第32話 素面の俺は、どうやら清楚系美少女らしい
女子トイレの個室で、俺はスマホの画面を見つめていた。
表示されているのは、水瀬千尋先生の連絡先である。
「……何て聞けばいいんだ、これ」
下腹のあたりが重く、ときどき鈍い痛みが走る。麗奈からもらった生理用品のおかげでひとまず落ち着いたものの、問題が解決したわけではない。
何しろ、俺にとっては初めての経験なのだ。
生理が来たこと自体も驚きだが、それ以上に気になるのは、今後の身体のことだった。
普段なら時間が経てば男の姿に戻る。しかし、生理中でも同じように戻るのだろうか。そもそも、元の姿に戻ったら、この症状はどうなるんだ?
考えても答えは出ない。
俺は覚悟を決め、水瀬先生にメッセージを送った。
『おはようございます。花川です。突然すみません。身体のことで少し相談したいことがあるんですけど、今お時間ありますか?』
先生は医者なのだから、当然仕事もある。返事は昼頃になるかもしれないと思っていたが、一分もしないうちに既読がついた。
『あら、おはよう。昨日の今日でどうしたの?何かあったのかしら?』
……返信、早いな。
俺は少し迷ってから、事情を説明することにした。
『実は、今朝からお腹が痛くて、さっき生理が来たみたいなんです』
『あら、そうなのね。痛みはひどいの?』
『結構つらいです。腰も重くて』
『それは大変ね。今は学校かしら?』
『はい。友達に生理用品をもらって、今はトイレにいます』
そこで一度、返信が途切れた。
やはり忙しいのだろうかと思ったところで、新しいメッセージが届いた。
『あらあら。その身体になってから初めてなのね』
「…………」
俺は思わず画面を二度見した。
……その身体になってから?
何だか、ずいぶん事情を知っているような言い方じゃないか。
しかも、続けて届いた文章はさらに予想外だった。
『女の子として、またひとつ階段を上れたということね。おめでとう♪』
「……おめでとうじゃねえよ」
思わず小声で突っ込んでしまった。
こっちは腹が痛くて困っているというのに、何をのんきなことを言っているんだ、この先生は。
『先生、からかわないでください。こっちは真剣なんです』
『ふふっ、ごめんなさい。もちろん心配しているわよ。ただ、あなたの身体が女性として働いているということでもあるの。驚いたでしょう?』
『はい。こんなこと、初めてなので……』
そこまで打って、俺は改めて考えた。
水瀬先生は俺のことをどこまで知っているのだろう。
昨夜の会話からして、何かを隠していることには気づいている。ひょっとすると、もともと男だったことまで勘づかれている可能性も高い。
もっとも、俺だって先生が例の少女ではないかと疑っているのだから、お互い様か。
それより、もっと重要な問題がある。
『先生、それより聞きたいことがあるんです』
『なあに?』
『こういうときって、身体はどうなるんでしょうか?その……普段とは違う状態が続いたりするんですか?』
かなり遠回しな質問になってしまった。
しかし、元の姿に戻るかどうかなんて直接聞けば、自分の秘密を認めるようなものだ。
しばらくして、返事が届いた。
『ああ、そのことね。それなら心配しなくて大丈夫よ。生理が終わるまでは、今の身体のままになるはずだから』
「…………へ?」
俺は画面を凝視した。
今の身体のまま?
生理が終わるまで?
『えっと、それはどういう意味ですか?』
『ふふっ。あなたが心配していることへの答えよ。生理の間は、身体の状態が普段のようには変わらないということ』
「……マジか」
思わず声が漏れた。
そんな仕組みになっていたのか、俺の身体。
つまり、生理が終わるまでは麻由の姿のままということか。
『先生、どうしてそんなことが分かるんですか?』
『私も同じ経験をしているからよ』
「…………!」
今度こそ、俺は目を見開いた。
同じ経験。
つまり、水瀬先生も生理中は姿が変わらなくなるということか。
昨夜の小さな少女が本当に先生だったとすれば、少女から大人の女性になる体質なのかもしれない。
『先生も、そういうことがあったんですか?』
『ええ。でも、詳しいことはまだ秘密よ。昨日もお話ししたでしょう?』
「……やっぱり教えてくれないか」
まあ、仕方ない。
俺だって自分の正体をすべて話したわけではないのだから。
ただ、これでひとつ分かったことがある。
生理が終わるまでは、麻由の姿を維持するために酒を飲む必要がないらしい。
これはかなり大きい。
毎朝、時間を気にしながら学校へ通わなくてもいいのだから。
……もっとも、腹痛と引き換えというのは、あまり嬉しくないけどな。
すると、水瀬先生から新しいメッセージが届いた。
『ただし、私の経験ではそうだったけれど、あなたの身体も必ず同じとは限らないわ。それに、本当に生理による症状なのかも、診察しないと断定できないから』
『分かりました』
『痛みがひどいときは無理しないこと。今日は学校を休んでもいいくらいよ』
俺は下腹を押さえた。
確かに、さっきから痛みが続いている。
これから何時間も授業を受けることを考えると、正直かなりつらい。
続いて、生理用品や薬についても尋ねてみた。
先生は学校の近くにある薬局を教えてくれたうえで、必要な生理用品の種類や、痛みが続く場合の対処についても丁寧に説明してくれた。
薬についても、健康診断の結果を踏まえたうえで相談に乗ってくれた。
『ありがとうございます。今日は早退しようと思います』
『ええ、それがいいわ。帰る前に学校の先生にも伝えてね。お大事に』
最後にかわいらしいスタンプが送られてきた。
……本当に、つかみどころのない人だ。
人の秘密を見透かしたようなことを言うくせに、自分のことはほとんど教えてくれない。
それでも、困ったときに相談に乗ってくれるのはありがたかった。
俺はスマホをしまい、ゆっくり立ち上がった。
個室を出ると、洗面台の近くで麗奈が待っていた。
「麻由さん、大丈夫ですの?ずいぶん長かったので、心配しておりましたわ」
「あ、ごめんね。ちょっと調べ物をしてて……」
「そうでしたの。お身体の具合はいかがです?」
「まだお腹が痛くて……。今日は早退しようと思う」
そう告げると、麗奈の表情が曇った。
「まあ、それでしたら無理をなさってはいけませんわ。すぐに先生へお伝えしましょう」
「うん。ありがとう、麗奈ちゃん」
麗奈と一緒に教室へ戻ると、待っていた遥がすぐに駆け寄ってきた。
「麻由ちゃん!どうだった?大丈夫?」
「うん。でも、今日は帰って休むことにしたよ」
「ええっ!?そんなにつらいの?」
「ちょっとね。寝ればよくなると思うから」
「そっか……。じゃあ、今日はゆっくり休んでね。部活のことは気にしなくていいから!」
「ありがとう、遥ちゃん」
麗奈も心配そうに俺の顔をのぞき込んだ。
「麻由さん、わたくしの家の車を手配いたしましょうか?」
「いやいや、そこまでしなくても大丈夫だよ!」
「ですが、お一人で帰られるのは心配ですわ」
「歩けないほどじゃないから。本当にありがとう」
何とか二人を安心させたあと、俺は職員室へ向かった。
事情を説明すると、永井先生もすぐに心配そうな顔になった。
「花川さん、顔色が悪いわね。朝から具合が悪かったの?」
「はい。ちょっとお腹が痛くて……」
「そう。無理しないで、今日は帰って休みなさい。途中でつらくなったら、保健室にも寄ってね」
「ありがとうございます」
こうして、俺は白玲学園に通い始めてから、初めて早退することになった。
帰り道、学校の近くにあるドラッグストアへ立ち寄り、水瀬先生に教えてもらった生理用品と薬を購入した。
売り場には予想以上にたくさんの商品が並んでいて、どれを選べばいいのか迷ってしまったが、何とか必要なものを揃えることができた。
買い物を終える頃には、また下腹が重くなってきた。
「……早く帰ろう」
俺は袋を抱え、ゆっくりと自宅へ向かった。
家に着くと、制服から部屋着に着替え、買ってきた薬を確認した。
水瀬先生から教えてもらった注意事項を思い出し、説明書を読んでから水と一緒に飲む。
「……これで少しは楽になるといいんだけど」
昨夜は都市伝説研究部の調査で遅くまで起きていたし、今朝からの体調不良も重なって、身体がひどく疲れている。
俺はそのままベッドへ潜り込んだ。
「……少し寝よう」
布団をかぶって目を閉じると、あっという間に眠気が押し寄せてきた。
☆☆
「……ん……」
次に目を覚ましたとき、部屋の中は薄暗くなっていた。
カーテンの隙間から差し込む夕日が、床を淡いオレンジ色に染めている。
「……あれ、何時……?」
枕元のスマホを手に取ると、午後五時十二分と表示されていた。
「……えっ、もう夕方?」
どうやら、ずいぶん長く眠ってしまったらしい。
ゆっくり身体を起こすと、朝から続いていた腹痛が少し和らいでいることに気づいた。
まだ下腹に重たい感じは残っているが、学校にいたときよりはずっと楽だ。
「……よかった」
俺はほっと息を吐いた。
そして、ふと自分の手を見下ろした。
細くて小さな指。肩から流れ落ちる長い黒髪。
「……あ」
そうだった。
今はもう午後五時を過ぎている。
普段なら、朝に飲んだ酒の効果はとっくに切れていてもおかしくない時間だ。
それなのに、俺はまだ麻由の姿をしていた。
「……本当に戻ってない」
水瀬先生の言ったとおりだった。
俺はベッドから降り、洗面所の鏡の前に立った。
そこには、いつもと変わらない黒髪の少女が映っている。
見慣れた顔だ。学校では毎日この姿で過ごしているし、今さら驚くようなことでもない。
それなのに、今日は何となく落ち着かなかった。
「……変な感じ」
鏡の中の自分が、小さく首を傾げる。
普段なら、ここで適当な冗談のひとつも口にしているところだ。自分の顔を眺めて、今日もかわいいな、なんてふざけたことを言った覚えもある。
しかし、今はそんな気分になれなかった。
別に顔が変わったわけじゃない。性格が別人になったわけでもない。ただ、いつもより少し、気持ちが静かなのだ。
考えてみれば、酒が完全に抜けた状態で麻由の姿をしているのは、これが初めてだった。
これまでは多少なりとも酔いが残っていたせいか、何かと勢いで行動していた気がする。初対面の相手にも案外平気で話しかけられたし、多少恥ずかしいことがあっても、あとから一人で頭を抱える程度で済んでいた。
ところが今は、鏡に映る自分を眺めているだけで、妙に照れくさい。
「……かわいい、とは思うけど……」
口に出した途端、頬が熱くなった。
……何を一人で言ってるんだ、俺は。
別に自分の顔を褒めたところで、誰かに聞かれるわけでもない。それなのに、何だか恥ずかしくて、思わず視線をそらしてしまった。
酒の勢いというのは、思っていた以上に便利なものだったらしい。
もっとも、それに頼っていたこと自体、あまり褒められた話ではないのだが。
俺は洗面台に手をつき、もう一度鏡を見た。
長い黒髪に、大きな瞳。少し眠そうな表情をした少女が、こちらを見返している。
いつもの麻由だ。
ただ、今までよりも、その姿を自分自身のものとして意識してしまう。
制服を着ているときは、周囲に合わせて女子高生らしく振る舞うことばかり考えていた。言葉遣いや仕草に気をつけて、正体を怪しまれないようにする。それだけで精いっぱいだったのだ。
けれど、今は家に一人きりで、誰かの目を気にする必要もない。
それでも、何となく大きな声を出すのがためらわれるし、鏡の前でふざけるのも落ち着かない。
「……私、どうしたんだろ」
ぽつりと呟いてから、俺は少し驚いた。
今、自然に「私」と言った。
学校では意識して使っている一人称だが、家で一人のときまで口にしたことは、あまりなかったはずだ。
……まあ、今の見た目にはそっちのほうが似合うんだろうけど。
もちろん、頭の中まで別人になったわけではない。
自分が花川正由であることも、これまで男として暮らしてきたことも、ちゃんと覚えている。
ただ、今の自分には「俺」と声に出すより、「私」と言うほうが、何となくしっくりくる。
そんな小さな変化に気づくたび、少し戸惑ってしまうのだった。
「……明日、ちゃんと学校に行けるかな」
思わずそんな言葉が漏れた。
別に、学校へ行くのが嫌になったわけじゃない。麗奈や遥に会うのは楽しみだし、授業だって何とかついていけている。
ただ、今の調子で二人と話したら、いつもと違うと思われるかもしれない。
遥に勢いよく話しかけられたら、ちゃんと返事ができるだろうか。麗奈に顔をのぞき込まれたら、妙に緊張してしまいそうな気もする。
……何だか、本当に転校初日の女子高生みたいな心配をしているな。
自分でもおかしくなって、小さく笑った。
その笑い方まで、いつもより控えめだった気がする。
俺は鏡から離れ、長い髪を指先で軽く整えた。
酒が入っていないせいなのか、体調がまだ万全ではないからなのか、それとも両方なのか。
理由は分からない。
ただ、今まで知らなかった麻由の一面を、少しだけ見つけたような気がした。
「……まあ、何とかなるよね」
そう呟いて、俺は寝室へ戻った。
明日になれば、またいつもどおりに振る舞えるかもしれない。
けれど、そのときの俺はまだ、この小さな変化が学校で思いがけず注目を集めることになるとは、考えてもいなかった。




