し気分もよくなってきた。
そのとき、向こうから見覚えのある金髪が歩いてきた。
「おっ、花川じゃん!」
七原愛だった。
相変わらず少し着崩した制服に、明るい金髪。今日もいかにも不良少女らしい格好をしている。
「あ……七原さん」
小さく手を振ると、七原は気軽に近づいてきた。
「何してんの?一人?」
「うん。ちょっと歩いてたの」
「へえ。珍しいじゃん。いつも麗奈と一緒にいるイメージだけど」
「麗奈ちゃんは遥ちゃんと購買に行ってるよ」
「そっか。じゃあ、あとで二組に顔出そうかな」
七原はそう言いながら、こちらの顔を見た。
そして、なぜか動きを止めた。
「……ん?」
「……どうしたの?」
「いや、花川さ……今日なんか雰囲気違わない?」
またその話だ。
朝から何度も言われているので、さすがに気になってきた。
「……そうかな?」
「うん。何か、いつもより大人しいっていうか……」
七原はまじまじと顔を見つめてきた。
あまりにじっと見られるので、何となく恥ずかしくなってしまう。
「……そんなに見ないでよ」
小さく呟いて視線を逸らすと、七原が息をのんだ。
「…………っ」
「……七原さん?」
「い、いや!何でもない!」
七原は慌てて顔を背けた。
その耳が少し赤くなっている。
「……何なのよ、今日の花川……」
何やら小声で呟いているが、よく聞こえない。
「……?」
「いや、だから何でもないって!」
七原は大きく咳払いすると、腕を組んでいつもの調子を取り戻そうとした。
「……いかんいかん。あたしまで何やってんだか」
そんな言葉が聞こえた気がしたが、意味は分からなかった。
「そういえばさ、花川」
「……何?」
七原は少し声を落とした。
「今日って、お酒飲んでないの?」
「…………」
思わず身体がこわばった。
そうだった。この子には、初登校の日に酒を飲んでいたことを知られている。
「……飲んでないよ」
「えっ、マジ?」
「……うん」
「へえ。じゃあ、今日の花川って素面なんだ」
七原は妙に感心したようにうなずいた。
「なるほどねえ。だからいつもと違うのかな。普段は結構大胆な感じなのに、今日は何か――」
「……七原さん」
「ん?」
「……もう、その話やめてよ」
思っていたよりも小さな声が出た。
別に怒ったわけではない。ただ、今日はあまりその話をされたくなかった。
すると、七原の表情が一気に変わった。
「ご、ごめん!」
慌てて両手を振り、申し訳なさそうに頭を下げる。
「そんなつもりじゃなかったんだって!ちょっと気になっただけで……」
「……ううん。私もごめんね」
「いや、花川が謝ることじゃないし!」
七原は困ったように金髪をかき上げた。
「……あたし、ちょっと調子に乗ってたかも」
普段は強気な彼女が、こんなふうに素直に謝るのは珍しい。
その様子が何だか微笑ましくて、自然と頬が緩んだ。
「……大丈夫だよ。気にしないで」
「…………っ」
七原が再び固まった。
そして、慌てたように口元を手で押さえる。
「……だから、そういうの……」
「……?」
「な、何でもない!」
七原は勢いよく顔を上げた。
「とにかく、具合悪いなら無理すんなよ!花川、前にも体育でひどい目に遭ってたじゃん!」
「……うん。ありがとう」
「べ、別に!また面倒なことになったら困るし!」
そう言って腕を組む姿は、初めて会ったときと変わらない。
ただ、今日はいつもより少しだけ優しく見えた。
七原と別れたあと、廊下の窓際で足を止めた。
朝から、どうにも妙な一日だった。
周囲の反応が違うだけではない。自分自身の仕草や言葉遣いまで、知らないうちに変わっている。
これまでは、麻由の姿でいても中身は何も変わらないと思っていた。
少なくとも、そう信じていた。
けれど、今はどうだろう。
お酒を飲んでいないからなのか。それとも、生理が始まったことと何か関係があるのか。
窓ガラスに映る少女は、少し困ったような顔をしていた。
「……どっちが本当の私なんだろう」
ぽつりと呟いた言葉に、自分自身が驚いてしまう。
今までの明るくて、少し大胆な麻由。
そして、今日のように控えめで、ちょっとしたことで恥ずかしくなってしまう麻由。
どちらも無理に演じているつもりはない。
だからこそ、余計に分からなくなる。
「……変なの」
考えても、今すぐ答えが出るようなことではない。胸の奥に残った小さな戸惑いは、なかなか消えてくれそうにない。




